第2話
息を切らしながら、闇に包まれた道を走る。心臓の鼓動の度に胸は締め付けられ、負荷に耐えかねた脳味噌が酸素を欲し意識を混濁させる。顔全体を覆う仮面が息苦しさと圧迫感を助長する。それでもなお、私は前へ前へと足を動かし続けていく。
こうまでして走り続けなくてはならない理由は至極単純。私、ヘリィ・ギブスンという人間が、この国の正義や法律そのものに反しているからだ。
この街リクタリアは光都という通称を有しており、その名の通り街全体が無数の照明によって飾り付けられ巨大な夜景を構成している。闇という闇を排除した潔癖とも取れる景観は、世界で一番夜が遠い場所と謳われるほどだ。この街から出たことのない私に、その真偽はわからないが。
そんな白光に包まれた街の中、存在してはならない暗闇を私は逃げ続けていた。この道を通る回数は既に二桁に達するほどになるが、今この瞬間も闇の中に肌を浸している感覚に恐怖を覚え、悪寒が湧き上がる。体と心に染み付いた習性は理性では塗り潰せないことを身をもって理解させられる。
激しく体内で反響する自分の荒い息の中に、かすかに、しかし確実に他人の足音を捉える。それが何を意味するのか理解するより早く、目の前に閃光が飛び込んできた。
「おい、止まれ! 早まるな!」
銃口。白く塗りつぶされた視界が色彩を取り戻すと、暴力的な光を放つランプと、その光によって黒く輝くリボルバーの銃身が同時に目に飛び込んできた。
遅れて、それを両手に携えているのが白い制服の男であることを認識する。HNS、光都警備隊。この街の治安を守る最終執行機関。この国で唯一実弾銃の所有を許された組織。
「はあっ……はあっ……ちっ!」
舌打ちすらままならないほど乱れた呼吸。全身が燃えるように熱く、四肢は疲労を越え鈍い痛みを発している。私の体全てが限界であることを主張し、もうこれ以上長くは走れないという現実を突きつけてくる。目前に迫っている死の恐怖と相まって、意識していないと身体中から力が抜けてしまいそうだ。
それでも、諦めるわけにはいかない。私がここでHNSに捕えられたなら、私の一生を賭けても取り返せない、私には想像もできないような大きな何かが崩れ去ってしまうことを知っているからだ。
「動くなよ、少しでも動いたら身の安全は保証できない」
警備隊として真っ当なセリフでこちらを牽制する男。彼もまた緊張しているのか、瞳孔に映るランタンの光はゆらゆらと揺れている。
私は自分の運命を呪った。無条件に諦められる状況ならどれほど良かったかと。
上着の陰に忍ばせたの私の右手が、目の前に突きつけられたのと同じ凶器を握りしめていることを、心の底から呪った。
「両手を上げてくれ、俺だって市民を撃ちたくはないし、お前だって撃たれたくはないだろう?」
私も全く同じことを思ってるさ、と心の内で毒づく。
「お前の身に何があったのかはわからないが、きっとどこかに助けがあるはずだ。ここはそんなに悪い街じゃない、だろ?」
二年前は私もそう思っていた。
今だって、半分くらいはそう思っている。
だが、今の私は、この街に靡く訳にはいかない。
その覚悟は、引き金を引く覚悟はとうの昔に終わらせたのだ。今さら後戻りはできない。
視線を逸らした私に少し気を緩めた様子の警備隊員、緊張の中のその隙に一気に銃身を引き抜き、両手を使い照準を男に合わせる。
「なぜ、どこでそんなものを……」
今まさに自分に突きつけられている凶器を前に、男は目に見えて怯えを現し、両腕をわずかに振るわせた。思わぬ好機に喜ぶ私の野蛮な理性の裏側で、絶望に似た何かが渦巻く。
私の17年の人生の中で、目の前の人間に実銃を向けるのは初めてのことだった。他人の命を奪うためにあげられた両腕は今も震えている。
一方で、武器商人の家系に生まれた私は、7歳のとき実銃を始めて握らされて以来、真贋問わず様々な火器の鍛錬を経験してきた。心理状況が万全でないとはいえ、一度照準を合わせた相手を撃ち漏らすようなことはない。
呆けていた男性隊員が我に帰り、改めて銃身を構え直そうとする。ぷつりとちぎれてしまいそうなほど張り詰めた私の視神経はそれを見逃さず、全身の神経が無意識のうちに筋肉を収縮させ、引き鉄に掛けた指に力が加わる。
殺せ。
頭と体が喚く。シンプルかつ原始的な一つの命令に私の全てが支配される。
「⋯⋯ごめんなさい」
今まさに私が命を奪おうとしている男の怯えたような表情は、薄暗闇の中にも関わらず残酷なほどくっきりと脳裏に焼きついた。
そして次の瞬間、爆発音とともに目の前が暗転する。
「もっと楽しいことしようよ、せっかく聖なる光の届かない場所なんだからさ」
跳ねるように無邪気な声音、釈に障るほど気取った発音、少女の声が本来の闇を取り戻した地下通路に軽薄に響く。
しばしの静寂の後、
「畜生!! ランタンが消えたのか!? おいお前、何をしやがった!?」
同じく視界を失い、取り乱した男の喚き声。
「一途に追いかけてくれたところ悪いけど、コイツは私が貰ってくから!」
楽しそうな笑い声とともに闇の中で私の左手首が握られ、前へ前へと引っ張られる。僅かに煙臭い冬の空気の中、少女の冷えた手のひらだけを頼りに私も走り出す。
「どこの子供かは知らないが、ふざけるにも限度がある!
拳銃とウリエル光は遊びで扱っていいものじゃない、この街に住んでいるならそれくらい知ってるだろう!」
既に遠く離れた位置から、男の怒号が聞こえる。かなり余裕を失っている様子だが、それでもこちらの行く末を案じている彼の正義感には感嘆せざるをえない。
「知ってるさ。その二つについては、お前よりずっと深く」
息を切らしながらもぼそりと呟く彼女の声は、やはり少し楽しそうに聞こえた。
しばらく闇の中を走り続けていると、やがて頭上から鈍い温色の光が降ってきた。存在自体がタブーの地下空間の出口は、滅多に一般人の通らない農業地区の一角につながっている。追ってくる気配が完全に消えたのを確認し、前進するペースを落とすと少女が私の顔を覗き込んできた。
「間に合って良かったよ。既に口説かれてたら一ヶ月は濡れた枕で眠らなきゃならないところだった」
悪戯っぽく笑う少女。仄灯りのおかげで今は彼女の表情まで確認できる。いつみても適度にボサボサに伸ばされた黒髪と意地悪に歪んだ口元、垂れ気味だが鋭く光を反射する鈍赤色の瞳。どんなに邪険にされようと止まることのない減らず口。
「とりあえず助かった。ありがとう、シュレ」
「それはどうも。これでヘリィポイントも少しは溜まったかな?」
ヘリィポイントとは私が感謝感激したときに贈呈されるらしい私非公認のパラメータだ。一定以上貯まると私にイイコトをして貰えると吹聴されているが、それを信じているのは考案者である目の前の少女だけである。
「そのヘリィお嬢様を危険に巻き込んでまで探してたものは見つかったのか?」
「⋯⋯ま、全てがうまく行くとは限らないよね」
「マイナス20点」
「厳しいなあ」
肩を落とすシュレを横目に見ながら夜道を歩いていく。リクタリア北東部に広がる農業地区の端、日中ですらほとんど人通りのない巨大な穀物畑の脇道。先程までの死線が嘘のように穏やかな春の夜が、新緑が芽生え始めている農地を包んでいた。少し遠くに立つ背の高い管理棟、その四方に取り付けられたウリエル灯の白光に星々こそ掻き消されているが、この街では珍しい夜の息遣いを感じられる場所だ。中央通りの煌びやかなイルミネーションはあらゆる人の目を奪うが、この辺りの静かな光に満ちた夜道を私は気に入っている。
「ま、そう言いながらも今日もデートに付き合ってくれてありがとね」
「たまにはお前のお守りしてやらないと、ロッカが休めないからな」
「最近あの娘が私を見る目に本格的に呆れが混じり始めてるんだけど、あそこから追い出されたりしないよな、私」
「反省しろ」
「そうなったらまたお前の家に押しかけるからな、覚悟しとけよ!」
軽口を叩きながら歩いていると、次第に降り注ぐ光量が強くなってきた。居住区に近づいてきた証だ。
「じゃ、また今度な ヘリィ」
「おう」
ひらりと体を翻し、シュレはたった今歩いてきた方向へと歩み始めた。光の下から逃れるように。私はそれを意識して無視し、引き続き街の方に歩き続ける。
シュレ・グラッチは幾つもの側面を持つ。高名な科学者夫婦の娘。世紀の天童と呼ばれた少女の妹。不運な事故によって焼死したはずの亡霊。光都の闇ともいえるアンダーグラウンドで人を騙しながら生き延びる幼娼。そして、光都を憎む我らがテロ集団の主導者。どれもHNSに命を狙われるのに十分な肩書きだ。そんな超要注意人物と表通りを歩くわけにもいかないため、彼女とはいつもここで別れることになっている。
まだ冷たい夜風に紛れるように、ちらりと後方を仰ぎ見た。同い年ながら自分より頭ひとつ小さい彼女の背中が一瞬だけ視界に移り、そして闇の中に消える。次に会うことはないのではと思わされるほど儚いその姿は、対照的にいつまでも私の脳裏に焼きついていた。
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