with the night ~lost polaris~

Acoh

第1話

「さんかく、さんかく、さんかっくさーん……」

 無意識に口ずさんでいた歌声は、ベーコンの焼ける音の中に混ざり溶けていく。

人参に包丁を入れる固い手触りは心地よく、春先の夕方の暖かさの中で永遠に続いていくかのような安らぎに私は没頭していた。

「さんかく、さんかく……これで最後っと」

乱切りにした人参をざるに移し、水にさらす。熱気のこもる厨房で蒸された両腕に、水の冷たさはよく染みわたった。


 午後4時――酒場「ヴィアベル」の開店まで1時間半。陽が傾く気配を見せ始めたころ、私はいつものように開店前の仕込みに精を出していた。酒場といっても都市中心部の大規模なものではなく、数人の常連以外はほとんど見向きもしない場末の寂れたものだ。一日の客数が二桁に達することは少なく、経営は火の車。したがって仕込みから閉店までの全てをマスターである私が済ませる他ない。もちろん掃除も洗濯も全て私の仕事だ。なぜならここは私の自宅でもあり、実家でもあるから。


 そんなこんなでベーコンが悲鳴をあげる鍋に、刻んだ野菜を投入するタイミングを見計らっていると、不意に明るいベルの音が響き渡った。

 酒屋の正面玄関に誰かが訪ねてきたようだ。表の掛札を準備中に変え忘れていたのだろうか。この店に好んで寄り付く連中なら、まだ開店までしばらく時間があることは把握しているはずだが。


 「はーい、ちょっと待ってくださーい」

 少し迷った後、馬鈴薯と人参を鍋に入れてから、私は台所を後にした。味も時間も妥協するつもりはない。すぐに戻って来れば問題ないはずだ。


 「お待たせしました……って、またアンタか」

 急ぎ足で扉を開けると、そこには黒の制帽を被った栗毛の少女が立っていた。こちらを真っ直ぐ見つめる紅茶色の瞳は、やや怒気を孕んでいる。

 「あんたとは何ですか! これでもれっきとした警察隊の一員なんですよ!

  甘く見ないでください!」

 どこかお淑やかそうな雰囲気の見た目に反し、少女は子供っぽく頬を膨らませた。とても高いとはいえない体躯で余った袖をぶんぶん振り回す姿は、小学校に通い始めたくらいの駄々っ子を連想させる。


 フレーテ・リケンベル巡査。本人が主張する通り、彼女は偽りなくこの街・リクタリアの警察官である。警察手帳を二十分以上確認させてもらった私が言うのだから間違いはない。


 「わかったから。用があるなら中に入って話してもらえない?

  本当はお喋りに興じる暇もないくらい忙しいの」

 「え、ちょ、ちょっと待ってくださいって! 転んじゃいますから!」

 顔を赤くして反抗するフレーテを半ば無理やり酒場の中に引き摺り込む。彼女の話は長い。玄関前で聞いていては料理の準備はおろか開店時間まで説教を食らう羽目になるだろう。

 「どこまで連れて行くつもりですか! カウンターの裏まで入っちゃいますよ!」

 「いいわよ、どうせ大したものは置いてないんだから」

 先程の台所に帰還し、フレーテを椅子に無理やり座らせ、直ぐに調理の続きに戻る。目論見通り、鍋の中は未だ正常の範囲内を保っていた。トングを手に取り、具材が焦げつかないようかき混ぜていく。

 「あまり反抗的な態度を取られると、公務執行妨害の現行犯にしちゃいますよ」

 「堂々と営業妨害するアンタに言われたくないわね」

 少女がじっとこちらを睨んでいる視線が、背中越しでもわかった。そういう子供じみた態度が舐められる原因なのだが。

 「そもそも、私がなんでここに来たのか、貴方はわかっているでしょう?」

 「この店を畳めって言うんでしょ? 聞き飽きたわ」


 一瞬の沈黙。の後に、フレーテはハキハキとした声で続けた。

 「そうは言ってません。ただ、貴方が一人で酒屋を切り盛りしている現状は許されるものではない。だから、せめて貴方が成人するまでは他の人に店を預けてはどうかと薦めているのです」

 「どこの誰が許さないって? あんた以外の誰が?」

 「世間が許さないと言っているのです。だって貴方は……まだ14歳じゃないですか、ロッカ」


 返事をする代わりに、汲んできた水を鍋に投入する。立ち昇る熱気が、私の仏頂面を撫でていく。温かさで満たされたその匂いは、私が覚えている最初の思い出と一緒だった。

 フレーテが諭している内容はもっともなことだった。学生に当たる年齢で働くこと自体、元来この街では許されることではないのだ。ましてや酒屋を一人で切り盛りすることなど、許される道理もない。

 それでも今なおこの店の存続が許されているのは、私がこの店の正当な跡取だからだ。この店の創業者にして前代店主の女は、一人娘とこの店だけを残し一年前にこの世を去った。そうして、この奇妙な不法地帯が誕生したのだった。


 「ま、あんたがこの店を継いでくれるっていうなら考えなくもないけど」

 「わ、私がこの店を!? そんなの無理ですよ!」

 「じゃ、無理。その程度の覚悟もないのに、他人の店の事情に首突っ込まないで」

 突き刺すように言い放った私にフレーテは何も言葉を返さず俯いた。両手は固く握られ、わずかに震えているようにも見えた。

 鍋に香草と牛骨を沈め、ぐるぐると中身をかき混ぜた後に蓋をする。善意からの提言だとわかっている分、彼女を気の毒に思う気持ちはあるが、この沈黙に付き合っている時間の余裕はない。この店の味を作れるのはこの街に、この世界に私一人なのだから。


 「あんたの言ってることが正しいことくらい、私だってわかってる。でも、現実問題、頼る相手なんて私にはいないの」

 「⋯⋯」

 フレーテは何かを言おうと顔を上げたが、すぐに俯いてしまった。

 「本当に私を助けたいと思うなら、夜に客として来て。嫌と言うほど話を聞いてあげるから」

 「いえ、私もまだ未成年ですので」

 「そういえばそうだったわね」


 やるせなさを滲ませた苦笑いをこぼした後、フレーテは溜息とともに椅子から立ち上がった。

 「まあ、今日のところは引き上げてあげますよ。ただし、続けるからには危険と隣り合わせだということは忘れないでくださいね! 火の元とか、照明の位置とか!

  酔っ払い同士が喧嘩を始めたら、すぐに私達を呼ぶんですよ!」

 「わかってる、そう言うのはあんたなんかより慣れてると思うし」

 やれやれ、といった具合で背を向け去ろうとするフレーテを横目で見送る。投入した水が沸騰し、鍋の蓋をカタカタと揺らしている。


 「あ、そういえば最近、物騒な噂が流れて来てるので、巻き込まれそうになったらすぐに相談に来てくださいね。私じゃ不安だったら他の警察官でも、HNSの人達でも良いですから!」

 「こんなみすぼらしい酒屋を狙うのは野鼠くらいだけどね」

 遠ざかる背中にヒラヒラと手を振っていると、ドアを閉じる音がした。厨房は熱気と、一人っきりになった侘しさで包まれる。じきに開店時間が来て、どうしようもない酔いどれの溜まり場になるのだが。

 カタカタと揺れ続ける鍋の蓋をあけ、中身を小皿に移し味見を試みる。上出来。予期せぬ来訪者の上でこの出来栄えなら、そろそろ一人前を自負しても良いのではないだろうか。


 そんなことを考えていると、床下から何かが這いずるような音が聞こえてきた。その音は徐々に大きくなり、そしてすぐ足元まで近づいて来て⋯⋯

 「ロッカ、お腹すいたー。 なんかないー?」

 手が届くほどの距離にある床下収納庫が内側から開き、足音の主がひょこっと首だけを出しこちらを見つめてきた。さながら餌をねだる雛鳥のように。

 これまた成人していない年齢の、のんびりとした表情を浮かべる少女。癖毛気味の金髪の左のもみあげだけ結ってあるのは、昔の知人を真似たものだと聞いている。

 

 「たった今、お巡りさんが来てた。あんたを探しに」

 「ん、足音で誰か帰っていったなあと思ってたけど、警察の人だったんだ」

 えへへと緊張感なく笑う少女に、呆れてため息をつく。仕方がないので机の上に常連から貰ったワッフルがあったのでそれを手渡すと、満面の笑みを浮かべた。どちらが年上か分からなくなるくらいのあどけなさで。

 「そろそろ開店時間だからもう出て来るんじゃないわよ、イーリ」

 「んー、了解」

 本当にわかってるのか不安になるような空返事のあと、イーリは頭を地下に引っ込め、器用に入り口の扉を閉めた。音もなく俊敏なその動作は野生動物を思わせる。


 「ほんと、馬鹿みたいに能天気⋯⋯」

 私が臆病なわけではないのは、先程の巡査様との会話から十分わかっていただけるだろう。そんな私ですら敏感にならなくてはならない理由が、陽の元を避け床下で過ごさなくてはならない理由が、彼女にはあるのだ。

 「こいつのことを知ったら、フレーテはどんな顔するんでしょうね」


 実質的な閉鎖都市となっているこの光都リクタリアに、塀の外の狩猟民族から入り込んできた異邦者。

 この街で警察以上の権力と戦闘力を持つ実質的な自治組織、光都警備隊・通称HNSの元隊員にして、現在は所在を追われる脱走者。

 そして、国家転覆を企むテロリスト集団の一員。


 最後に限っていえば、私ことロッカ・エスペアも同じなのだが。


 複雑な思いを脳内に巡らせながら、それでも今夜の開店に向け、煮え続ける鍋の最後の仕上げに取り掛かる。酒屋というからには各種の酒を提供する必要もあるし、最低限の寝床も準備はしておく必要はある。本職はあくまでも酒屋だ。この店を存続させるためにやるべきことは無数にあり、いつまでもここでじっとしているわけにはいかない。


 光都リクタリアから光が消えることはなく、夜が訪れることはないのだから。

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