9 お持ち帰りするために
その部屋の水道は止まっている。
だから、トイレを使うなら人のいる部屋を利用するしかなかったのだ。
そして『黒幕』は盗聴しているから、
「灯台下暗しもいいところだ……」
電気が止まっているはずの部屋に、明かりがあった。
リビングの真ん中にランタンのようなものが置かれていた。
それはさながらキャンプでもしているかのような光景だった。
明らかに不法侵入だった。違法滞在だった。
「まさか、こんなところにいたとは……」
そこにはさとりちゃんと、のどかから見せてもらった写真に写っていた、少女の姿が。
――
黒髪を二つに結んで、室内であるにもかかわらず、どこか見覚えのあるキャスケットを被っている小柄な少女――どことなく、みのりちゃんに似ているような気もしないでもない。
「桐枝ゆかり、だな……」
「……
その声も、聞き覚えがあるような気がして、鳥肌が立った。普通に寒気がした。
(こんなに、近くにいたのか――。そうだ。近くには公衆トイレも、コンビニもある。住宅街でもじゅうぶんサバイバルできる。それに、盗聴器とかだってそこまで万能じゃない。なるべく近くにいた方がいいはず――)
いろいろと、合点がいく。でも今は、そんなことはどうでもいい。
「さとりちゃん……!」
見つけた。いた。良かった。それだけでいっぱいだった。
それでなりふり構わず、駆け寄って、抱きしめていた。
感極まっていて、嫌われるかもとか気持ち悪がられるかもとか、そういう障害は頭になかった。
抱きしめると、ビクッと腕の中の小さな体が震えるのが伝わった。硬くなる。それで少し、我に返る。だけど放す気にはなれなかった。そうするのが恐かった。
徐々に、その体温が冷えた体にしみ込んできた。緊張が解けるのが分かった。
冷静さを取り戻す。さとりちゃんの着ている服が、少しだけ濡れている。それから、自分がしていることに気付く。勢いでやってしまったのだという言い訳が脳裏をよぎる。体を離して顔を見る勇気がなく、そのまま、ずっとこのままそうしていたかった。
その時、部屋の中を光が走った。
直後に響く、雷鳴。腕の中の小柄な少女が硬直するのが分かった。とっさで、反射的なものだったのかもしれない。その細い腕が、貴緒の背中に触れた。
(ハグをすると、愛情だか幸せホルモンが分泌されるという――)
たぶんこれはそういうやつで、断じてロリコンとかそういうものとは無関係の幸福感。
言葉はたぶん、要らなかった。必要な時はあるだろうが、今はいい。
最初からこうしていれば良かったのだ。それがいちばん、難しかったのだけど。
「離れなさいよ、このロリコン野郎……!」
無視しても良かったが、顔を上げると――LEDランタンの光を反射し、刃物がきらめいていた。
「不法侵入に児童誘拐拉致監禁、お次は銃刀法違反か……」
「あたしは中学生だからカッターナイフは文房具のうちなので全然セーフ! それに刃の長さも基準内だもの! あたしに罪があるとすれば、それは正当防衛でカバーできるわ!」
「話で聞いてた以上にヤバいやつだったようだな……! これが両親の愛情をまともに受けずに育った子どもの末路か……!」
「何よそのド偏見は! 勝手にひとの人生を憐れむな! それにまだ
「さとりちゃんには指一本触れさせないぞ!」
「それはあたしの台詞だから! なんであたしが悪役みたいになってるのよ! それからあたしの敵はアンタ! なんでそっちが前に出てるわけ!? 逃げ隠れしなさいよ!」
「妹を守るのが、お兄ちゃんだ……!」
「なんであたしから守ってるような構図にするわけ!? あとアンタお兄ちゃんでもなんでもないからぁ……!」
首に下げていたタオルをさとりちゃんに渡しつつ、彼女を背後に庇う。
そして貴緒は『黒幕』桐枝ゆかりと対峙する。
「その凶器を下ろせ……」
正直、本気で刺してきそうで今とても心臓がばくばくしている貴緒である。ついこのあいだ、
「下ろしてほしければ、さとりちゃんから離れて」
「それは無理な相談だな。さとりちゃんはこれからお家に連れて帰ります。こんな……コンビニ飯じゃなく、まともなご飯を。何もない床の上じゃなく、ちゃんとベッドで寝かせます」
冷静でいようと努めながら、期せずして訪れたこの機会、どう対応すべきかを必死に考えていた。
――説得、しなければ。彼女との問題を解決しなければ、この先もこういうことは何度でも起こるだろう。
「君も、諦めてお家に帰るんだ。さとりちゃんはもう、うちの子なんだ。うちの子になるんだよ。うちの親父と
「まだ、そうなるとは決まってないでしょ……」
何か企みがあるのかと疑っていたが、彼女の声には力が感じられなかった。
(のどかさんが言っていた通りなんだな……。さすが友達、理解が深い)
計画も何もない。行き当たりばったり、勢い任せの犯行なのだ。
でもだからこそ、何がどうなるか予測がつかない。
「君の気持ちは……分からないでもない、かもしれない」
パッと思いついたよくある台詞を口にしかけて、なんとか軌道修正。しかしそのまま思いつくまま、言葉を続ける。
「お父さんと、美聡さんが結婚すればー、とか……そんなことを考えていたんだろ? 実際なんかいい感じに見えたんだろ? それで、さとりちゃんのことも自分の妹のように思っていたんだ」
……状況だけ見ると、「未来の妹」を守ろうとする貴緒と彼女は、ほとんど同じようなものではあるが。
(あっちには、血の繋がりがあるかもしれない。俺よりもよっぽど、さとりちゃんのことが妹に思えるんだろう――少なくともこの子は、そう思ってるわけで)
でも、と貴緒は続ける。
「君のお父さんが好きだったのは、美聡さんじゃなくて、亡くなったそのお姉さんだ。さとりちゃんのお母さんの方だ」
「……は、はあ? 何を分かったようなことを――」
「君のお父さんに会った。家にいたんだよ、台風対策するために」
「!」
さすがに動揺したようだったが、すぐにその表情は不敵なものに変わった。
「じゃあ、分かるでしょ? つまりそういうことなのよ。あたしこそが、真にさとりちゃんのお姉ちゃんなのよ――」
つまり、血の繋がった義理の姉である、と――
「いや、それはない。失礼承知のうえで確認した。とても勇気がいる質問だった」
「はあ……?」
「だから、君のお父さんは、さとりちゃんのお父さんじゃないんだよ」
「そ、そんなの、まともに答える訳ないじゃない! 赤の他人なんかに……!」
「それはそうだけども。でも――もしも、さとりちゃんが君のお父さんの子どもだったら、それはつまり……君のお父さんも、不倫してたことになるんだぞ」
「っ……」
今、彼女はどういう気持ちなのだろう。過去を抉られて、傷ついているだろうか。それでも、言葉を続けなければ。
「君のお父さんはそういう人じゃない。それに、美聡さんに対してそういう気持ちもない。だから、そちらの結婚は諦めてくれ。君のお父さんには……まあ、うん」
目の前のこの少女はそれでも、さとりちゃんのお姉ちゃんなのだから。
(……じゃなきゃ、さすがにさとりちゃんもこんな空き部屋まで付き合ったりしないよな。哀れなお姉ちゃんに付き合ってあげてたんだ)
その憐れむような目をやめろ! と、ひとの心を見透かしたかのように怒鳴るお姉ちゃんであったが、
「きゃ……!」
ピカ――からの、どごおおんという雷鳴に、さすがに中学生らしい悲鳴を上げた。
「やーい、ビビッてやんの」
仮にも刃物を向けられている状況下で言うべき台詞ではないと自覚しつつも、言わずにはいられなかったのだった。
「っっっ!」
薄暗いため分からないが、たぶん顔を真っ赤にしていることだろう。怒りのせいか、ぶるっと身を震わせた。
「お姉ちゃんよ、もうこんな無益な争いはやめにしよう」
「誰が……、アンタのお姉ちゃんじゃないわよ!」
「じゃあ、妹だ。さとりちゃんのお姉ちゃんを自認するなら、君は今日から俺の妹になればいい」
「何言ってんのよ、気持ち悪い! 頭おかしいんじゃないの……!」
「じゃあ、さとりちゃんのお姉ちゃん、やめる?」
ぐぬぬ、といった感じの表情で睨まれる。貴緒も内心ぐぬぬといった気分だ。どうすれば、この子を説得できるというのか――
「……そうだ、さっきはお家に帰れとか言ったけど、この天気だ、なんならウチに泊めてあげてもいいけど? さとりちゃんが心配だっていうなら、むしろそうすべきだろ」
「なんで、連れて帰る前提で、」
「こんな電気も水道もないところで、さとりちゃんに一晩過ごさせるのか? それがお姉ちゃんのすることか!」
「っ」
「そのせいでさっきだって、ウチのトイレを使わせたんだろ。さとりちゃん、濡れてたじゃんか。風邪ひいたらどうするんだよ。……それがお姉ちゃんのすることか!」
桐枝ゆかりの中のお姉ちゃんであるという自尊心を、着実に削っていく。
「あとな、たぶんだけど君、この数日お風呂とか入ってないんじゃないの? なんかにおうな、この部屋」
「ッ」
特ににおいはしないが、そう言っておけばもっとプライドが傷つくはずだ。
そうやって心を折って、畳んで、お持ち帰りする。それが今考えられる最善の妥協案だと思う。
「トイレとかどうするつもりなんですかね。俺、もう夜中は戸締りしちゃいますけど。チェーンとかつけちゃいますけど」
さっきから、ゆかりが言葉数少なく、それでいて落ち着きがないように見えるが――
「トイレなんて……」
「まさか、その辺に落ちてるペットボトルにするとか、言わないですよねー。それはちょっと、お姉ちゃんとしてどうなのかなーって」
「わかっ……た……」
「うん?」
「分かったわよ……!」
このやりとり、つい最近もした覚えがある。やはり姉妹なのかと、変なところで感慨深い。
「じゃあ、帰ろう。……この部屋の片づけはまあ、明日にでもやるとして」
さとりちゃんも、貴緒の後ろから動かない。
それが何よりの答えだろう。
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