8 嵐の前の胸騒ぎ




 帰るころには、すでに日が暮れかかっていた。


 バスのなか、朝と同じく美聡みさとと二人、貴緒たかおは若干気まずい思いをしながらも、襲い来る睡魔と戦っていた。


 立希りつきは一つ前のバス停で既に降りている。美聡から、部屋にあった『ロロロリ』の限定特装版付属ミニ画集をもらって顔には出さないもののだいぶうきうきしながら帰っていった。著者本人に、目の前で直筆サインを入れてもらったのである。その代わりとして、今日の出来事を口外しないようにと口止めされていた。つまり、サインは口止め料なのだった。


 孝広たかひろからも連絡があった。どうやら配信をリアルタイムで視聴していたらしい。恐らく、視聴者のなかで誰よりも衝撃を受けたのは孝広だったに違いない。なにせ、これまでにおわせることはあっても、きちんと明言されていなかった――「結婚します」という、宣言。

 説明配信前の打ち合わせには一切そのような話は出ておらず、ともすればその場のノリで、流れで、勢い任せに口にしたのではないかという爆弾発言だった。それには横で聞いていた貴緒も驚かされたのだから、孝広の受けた衝撃はいかほどだろう。そういうやりとりがこれまでにあったのかどうか――


 美聡には電話があったものの、貴緒に対してはメッセージで一言、


『帰ったら家族会議』


 とだけあって、正直貴緒は気が重たくて仕方がなかった。


 人生最大のやらかしである。ともすればそれ以上の失敗なんて、今後起こりえないかもしれない。当たって砕けて、痛い目に遭った――という実感はまだ薄いものの、のちのち湧いてくるものなのかもしれない。

 ただ、いい経験にはなったと思う。立希が言っていたように、今日の一件が今後の戒めになるのは間違いなかった。


 それから――


(やらかしはしたけど、大きな進展になった)


 なんとなく、なあなあで続いていた生活に、大きな変化の兆し。


 それがどのような結果になるのかは――今後次第、だろう。


 少なくとも、美聡とは前よりも自然に話せるようにはなった。

 雨降って地固まる、というやつかもしれない。


「これは完全に言い訳なんすけど、俺が美聡さんについて知りたかったのは――今朝話してた、あの『ゆかり』って子について知りたかったのもあって」


 あまり心配や迷惑をかけないよう、大ごとにならないようにと細部は濁しつつ、結婚に反対する第三者の存在がいることを美聡に伝えた。この前の公園での一件はその『黒幕』が仕組んだもので、別にリアルお巡りさんのお世話になった訳ではないんです、とここぞとばかりに汚名も雪いでおいた。


「あぁ、幸子こうこちゃんか――言われてみれば、聞き覚えのある声だったわ……つい取り乱しちゃって、あの時は気付かなかったけど……」


「その人からつい昨日、美聡さんがさとりちゃんの叔母さんっていう話も聞いてて」


「なるほどね――私が締め切りに追われてるあいだに、そんなことが」


「で、聞きたいんですけど――さとりちゃんのお父さんって、知ってますか。あと、さとりちゃんに『お姉ちゃん』とかは……?」


「正直に言うとね、私もさとりちゃんの父親は知らないの。お姉ちゃん……姉にたずねたこともあるけど、亡くなったとだけ……。姉は結婚はしてなかった。……ここだけの話、不倫とかそういうあれだったんじゃないかと、私の中の花撫ちゃんは訴えてる。ただ――」


「……ただ?」


「『お姉ちゃん』のこともそうだけど――もしかして、って思う人はいるのよね。さとりちゃんの父親じゃないかっていう人が――」


 それが、問題の――


桐枝きりえさん――ゆかりちゃんの、お父さん」


「それじゃ――」


「……名前も、ゆかり、さとりって、似てるじゃない?」


「――――」


 あくまで私の想像だけどね、と美聡は付け加えた。


 世話焼きの、近所に住む年の近いお姉さん――ではなく、あるいは本当に血の繋がった姉妹かもしれない――


 それは今後の生活に、いったいどのような影響をもたらすのだろう。




 帰宅すると、家にはピザが届いていた。

 孝広は貴緒を見て何かすごく物言いたげな顔をしていたが、叱るでも褒めるでもなく、「なったものは仕方ない」と一言だけ告げた。


 さとりちゃんも加えて、四人で食卓を囲む――それはさながら、二人が家にやってきた日の夕食の光景と似ていた。


 気づけば、明日であれから一週間――まだ、一週間なのか、という思いもあった。


「で、だ」


 食事もひと段落したところで、おもむろに孝広が切り出した。


「聞いてると思うが、美聡さんは所用で明日、東京のスタジオに向かう」


「あ、うん」


 所用。まだ言葉を濁すあたり、美聡のことを気にしているのだろう。今なら貴緒にも、孝広が美聡の職業について黙っていた理由がよく分かる。

 たとえばそれは自分の日記帳を覗かれたようなもので――「所用」と気遣われたことで逆に、美聡はまるでクエン酸を一気飲みしたかのように身をよじらせていた。同情もするが、身から出た錆ともいえる。


「確か……配信は明日の今ぐらいの時間になるから、たぶん帰りは明後日になる……のかな?」


「う、うん、そう――そこで、相談なんだけども。明日、和庭わばせんせにも一緒に来てもらいたいんだけど、どうかな? ゲストとして――」


 和庭せんせ、というのはつまり、孝広のことだ。配信上ではそのように呼んでいたらしい。それを聞いて、貴緒はあとでそのアーカイブを探してみようかなとも思ったが、自分のやらかしの痕跡と出くわしそうで若干のためらいもあった。


「ゲスト――」


「まあ、その、ね? あんな配信をした訳なので――」


 と、大人二人が気まずそうというか、もじもじとしていてなんだか気持ち悪いなか、事情を知らないであろうさとりちゃんは普段とまるで様子が変わらなかった。うつむきがちに、黙々ともぐもぐしている。生地がもっちりとしたピザだったので、一枚を食べるのにもけっこう時間がかかるのだ。


(結婚の話が進んでる――さとりちゃんは……)


 これから美聡が説明するのだろう。孝広も恐らく、貴緒たちが帰ってくるまでのその覚悟を決めていたのかもしれない。でなければピザは頼まない。


(さとりちゃんはきっと、賛成も、反対もしない。ただ、決定に従うだけだ)


 こっちも、覚悟を決めないといけないな、と思う。




 ――誰もいないリビングスペースでは、さとりちゃんが直前まで観ていたテレビが静かに声を発していた。


 天気予報は、台風の接近を告げている――



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