6 おばさんの目もしんでる




 ――美聡みさとさんは、イズミヒサトだ、と。


 言葉の意味は呑み込めたが、この幼馴染みが何を言っているのか、貴緒たかおはすぐには理解できなかった。


「いや、いやいや」


「いや、正確にはここに映ってるのは『izmn』で、イズミヒサトと『izmn』は別人なんだが、」


「そういう設定はいいから。――お前、今なんて?」


「だから――」


 今度は感情たっぷりに――怒ってるのか喜んでるのか、ともあれいつになく興奮した口調で――立希りつきはもう一度、同じ言葉を繰り返した。


 それを聞いて、貴緒は笑った。知らず、声が震えていた。


「何言ってんだ。確かに名前は似てるなって思ったし、ドールとか、それっぽいなって俺も思ったよ? でも、あれだろ、イズミヒサトって男だろ」


「……性別は、特に公表してない。ちなみにizmnは〝無性別〟だ」


「いや、だって、オタクじゃん?」


「それは偏見だ」


「そうじゃなくて……! 俺、見たんだ。風邪で休んでる時、SNSのつぶやき。それで、ああこれは男だなって。だって、ほら……」


 よほど印象に残っていたのか、一度しか見てないにもかかわらず、そのつぶやきの内容はとてもよく覚えていた。


「『一日に一度は変身ベルトいじりたくなるよね、このガチャガチャ感が堪らないよね』とか!」


「…………」


「『女の子のふとももに挟まれて窒息死するならぜんっぜん構わん』とか!!」


「……あ、うん」


「男だって思うじゃんあんなつぶやきしてたら!!」


「……それは、擁護できないな……」


 立希が折れた。さっきから珍しいことが続く。論破に成功したということはつまり、立希の言い分は間違っていたのだ。


「現実的に考えてな、ある訳ないだろ。だって、あっちは有名人じゃん! SNSもそうだし、チャンネル登録者も70万人いるんだろ? しかも作家だし! 漫画家だし、イラストレーター! なんかアニメ化するみたいな話聞いたぞ親父から! た、確かにうちの親父と仕事で関わる機会はあるかもしれないけど、だからって美聡さんがイズミヒサトな訳ないだろ!」


「…………」


 貴緒の情緒が不安定になるほど逆に、立希は冷静になっていったようだ。うつむくと、スマホを操作して、そして片耳だけぶらさがっていたイヤホンを外すと、それを貴緒に差し出した。スマホも押し付ける。画面を見ると、配信は一時停止されていた。


「見てみろ」


「な、なんだよ……?」


 イヤホンとスマホを受け取り、画面をタップする。再生されると、少年とも少女ともとれる中性的な高い声が響いてきた。他に、男性の声もある。

 凸待ち……関係者からの通話を募集する配信であるらしい。お祝いにやってきた相手と、対戦格闘ゲームを一戦交えるという趣旨のようだ。


 ゲストとizmnの会話と対戦が盛り上がるなか、あるコメントにizmnが反応する。


『チャイムの音? してないよ。変な音? ん? ――ちょっ、待って、ぎゃぁああああああああああ!? 今のなし!』


 あ。


『――美聡さん……!?』


 ああ……。


 そのあとも、ぼそぼそと何か声が乗っていたが――それよりも、目についたのはコメントの流れの速さである。


『誰か来た?』『シンジくん?』『親フラ?』『放送事故』『家族凸きちゃ』


 ……状況は概ね理解した。


 貴緒は再生を停止すると、イヤホンを外し、スマホを立希に返した。

 しばし、無言で見つめあう。


「……なあ、声で気付かなかったのか……?」


「無理言うなよ。というか、それはこっちのセリフだ。私なんか、美聡さんと会ったのは一回、声を聴いたのだってほんの一言二言だぞ。……分かる訳ないだろ」


「……それも、そうだ。俺だって、配信観てたのに、気付かなかった。だって、ほら、声、違うし。でも、言われてみれば……似てる、な」


「私もな、まさかとは思ったよ。この部屋に人が出入りしてるのを見てた時も、これがイズミヒサトだったらあれはアシスタントとか担当編集なんだろうな、て。……でもな、オタクっていうのはリアリストなんだよ。フィクションに親しみすぎて、現実に夢を見れなくなってるんだ。まさか、幼馴染みの父親の交際相手が、イズミヒサトだって、思う訳ないだろ」


 立希の声は落ち着いているようでいて、時折甲高くなったり、ひきつったり、ものすごく動揺しているようなのは貴緒にもとても伝わってきた。


「だって、相手はチャンネル登録者数70万人、SNSのフォロワーだってもうすぐ100万とかいきそうな、そういう有名人なんだから。いくら名前が似てるからって、声が似てるからって、そんな偶然ある訳ないって、思うんだよ……。声が似てる人なんて世の中ごまんといるだろうし、まさか……幼馴染みの、父親の、その交際相手が! もしかしたらイズミヒサトだったり……なんて、そんなのもうなんかキモオタの発想だろ……!」


「お、落ち着けって……」


「というかお前さっきなんか言ってたな! アニメ化ってなんだよ初耳だぞ! 今日の重大発表それだったんじゃないのか!?」


「ち、違う人の話、だったかも……」


 今にも飛び掛かってきそうな勢いの立希相手に後ずさっていて、貴緒は気づく。

 いつの間にか、襖がわずかに開いている。きちんと閉めたはずの、その隙間から――


「!?」


 ……目が合った。


 なんの感情も感じさせない、死んだような眼が覗いていた。


「とりあえず、貴緒くん」


「……あ、はい」


「脱ごっか」


「……はい?」


「靴」




 ――貴緒は玄関に引き返し、靴を脱いでダイニングまで戻ろうとした。


 ……本音を言えば、そのまま部屋を飛び出したいところだったが、幼馴染みを人質にとられていた。逃げられない。


「なんでここにいるの」


 貴緒が玄関から振り向いてすぐ、戻ってくるより早く、美聡の声が飛んだ。


 美聡の顔は土気色をしていた。絞り出したような声は掠れていて、ほとんど虫の息だった。怒っているとか、驚いているとか、そういうのを通り越してなんだかもう悟りでも開いたような穏やかな声音だった。それがむしろコワかった。


「なんで、と言いますと――」


 頭のなかが真っ白になる。心臓が痛いほど高鳴っていて、その音で耳のなかがいっぱいだった。思いついたことを、そのまま口にしていた。


 美聡の鞄にスマホを入れて、その位置情報からこの場所を探り当てたこと――


「『ローリン論理ロンリーロリータ』の三巻」


 と、立希が横やりを入れた。何を言っているのか貴緒にはわからなかったが、美聡には通じたのか、ものすごい勢いで立希の方に顔を向け、目を見開いた。


「『スマホを落としただけにして』……!」


 こくこくと立希が頷く。文脈から察するに、この尾行案のネタ元の話か。


「わ、私のネタかぁ……!」


 膝から崩れ落ちる美聡である。貴緒は戸惑いつつ、続きを話した。


 美聡がいったいどんな仕事をしてるのか、それを知りたくてこうしたと――


「だって、親父にきいたら、口止めされてるとか言うから……変な仕事でもしてるのかと、気になって――」


「く……」


「い、いちおうチャイムとか、押したんですよ……?」


 もう後半はただの言い訳だった。しかし急に叫ぶものだから、何かあったのではないかと心配したのは事実で――


「あ、あたらしい……」


 やがて、美聡は泣きそうな声で、


「新しく買ったヘッドホンの、遮音性の高さが悪いんですぅぁ……!」


 それはもうほとんど悲鳴に近かった。断末魔のようにそう叫ぶと、スライムみたいにどろどろと脱力し、床に溶けてしまった。しくしくと、すすり泣く声が静かな部屋に響いていた。


 目のやり場に困った貴緒は、ダイニングの方に視線をさまよわせる。シンクがあり、冷蔵庫があるが、一般的な家庭のそれとは違って、中央に置かれた広いテーブルには仕切りがあったり資料が積み重なっていたり、と――言われてみれば、それは漫画家の仕事場と聞いて連想するそれだった。


 今いるここがアシスタントなども使う仕事部屋なら、和室の方はいわゆる〝配信部屋〟なのだろう――今も、並んだモニターには、先ほどスマホの画面で見たのと同じような映像が表示されている。


(ああ、そっか……)


 大きく開かれた襖、配信部屋の隅には見覚えのある段ボール箱があった。アパートが浸水などで住めなくなったあと、一時的にここに避難していたのかもしれない。あれはその名残りだろう。……なんだか濡れているが、畳の上にコップが転がっているから、今のどさくさによるものだろう。

 なんにせよ、和庭わば家に引っ越せたとはいえ、荷物の全てを持っていく訳にはいかないから、一部をここに残したのだ。


 ここに〝二人〟が住んでいたと思えば、一つ腑に落ちることがあった。


 さとりちゃんはいつも、靴を玄関の靴箱に収めている。あれは、ここでの生活が影響していたのだろう。この部屋の玄関は狭い。アシスタントなども出入りするから、邪魔にならないようにしていたのだ。


 とてもじゃないが、親娘二人が生活するには向いていない。なるほどここは確かに『仕事場』なのだ――


「落ち着いた。私はもう大丈夫だ」


 と、美聡さんが低い声で言いながら、顔を上げた。


「そう、これは私のミス……。言おう言おうと思いつつ、なんだかんだで黙ってたうえ、孝広たかひろさんにも口止めなんてした私のミス……。いっそ言ってもらえば良かった」


 顔は上げたが、視線は合わなかった。目はうつろだった。立ち上がると、壊れた機械のように首を左右に振りながら、


「でもあれだよ、人ん家に入るとかダメだよ」


「……ごめんなさい。でも――」


「でももだってもなぁい!」


「すみませんでした……」


「あぁあ、ううん、違う……いや悪いんだけど。でもあれだ、それだけ私が怪しかったってことだ――そりゃそうだ。いきなり子連れで家に転がり込んできて、住むところがないから泊めてくれって、しかもそのくせそっちゅう留守にしてるし、何より仕事隠してるし! 明日は理由も言わずに外泊するつもりだった訳で! 怪しさ満点、花撫かなでちゃんも『これは事件だよコタロー君』って言っちゃうわ!」


 ……誰だ、カナデちゃんって。立希の方を見るが、うんうんと頷くばかりで貴緒は置いてけぼりを食らうだけだった。


「でもあれだ、もうこうなったら……腹を割って話しましょう。ハハハ、いい機会じゃん。これも天の思し召しってやつだよ花撫さん、きっとそうなる運命だったんだ……」


「…………」


 大丈夫だろうか、この人。主な責任が自分にあるだけに、これまでとは別の不安に襲われた。というか俺と同じこと言ってるな、と思った。


「……『花撫ちゃん』っていうのは、『ロロロリ』のヒロインの名前だ。『コタローくん』は主人公」


 と、横に来た立希がこっそり教えてくれるが、今はそんなことどうでもいい――では今は何が大事なのか。貴緒もまだ混乱していた。そのためか、口をついたのはかねてからの疑問だった。


「あの……美聡さん。なんで、仕事のこと隠してたんすか……。漫画家なら、イラストレーターなら、別に隠す必要も、」


「ぐう……!」


 まるで刺されたかのように、片手で胸を押さえてうめき声をあげる。その反応を見て、だいたい察した。


「そりゃ隠すじゃん……! つぶやき見たんなら分かるだろ馬鹿ぁあああ!!」


 ぜんぜん情緒不安定だった。


 その時、立希が二人のあいだに割って入った。片手で貴緒の口を塞ぎ、スマホを持ったもう片方の手を口元に当てて、美聡の方に顔を向ける。その表情は冷静そのものだった。


「izmn、ミュートなってない」


「ハ――!?」


 美聡の顔が色を失う。その瞳から光が消えた。直後、配信部屋に飛び込んでいった。


「ごめんちょっとミュートするね!」


 聞こえた声は裏返っていて、まるで別人izmnだった。


 貴緒はなんとなく思った。

 叔母さんとはいえ、やはり血は繋がっているんだな、と。



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