7 デフォルト/逮捕




 ――間一髪だった。


 呼吸も忘れて縋りつくように、飛びつくように、貴緒たかおは手を伸ばした。


 ぐぇっ――潰されたカエルのような声。


 掴んだ。そう感じたのと同時に力が抜けそうになり、足がもつれた。その場に転びそうになりながらも腕を引き寄せる。地面に尻餅をつく。鈍い痛みが背筋を駆け抜ける。引っ張り寄せた女児が倒れ込んできて下腹部にも衝撃を喰らった。散々だった。目の前をトラックが横切っていった。


「…………」


 法定速度は守っていただろうし、前に子どもが飛び出してきてもブレーキを踏めばぎりぎり間に合ったかもしれないが――運転手はこちらに気付いた様子もなく、トラックは速度を緩めることもなく、道路を走り去っていった。


(死ぬかと思った……)


 別に貴緒自身の身には何も起こらなかったのだが――それでも、肝が冷えた。無我夢中で走ったせいもあって心臓がばくばくと脈動し、息をするのも苦しい。あと、お尻が痛い。


(叫びながら逃げる小学生女児を追い回した挙句、事故に遭わせた、なんてことになってたら……)


 ……本当に、何事もなくて助かった。


「う……」


「う?」


 うめき声が聞こえたので何かと思えば、貴緒の膝のあいだに座り込んでいたみのりちゃんである。


「うわぁあああああああああん――っ!!」


「ちょっ、うわっ、」


 泣き出すのも無理はないが、状況が状況だ。それがより悪化することになる自覚はあったが、貴緒は両手でみのりちゃんの口を塞いだ。すると今度は、腕のなかでじたばたと暴れ出す。


 状況はどんどん悪い方に――いや、冷静に考えれば〝鬼ごっこ〟の勝利条件を満たしているし、周囲に通行人の姿はなく問題それ自体は何もないのだが――みのりちゃんの不安な気持ちが伝わったのか、こちらまで胸のうちがざわざわと、落ち着かない気分になってくる。


「だ、大丈夫だから……! 怪我もないだろ? 落ち着いてって……!」


 半ば自分に言い聞かせるように声を上げながら、貴緒はみのりちゃんから身体を離しつつその頭を撫でたり背をさすったり、とにかく泣き止むようにとあやし続ける。そうしながらも片方の手で代わる代わるみのりちゃんの口を塞いでいるため実に静かなものである。


 少しして――落ち着きを取り戻したみのりちゃんは真っ赤な顔で貴緒を睨むと、一目散に公園の方へと駆け出して行った。


「…………」


 残された貴緒は、涙と鼻水に塗れた手のひらを見下ろしたまま、しばらく何も考えることが出来なかった。


 危うく、女児を事故に遭わせるところだった――今になって湧きあがる後悔のような感情と、この汚れた手をどうしてくれようというやり場のない気持ちでいっぱいになって、当初の目的が頭のなかから抜け去っていたのだ。


 そうやってぼんやりしていたからか――


「ん……?」


 人の気配を感じて顔を上げると、離れたところに青っぽいシルエットを捉えた。


 その人物と目が合った気がした。直後、こちらに背を向けて走り出す。


「あ――……あぁっ!?」


 遅れて、貴緒も走り出した。

 少し間があったとはいえ立て続けの全力ダッシュで心臓も脚も悲鳴を上げていたが、なんとか追いすがる。相手が動きにくそうなミニスカートだったのも距離を詰められた理由だろう。


「待てコラ! なんで逃げるんだお巡りさんが!?」


「くっ……」


 息が切れたのか、相手が速度を緩めた隙に、貴緒は飛びつくようにして青い制服の背中に手を伸ばした。


「じょ、条件反射ってやつよ……追われたら逃げたくなるのが人間だもの……」


「それは何か後ろめたいことがある人間だけですッ。そして逃げたのはそっちが先だ……」


「逃げられたら追いかけたくなるのが人間なのね……」


 誰かと思えば、やはり――いつぞやのお巡りさんである。

 心の奥深くに刻まれた、あの日のトラウマ――正直あの日は恥ずかしさのあまりまともに顔を上げられず、相手の顔をちゃんと見てなかったのもあるし、何より忘れ去りたい黒歴史だったから記憶のなかのその顔はおぼろげだったが、こうして近くで確認するとはっきりそうだと分かる。


 あの日と同じ制服姿をしているが――後日、交番で確認した女性警官の制服とはややデザインが異なるし、何より警官は人を見るなり逃げ出したりはしない。


「まさか……また会えるとは思ってもなかったぜ、ニセお巡りさん」


 相手が本物じゃないと分かった以上――おまけに〝変質者〟疑惑も加わって、貴緒は強気になって、ニセお巡りの手を捻り上げるようにして捕まえる。


「はな、放しなさいよ……、警官にこんなことしてタダで済むとでも? 公務執行妨害よ……」


 ぜえはあしながら、絞り出すようにニセお巡りは言う。


「じゃあ、警察手帳みせてくださいよ」


「…………」


「黙秘ですか? 俺、刑事ドラマよく観るんですよね……そして最近リアルお巡りさんとも関わってしまった――本物と偽物の区別くらいつくんですよ」


 ほとんど口から出まかせ、思いつくままに喋っていた。全力疾走したせいでテンションが高くなっていたのかもしれない。それこそ刑事ドラマの真似をして、取り押さえた犯人にそうするように後ろ手に手首を捻り上げる。


「く……ギブ! ギブ! 逃げないから放して!」


「今日は手錠持ってないんですかー?」


 ニセお巡りさんが取り出した手錠をひったくって、その手首にお縄をかける。他に繋ぐ場所がないので、片方の輪を握っておくことにした。


「思わぬ収穫だ――その制服がコスプレだってのは分かってるんだ。……あんたは何者だ? もしかして中学生の制服着て学校に来たりもしてたのか? 変質者の正体はお前か……!?」


 全ての元凶、黒幕なのではないか――


「コスプレしてるからってイコール変質者っていうのは偏見よ! 男子高校生がみんなロリコンだっていうのと同じくらいの色眼鏡!」


「……む」


 そう言われたら――とか、納得できるか。それとこれとは別問題だ。


「さすがに中学生っていうのは無理があるか……」


 二十代前半くらいだろうか。美聡みさとよりは若いだろう。茶色がかった黒髪をおさげにしている。背は貴緒よりやや高い。この背丈で中学の制服を着ていたらさすがに印象に残るし、春羽らも言及していただろう。例のパンツを持ってきた何者かとは別人のようだ。


(それはそれとして、この人がニセモノなのは確か……。この前といい今日といい、現れたタイミングから見ても、〝関係者〟なのは間違いないはず――)


 なんにしても、思ってもみなかった収穫である。みのりちゃんは取り逃したが、こちらから何か得られる情報があるかもしれない。せっかく捕まえたのだから、せめてエ口本を黒塗りした件だけでも追及したい。


「あんた、もしかして――俺の監視……あの子たちの監視に来たのか?」


「……見てたわよ」


 ニセお巡りは若干ばつが悪そうに目を伏せながら、ぼやくようにつぶやいた。


「あなたが、小学生の前で土下座したかと思うと、逃げる女の子を追い回して、泣いてるのを見てこれ幸いとばかりに幼い子どもの身体を触りまくってたところを……その一部始終を」


「概ね事実だが表現に問題がありますね! やはり貴様が黒幕か!」


 男子高校生を小学生の敵ロリコン扱いしている、全ての元凶……!


「なんの恨みがあるのか知らないが、俺の評判を貶めるだけに留まらず、うちの親父と美聡さんの結婚まで妨害しようとは! 今すぐ警察に突き出してやってもいいんだぞこの野郎……!」


「な、なんの話よ……。リアル警察を巻きこんだりなんかしちゃったら、私の努力が水の泡じゃない……!」


「そっちこそなんの話だ。というか、あんたほんとにどこの誰だよ。まさか、ほんとにさとりちゃんの『お姉ちゃん』なのか?」


「どうやら何も知らないようね――あの子たちから何も聞けてないんだ? 土下座までしてたのに」


 ふふん、と小馬鹿にするように鼻で笑う。土下座でなく膝をついて目線を合わせていただけだが、そこを突っ込もうという気にはなれなかった。今はどうでもいい。


「…………」


 確かに、肝心な話は何も聞けていないのだ。謎は深まるばかり――しかし、


「小学生相手ならともかく、こっちは明らかに年上の大人なんだ……」


「?」


「何をしてでも吐かせてやる……。具体的には、警官のコスプレして手錠に繋がれてる様子を写真に撮って、ネットに上げる!」


「!」


「恥ずかしい写真をバラ撒かれたくなければ……分かるな?」


「それ立派な脅迫だからね!? リアル犯罪!」


「実行しなければ犯罪じゃないですー、まだ写真にも撮ってませんー」


 スマホを取り出しつつ、我ながら白々しい台詞を吐く。


「大人しく、俺の質問に答えてくれればいいんだ……。あんたは何者で、何が目的なのか――」


「わ、分かったわよ、分かったから、それ、銃口向けるみたいにカメラをこっちに向けないで……。ちゃんと話すから――」


「……まさかほんとに、写真で脅せるとは――コスプレしてるんだし、見られるのも撮られるのも平気かとばかり」


「それとこれとは話が別なのよ……! あぁもう……! とにかく、話はするから! 場所を変えるわよ」


 そう言って逃げ出すつもりなのでは、と手錠を握る手に力を込める貴緒に、ニセお巡りは、


「逃げないから。近くに私の借りてるアパートがあるから、そっちで話しましょう。長くなりそうだしね……」


「む……」


 名前も知らない、謎の成人女性の家に行く――状況が状況でなければ多少どきどきしてもいいシチュエーションなのだが、それよりも今の貴緒はこの女性の正体が気になって仕方がなかった。

 脅したとはいえ、意外にあっさり協力的になったのだ。彼女は『黒幕』ではないのかもしれない。だとしたら、協力者か。それはそれで、黒幕の持つ人脈の謎さが際立ってくる。


「あんた……えっと、なんて呼べば? ミニスカ変質者さん?」


「悪意があるわね……。通りすがりのきれいなお姉さんよ。お世辞くらい言えないの?」


「……?」


「何よ、まだ二十代よ。立派なお姉さんじゃない……!」


 そういう意味で反応した訳ではないのだが、下手に機嫌を損ねるのも問題だ。


「てっきり、まだ十代くらいかと……」


「見え透いてるわよ。……ったく。ともあれ、私の名前は――」


 歩き出しながら、彼女は何やら意味ありげなタメをつくってから、


名上ながみ幸子こうこ……」


「…………」


 ……まったく知らない名前だった。初めて聞いた。てっきり貴緒も知ってる誰かと同じ苗字が出てきて、家族だとか親戚だとかで、お前のことはよく知ってるぞ、みたいな展開になるのではと身構えていたのだが――


「幸せな子と書いて、幸子よ。コスプレを密かな趣味としている、作家志望の女子大学生……」


「いや、マジで誰だあんた」



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