7 コイと病熱4(死) -OMIMAI-




 部屋の外が賑やかになっていることには気づいていた。

 再生したままの配信の音声が一瞬途切れ、メッセージの通知音が鳴った。


 ぼんやりしたままスマホを手にとる。朝の目覚ましを止めるような感覚だった。


 メッセージは、孝広たかひろから。


『うちに女の子たちが遊びに来てるんだが! ほとんど赤の他人である父さんはどうすれば!?』


『とりあえず、お茶を出した』


『そっかー、子どもがいると、友達が遊びに来ることもあるんだなぁ、感慨深い』


 寝起きでなければ突っ込んでるところだが、既読するだけして返信は後にした。もう少し眠りたい。風邪薬が効いているのだった。


 【立希】「意識しすぎだろ。ラブコメしてんのか」


 何やらそんな文言も見えたものの、そちらも後回しにしてスマホを置いた。すぐにまた眠りに落ちたのだが――


 最初に感じたのは、腹部に圧し掛かる何かだった。それから、点けた覚えのない部屋の照明。


 それは布団の中に入りこんで、人の上にまたがって、こちらを見下ろしていた。

 マスクをつけていて口元は窺えないが、眠たげに垂れた目が楽しそうに笑っている――


(俺は……夢でも見てるのか……?)


 悪魔がいる。スマホを手にした悪魔がいる。

 ふわふわとした黒髪のショート。頬をほのかに赤く染め、瞳はうるうると潤んでいる。客観的に見れば子犬のような可愛らしさがあって、守ってあげたいなんて庇護欲を掻き立てる見た目をしているのだが――どうしてだろう、恐怖心が先行して、つい身構えてしまう。


「寝てるところ撮っちゃったー、寝撮り写真だねー」


「は――」


 瞬間、昨日の記憶が蘇る。今、何を撮られた?


 視界の端に、何かがあった――エ口漫画だ。


(エ口漫画を持っている証拠を押さえられた……? いや、でも、これもう検閲済みだし、別に……――というか、それより)


 なぜ、この子は――このみちゃんは、人の部屋にいるのか。


(いつの間にうちの住所を――いや、そうか、遊びに来たのか。友達だもんな。さとりちゃんの。でも……)


 そうだ、孝広からそんな感じのメッセージが来ていた。


 しかし――首を横に向ける。部屋には、他に誰の姿もない。じゃあどうしてこの子だけここに? 普通、友達と一緒にいない?


「おにぃさん、風邪なんでしょー?」


「ん……、まあ……」


 返事一つするのにも緊張を要する。何か、裏があるんじゃないかと疑っている自分がいる。というより、まだ頭がぼんやりしている。いろいろと考えを巡らせることは出来るが、肝心なところがはっきりしていない。


「だから、お見舞いに来てあげたんだよー?」


「そ、そう……それは、どうも……?」


「うん」


 満足そうに頷くこのみちゃん。よく出来ました、みたいな態度である。なんだか、納得いかない。


「でもねー、おにぃさんの風邪、わたしがうつしちゃったかもなんだよねー」


「ん……?」


 そういえばこの子、昨日からマスクをつけている。顔が赤いのもそういうことなのか。


「だからね、責任を取りに来たんだよ?」


「……責任?」


 なんだろう、コワい言葉だ。


「風邪って、人にうつしたら治るっていうでしょー? だからー、おにぃさんの風邪をうつしてもらいにきたの。元々はわたしの風邪だからね、安心してうつしていいよー」


 ……それで、人のベッドの中に入っているのか?


(ほとんどマッチポンプなんだが……? というか最悪、どっちも悪化しない?)


 それとも、このみちゃんには抗体でも出来ているのだろうか。


「あ、それともー、わたしの抗体をおにぃさんにあげよっかー?」


 あれ、心読まれてる?


「うつしっこしよっかー」


 それってなんだかえっちだな――などと、頭ふわふわしていたのもつかの間、


「ひょっ――」


 奇声が漏れる。

 このみちゃんが倒れ込んできたのだ。


 それはいわゆる壁ドンだった。場所はベッドだが、貴緒たかおの頭の両サイドにこのみちゃんの腕がある。顔が近い。というかもうマスク越しに鼻と鼻が触れ合っている。額がくっつく。あったかい。目が、コワい。逸らせない。


 このみちゃんの目が閉じる。一歩間違えばキスでもしてしまいそうな距離感。マスクがあって助かったが、なければもう触れているような――とにかく、口を開けなかった。


(いやもうこれ狙ってるって! 確信犯だろ。子どもながらの無邪気さとかそういうの通り越してるって……!)


 罠にハメようとしているのだ。昨日からずっとそうだ。この子は、この子たちは、人を最初からロリコン扱いしている。そうでっち上げようとしている。もしかするとこの状況がもう撮影されているのかもしれない。


(でも! この状況! 俺はまだ被害者で通るはずだ! そうですよね!?)


 心の中の裁判官に訴えかける。これはセクハラである。わたくしめは被害者です。何もやましいことなどありません。


 ぎゅっと目を閉じる。そうしていると何をされるか分からない恐怖もあったが、少しでも現実から意識を逃避させたかった。冷静に、冷静になろう。落ち着いて対処しよう。思うほどに心臓がばくばくと騒ぎ出す。


(下手に手を出せばやれ痴漢だ、ロリコンだって言われるに違いない。ここは落ち着いて、嵐が過ぎるのを待つように――流れに身を任せるんだ……)


 心を無にしていると――ふっと、マスクが唇をかすめる。ベッドのスプリングが軋み、その反動でこのみちゃんの顔が離れたのが分かった。恐る恐るまぶたを開くと、こころなしか嬉しそうなこのみちゃんがいた。


「ちゅーすると思ったー?」


「……は、はあ――ぐふぇっ!?」


 毅然とした返事をしようと思えば、不意に下腹部に衝撃が来た。


「ちょっ、やめれっ……ギブっ」


「ギブアンドテイク?」


「ギブあっ……ぷぐふっ」


 ベッドのスプリングを利用して、人のお腹の上に座ったままびょんびょんと飛び跳ねる。普通に苦しいが、もう少し下の方に座っていなくて助かったと心の底から思ったが――ベッドの音が不穏な感じだ。これ、何か誤解されないか――


「俺っ、病人なんですけど……!?」


「でも、元気でるでしょっ?」


 汗をかけば熱も下がるかもしれないが、出るのは冷や汗とか脂汗くらいのものだ。何より、昼に食べたラーメンを吐き出しそうでヤバい。


「ロリコンって、こういうの好きなんでしょー?」


「誰が……、」


 ロリコンだ、などというのはもう、言うだけ無駄だ。嫌じゃないから好きにさせてるんでしょー、とか言われかねない。かといって止めようとすれば「手を出した」ことになる。突き飛ばすのも大人げない。きっと手を出せないと高をくくっているのだろう――八方塞がりだが、思い切ってこのみちゃんの膝を掴んで止める。本気でお腹が痛かった。すると、もぞもぞ後退する。なんということだろう、急所をロックオンされた。裏をかいたつもりが全て、このみちゃんの手のひらの上だったのだ。


 くわえて、


「動かないでねー」


 それはこちらの台詞だったが――そう言ってこのみちゃんが突き付けたのは、銃ではなく貴緒のスマホだった。


(いつの間に――いや、今日は昨日のようにはいかないぞ。スマホにはロックが、)


 ……解除されている、だと?


「おにぃさんが寝てるあいだにねー」


「くそう……指紋認証の安全性!」


 ことここに至っては銃を向けられるより恐ろしい。今度は何をする気なんだ。


「待て、落ち着け……。何をする気かは知らんが――君たちは俺のことをロリコン、ロリコン言ってるけど、そもそもロリコンってどういう意味か分かってるのか?」


 もはや自分でも何を言っているのか分からなかったが、どうにか説得したい気持ちが口を動かす。


「子どもが好きなんでしょ? おにぃさんは、しょーがくせいによくじょーするヘンタイクソヤロウ――って、言ってたよ?」


「概ねその通りだけど、それは違うんだ、本当はロリータコンプレックスの略で、リモコンみたいなもので――いや何言ってるんだ小学生。欲情? 意味分かって言ってんのか?」


「……言わせたいのー?」


 にやにやしていやがる。言わせたらそれはもうセクハラである。


「いやそうじゃない――? ……誰が?」


 昨日のファーストコンタクトは失敗だったと思うし、変質者だと思われても仕方ない自覚はある。それでロリコン扱いされるのも自然な流れだが――それにしても、最初からロリコンだと決めつけていなかったか? まるで、その確信があるかのように。


(……俺がロリコンだって、吹き込んだヤツがいる?)


 やはり、いるのだ。人を罠にハメようとする何者かが。明確な悪意を持つ人物が。

 そこにまさかこの子たちも加わっているとは思わなかったが――なるほど、この子の小学生らしからぬ振る舞いも、誰かの指示だとすれば納得だ。


(……いやまあ、それとは別に、この子は個人的に年上をいじめることを楽しんでいる節はあるが)


 ともあれ、ピンチはチャンスだ。ここでこの子から何か聞き出せれば――


「誰が、俺のことを、その……変態……いや、ロリコンだって言ったのかな……?」


「んー?」


 首を傾げながら、このみちゃんは片手でワンピースタイプの制服の胸元を引っ張っている。幸い下になっているのでこちらからは何も見えないが――


「……何を、してるのかな? 人の、スマホで」


「自撮りー」


 ぱしゃ、と自撮りするこのみちゃんである。


「…………」


 まあ、ここまでなら昨日も似たようなことをされた。まだ、動揺するところではない。……ないのだが、状況が状況だ。このみちゃんが楽しそうに体をゆするたび、急所が刺激され呼吸が詰まる。


「今の写真、送っちゃおっかなー?」


「ひっ――」


 とっさに腕を伸ばしスマホを取り返そうとするが、


「あ、送っちゃったー」


 上に乗っている方に分があった。脅迫され、身動きが取れない。下手に動くと、何かがどうにかなりそうだった。


(い、今のはさすがに嘘だよな……? 送るって、ラインか? 別に俺のラインには親父と立希くらい――)


 他にもクラスの友達が少々いるが、とっさに目につくところにある名前は孝広と立希りつきくらいだろう――それならまだ弁明の余地がある、などと思ったところで、自分でもびっくりするくらい全身から血の気が引いた。


……!)


 つい数時間前、勝手に友達にされてしまったばかりだ――


 王手、だった。ここで選択を誤れば、死ぬ。社会的に。


(いつから俺は、処刑台に立っていた……?)


 命乞いの時間だ。


「お、お話、しようぜ……? なあ、スマホじゃなくて、人と話す時は相手の顔を見てさ……だ、誰から聞いたか知らないけど、俺はロリコンじゃあないんだ。小学生に欲情とか、しない。健全ダヨ?」


「じゃあ、このえっちな漫画はなぁに?」


「もう一冊あるよね!? なんで狙ったようにそっちばかり! そしてこれは今や健全な本!」


「こんなにぐちゃぐちゃにしてー、もー」


「違うからな!? まるで俺が我慢できずにやっちゃったのかーみたいな顔してるけども!」


 そんな特殊性癖はない! と続ければ、「せいへきってなぁに?」とか無邪気な顔した確信犯が出てきそうだったので寸でのところで口を閉じると、


「でも、さとりちゃんはそう思ってるよ?」


「は……?」


 何が――まさか……さっきの、しょーがくせいによくじょーするヘンタイクソヤロウ……?


 あれ、さとりちゃんの印象コメント――?


「――――」


 ゾッとした。血の気が失せたどころの騒ぎではない。心臓止まったところに雷が落ちてきて生き返ったゾンビみたいな心境だ。つまり一周回ってもう何が何やら。


「さ、さとりちゃんから……何か、聞いたの……?」


「さとりちゃんに何かしたの?」


 どくどくと、心臓から焦りが溢れ出す。


「……な、何も……」


「人とお話する時は、相手の目を見て話さなきゃダメなんだよー? ほら、こっち、見て?」


「…………」


 どうしてだろう、目が泳ぐ。リズムを刻むように前後に身をゆすりながら、このみちゃんが上から覗き込んでくる。


「したんだ……?」


「ち、ちがっ……! 俺は、ただ、仲良くしようと……お、お菓子を……」


 やましい感情を覚えた瞬間――脳裏を駆け巡るいくつかの場面。後悔が電流のように全身を突きぬける。罪悪感が首をもたげた。


「お菓子あげて、悪戯しようとしたんだ?」


「違います!」


「じゃあ……太らせて、大きくなってから、食べる気なんだねー」


「は……?」


「美味しくいただいちゃうんだー」


「……っっっ」


 勢い余って舌を噛みそうだった。


「ほ、ほんとに、何もしてな……、お風呂だって、入ってきたのはあっちだし――違うんだ。俺は、その――いもうととして! 家族として、好きなんだ。だから、」


「さとりちゃんはまだいもうとじゃないよねー」


 その通りだが! こちらはそういうつもりで言ったのではなく――切羽詰まって、頭が固くなって、もう何も考えられない。


「好きだったら、何してもいいの?」


「~~~!」


 好きとか、何を言ってるんだ。ラブコメじゃあるまいし。相手は年下の、小学生で――


「しょーがくせい相手に、よくじょーしちゃったのー……?」


 ――俺はロリコンなんかじゃ、ない……。



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