4 コイと病熱




 貴緒たかおはその日、学校を休むことにした。


 熱がある。体は正直なもので、そう意識し始めると嘘みたいに体調が悪化。我ながら恥ずかしいことに下着まで汗でびっしょりだったのでシャワーを浴びようとしたのだが、お湯を出しているのに寒気がする。急いで体を拭いて、浴室を出た。震えが止まらなかった。


(ヤバぁ……)


 死ぬかもしれない。一瞬そんなことを思った。


 救急箱にあった風邪薬を飲んでから、学校に連絡を入れ、部屋に戻る。その頃にはもう震えは収まっていた。湿っていたのでベッドのシーツを替える。洗濯機に持って行くのも億劫だったので丸めて隅に放った。ベッドに入って掛け布団を被る。ようやく人心地つけた。


 それから、一応スマホで孝広たかひろに連絡を入れておく。たぶんまだ寝ているだろう。スマホを触ったついでに、立希りつきにも学校を休む旨を伝えながら、


美聡みさとさんのことは……、まあ、明日でいいか。それより――)


 学校休む。先生に伝えといて。

 頼志らいしに人捜してもらいたいんだけど。


 ……ぽちぽち文字を打っていると、だんだん頭がぼんやりとしてくる。


(不本意ながら、人捜しにちょうどいい写真がある……)


 昨日、公園で勝手に撮られた小学生の隠し撮り(故意)写真だ。


 小学生を探すなら、小学生に任せる方が手っ取り早い。という訳で、立希の弟に捜索を頼もうという考えである。学年は違うが、同じ小学校に通っているのも都合がいい。


(外堀を埋めようという訳じゃないが、仮にもさとりちゃんの友達だしな。仲良くしておいた方がいいし――誤解も解いておきたい)


 それに、さとりちゃんの家庭事情についても何か聞き出せるかもしれない。そのためにも一度、ちゃんとした状況で話をしたいところだ。


(それもこれも、風邪が治ってからだ――)




 現実なのか夢の中なのか、ベッドでぼんやりしていると、美聡が出ていく気配があった。部屋のドアを開く気配も感じたが、貴緒が寝ていると思って声をかけずに行ったのだろう。


 それから、孝広がやってきた。その頃には多少目も覚めていて、仰向けに寝たまま首をそちらに向ける。


「生きてるかー?」


「かろうじて」


「馬鹿は風邪ひかないっていうけど……。そうかぁ……」


「はぁ? 俺どちらかというと優等生ですけど?」


 成績は平均より上だという自負がある。最近は……授業中に寝たり、今日なんて病欠してるものだから、教師の心証がどうなっているかは怪しいが。


「薬は飲んだか? 賞味……使用? 期限は大丈夫だったか?」


「あー……見てないけど、たぶん大丈夫っしょ」


「病院いくか?」


「そういうレベルではない、と思う」


「いやー、分からんぞ? 母さんの子だからなぁ」


「そう言われると不安になる」


 ははは、と笑い合える程度には健康なので、とりあえずは大丈夫だろう。


「腹は? なんか作るか?」


「んー……、まだ大丈夫。それより、」


 病院、と聞いて思い出した。


「小耳に挟んだんだけど……何? 美聡さんどっか悪いの?」


「ん? んー……」


 何やら言いよどむ孝広である。貴緒は寝返りを打ってそちらに体を向けた。


「まあ、これは言ってもいいか」


「……言ってはいけないことが?」


「いやー、この前な、美聡さん、お前にちょっといいところを見せようとお菓子つくろうとして……その最中に、上の棚にあるものをとろうとしたんだ」


 お菓子といえば、あの石のようなものか。


「それで、いわゆる……ぎっくり腰になった」


「…………」


「笑うなよ? そして父さんが漏らしたって言うなよ?」


 かくいう孝広が半笑いである。


「ぎっくり腰といってもまあ、歩けないほどじゃないし、そこまで重症じゃなかったんだけどな。まあそんな訳で病院行って湿布とか痛み止めもらったりしたんだ。ちなみにあの石のようなお菓子は、途中から父さんが作った。だから石っぽくなってしまった……」


「なるほど……」


 それでこの数日、ほとんど部屋にこもっていた訳だ。なるほど、言いよどむのも頷ける。だいぶ謎の女性感が薄らいでしまった。


(まあ、拍子抜けではある……)


 よいしょ、と孝広が床に座る。部屋に居座るつもりのようだ。心配してというのもあるだろうが、何か、話をしたそうな雰囲気を感じる。今のやりとりが後押ししたのだろう。

 孝広は部屋の中を見回していた。見られて困るものは……幸い、昨日没収されてしまったので問題はない。本棚にある書籍もほとんどが孝広から流れてきたものだし、ちらほらある少女漫画は亡き母の私物だからだ。


「ん?」


 と、孝広が何かに興味を示す。後ろめたいものがある息子は親のそんな反応に内心では動揺しながら、


「その――人形? ドール?」


 孝広が見ているのは、部屋の壁際、さとりちゃんの荷物の置かれたスペースに鎮座しているお人形だ。この人形について、貴緒はかねてから孝広に問いただしたいことがあった。


「それ……親父が買った、とか?」


「は?」


「いや、さとりちゃんへの、みつ……プレゼント、的な?」


「いやいやいや。そんな訳ないだろー」


 軽く笑われてしまった。


「それにな、あげようと思って買えるもんじゃないんだな、これが」


「ほう……」


「理由は二つある。一つは、これが抽選販売された限定品だから。衣装もメイクも特製で、世界に数十体しかない。二つ目は、衣装が美聡さんの手作りだから。元々の衣装はお高いからな、普段使い出来ない。そんな訳で、ある意味これは世界に一体しかない」


「へえ……、え?」


 美聡の手作りという話も驚きだが、それ以上に……。


「……いくらくらい、すんの?」


「二十万から三十万」


「わお……。これプレゼントしてたらさすがに引くわ」


「だろー?」


「いや、でも……立希の見立てだと五万くらいって……。最低五万とは言ってたけどさ」


「限定品だからな。オリジナルのボディはだいたい五万くらい……」


 それにしても、やけに詳しい父親である。美聡から聞いたのだろうが、デザイン系の仕事をしていることも理由かもしれない。


「元は美聡さんが買ったものらしい。自慢してた。それを、さとりちゃんが気に入ったからあげたって話らしいんだが……うーん?」


「? どした……?」


 孝広はさっきからそのお人形をまじまじと見つめている。


「いや……この前、引っ越しの手伝いの時に見たのと……。表情メイクか? ウィッグが違うのか?」


「俺はそれしか知らんけど、もう一体いるんじゃないの?」


「かもな……。二十万のメイクには見えん……」


「知らんけど……」


 よく分からない世界である。


「……ところで聞きたいんだけど、美聡さんって何してる人?」


「お、おう、唐突だな……」


 唐突じゃなければ出来ない質問だが、一応脈絡というものがある。二十万もするお人形を買える彼女は、いったいどういう仕事をしているのか。せっかくの機会だ、いろいろと聞き出してしまおう。


「それは……父さんの口からは、なんとも」


「……はい?」


 思わず身を起こしかけた。まさか、親父も知らないというのか?


「口止めされているのだ……」


「はあ……?」


「こればっかりはなぁ……。美聡さんから、直接聞いてくれ」


「…………」


 どうやら、知らない訳ではないらしい。しかし、自分の口からは言えない。言いづらいのか。いったいどういう仕事をしていればそうなるのか。


(……夜のお仕事? まさか……犯罪?)


 さすがに突飛な発想かもしれないが、前科があるとか、そのために真っ当な仕事に就けないとか――いろいろ考えてしまって、気まずい沈黙が生まれてしまった。


「……話は変わるんだが、」


 と、孝広が言う。変えてほしくはなかったが、空気は変えてほしかった。孝広が仕事の付き合いで夜のお店に行き、そこで美聡と知り合ったのでは……、なんて妄想が広がりつつあったのだ。


「さとりちゃんとは仲良くやってるみたいだな?」


「え――、」


 ……もしかして、何か探られてる? ヤバい、熱が出てきた。


「いや、まあ……どうだろうか……」


「人見知りする子だと聞いてたんだが、懐いてるようで良かった」


「懐いてるのだろうか……」


「少なくとも、


「…………」


 しばしの間があって、


「相部屋の件もそうだが、気遣わせてしまってるんだろうなぁ」


「……でしょうねー」


「お前も大概、見栄っ張りだからなぁ」


「……はい? なんで急に飛び火?」


「いいか、見栄っていうのはその場しのぎなんだ。結果的にはマイナスにしかならない。気遣いも同じだ。一緒に生活していればやがてボロが出て、自然体デフォルトがむしろ悪くマイナスに見える。……だから日曜は美聡さんたちにいきなり来てもらった訳だが」


「……何か?」


 そこまで見栄を張っているつもりはない。むしろ張っているのは美聡の方だろう。ただ――


「熱が出たのも気疲れによるものだと、父は思う訳だ」


「そりゃまあ……仕方ないじゃん。いきなり他人ひとと暮らすことになったらさ……」


「……慣れそうか?」


「ん……。時間が解決してくれると信じてる……」


 実際、慣れてきた感もある。うまく気を遣えるようになってきた、というべきか。


「この部屋も狭くなったなぁ……。そう思わないか?」


「ん? ん――」


 急に話題の変わる親である。それこそ慣れっこだからいいが、こういう会話の転換には毎回心の準備が必要になってくるから困りものだ。


「まあ……そうかね?」


 とりあえず、同意を示し先を促す。


 まあ実際のところ、普段はあまり感じないものの、さとりちゃんが布団を敷くと結構なスペースが占拠されるし、広さとは関係ないが、同じ部屋にいると着替えなどに気を遣う。相部屋よりは、一人部屋が望ましい。自分だけの時間をつくれれば、気疲れすることも減るのではないか。少なくとも、今と違ってリフレッシュは出来る。


「そうだろうと思ってな、近々――引っ越そうかと、考えてるわけだ」


 なんとなく、そうくるだろうとは思った。話を切り出す空気感が、いつかの――交際している人がいるという話をした時と似ていたのだ。


「それで最近、よさげな物件を探して外を出歩くなどしていた」


 そういえば、立希が家に来ていた時、孝広は珍しく外から帰ってきた。あれはそういうことだったのか。


「しかし、なかなか……駅近で、さとりちゃんの学校にも近くて、美聡さんの仕事場とも距離がない……そんな理想の物件は見つからない」


 俺の高校は、と突っ込みたかったが、それよりも別のことに引っかかった。


(仕事場……?)


 普通そこは「職場」とくるのではないか。孝広自身が家を「仕事場」にしているので馴染みがなかったのかもしれないが――


(まあ、それはともかく――引っ越しかぁ……。んー……)


 別に、反対ではない。ではないのだが、少し、抵抗があるというか、引っ掛かりがある。


 このマンションの一室が、亡き母と過ごした想い出のある場所、というのもあるが――


(引っ越しするってことはまあ、再婚も視野に入れてる訳で)


 素直に頷くには、まだちょーっと……美聡に対する疑惑が邪魔をしている。

 たぶん、再婚するという今後のことも含めて、見栄がどうのという先の話をしたのだろうが、そちらは時間が解決するにしても、この疑惑に関してはそうはいかない。


(他にも問題は山積みだけど――こればっかりは、俺の中でどうにか解決しないと、〝今後〟のマイナスになるよなぁ)


 悪い印象を抱いたままだと、日々の生活の中で美聡が何かおかしなことをすれば、それに対しての疑念を生むことになる。最悪、美聡がちょっと家を空けただけで「浮気してるのかも」とか疑ってしまう。夫婦間の仲がこじれる、よくあるパターンだ。今だって、孝広の「仕事場発言」に過敏になった自分がいる。


(でも具体的にどう、この問題を解決すればいいのか……)


 問題は山積みだ。



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