3 夜はここまで/朝はこれから




 その夜、貴緒たかおは久しぶりにぐっすりと眠った。

 夢も見なかった。


 ……一瞬だった。


 一時間だったかもしれないし、数時間かもしれない。そもそも眠っていたのか。分からない。目が覚めた時、部屋は真っ暗だった。


 今は何時だろう。スマホで時間を確認したいところだが、画面を点けるとさとりちゃんを起こしてしまうかも――寝起きにすぐそういう思考に至るくらいには、今の生活が身に染み付いたというか、常時気を張っている自分がいる。


 暗闇に目が慣れてきた。そして気付く。目の前に、何かある。


 黒い――人形……!


(うわっ――)


 前髪が顔を覆い隠していて、一瞬なんだか分からなかったが――さとりちゃんだ。さとりちゃんが、死んだように眠っている。こちらに顔を向ける格好で、すぐ隣で横になっている……。


(目が覚めたら、隣で女の子が眠っていた……)


 この状況自体は、まあ、昨日もあった。

 ただ、今回は――記憶がない。


(ここに至るまでの記憶がない……)


 完全に事件である。やってしまった感が半端ない。


(いや、待て――そうだ、俺はドラマ観て……眠くなって――)


 そのまま、部屋に直行したのだ。そして寝た。冷静に考えるなら、その後、さとりちゃんがベッドに入ってきたとみるべきだろう。うん、そうだ。そうに違いない。


(それにしてもなんでこの子は……。普通は、なぁ……?)


 一人で寝るのがコワい、とか。妥当なのはそのあたりだが……。


(……そういえば)


 ふと思い出したのだが、先日……二日前になるか。布団を敷いているさとりちゃんを見て、「こっちで寝てもいいけど」などと、声をかけなかったか。あれには変な考えなどなく、ただ純粋に、年下の子に布団を敷かせておいて、自分はベッドで眠っていることへの後ろめたさから出た言葉だったのだが……。


(……だから、こっちで寝てるの? え? この状況、俺のせい? 自業自得? むしろ俺が布団で寝るべき、だった……?)


 充分、ありうる。というかもうそれしかないのでは?


 だとするなら、今からでも布団に移るべきだ。敷かれていれば、だが。この暗闇の中で布団を敷こうとすれば音を立てるし、さとりちゃんを起こしてしまうかもしれない。なら、今夜はリビングで寝るか。目も冴えてるし、なんなら録画していたドラマを消化するのもいいかもしれない。


 そのためには――昨日のように、さとりちゃんという壁を越えてベッドを抜ける必要があるのだが――


(……しかし、だよ)


 しかし、知り合ったばかりの他人である。同性ならともかく、男だ。そんな相手のベッドに潜り込むなんて――何かあったら、どうするのだろう。


(もしかしなくても、やっぱり俺の方が悪いの? 心が汚れてる? 何かなんて、そんなこと小学生は考えない……? さとりちゃん的には、家族になる相手だから俺に心を許してる……?)


 だとするなら――めちゃくちゃ邪な考えに支配されている自分は、目も当てられない。恥を知るべきだ。


 そうやって自分を戒めるのだが――たとえばそう、お菓子を食べて「美味しい」と感じるように、自分の行いを振り返って「恥ずかしい」と反省するように――


 無防備に眠る女の子を見て、「可愛い」と思うのは、致し方ないことなのである。

 だって、可愛いものは可愛いのだ。


 そして――可愛いネコを見つけると、頭を撫でたくなるように。


 可愛い女の子を前に、思わず手が伸びるのはもう、自然の摂理といっていい。


(さとりちゃんが可愛いのがいけないんだ……)


 白い頬にかかった髪を払う。


(……というかさ、むしろさ……何か、してほしいんじゃないのかな、これは。だって昨日あんなことがあった訳で。お風呂でだって、ほぼほぼアウトだった訳で。それなのにまた、こうしてベッドに入ってきてるんだから……ねえ?)


 誰に言い訳しているのか。言い訳するということはつまり、後ろめたい自覚があるということだ。


(俺はロリコンじゃない俺はロリコンじゃない俺はロリコンじゃない……!)


 さっきのはまさに、ストーカーとか、それこそ性犯罪者の思考だ。危ない。相手も望んでるはず、なんて、そんなのは独りよがりだろう。さとりちゃんの考えてることなんてまるで分らないクセに、都合のいい妄想はやめろ――


(だからこの手を止めるんだ……しずまれ! 俺の右手……!)


 頬に触れた指先は、まるでそこに吸い付いてしまったかのように引き離せない。

 小さく開かれた唇。微かに感じる吐息。親指で唇の端をなぞる。

 白い歯が覗いている。唇越しに硬い感触。吐息と唾液で指先が湿り気を帯びる。

 ゆっくりと、侵入する。柔らかい入り口を分け入って、硬質な隙間を押し開き。

 温かなものに触れる。驚いたように奥に引っ込む。親指を挟む圧迫感、痺れるような痛み。唾液を飲み込む、喉の動きが伝わった。


 ――目が合った。


「――――」


 貴緒はその瞬間、機械になった。あらかじめ設定されていた動きを再現するように、彼女の口から指を引き抜き、手を引っ込めた。それからゆっくりと、くるりと体勢を変える。仰向けになり、そしてさとりちゃんに背を向けた。


 何もなかった。いいね?


(……地震だ……)


 心臓がバクバクいっている。体が揺れている。そんな気がする。

 

 ……正直、自分でもよく分からない。自分が何をしていたのか、何がしたかったのか。

 理性を失い、動物になっていた。では、あれが本能だったのか――


「して――……いい、よ」


 何か、聞こえた。


 ……幻聴、だったかもしれない。


 寝言であると、願いたい。


(ころして、いいよ――。「殺していいよね? このロリコン」みたいな。それとも……)


 頭の中で大喜利を始めるが、どんなに気を紛らわせようとしても心臓の鼓動は休まることを知らない。胸が痛い。比喩ではなく、物理的に。苦しい。息が出来ない。頭も痛くなってきた。


(……どういうことだ!? 何言ってんだ!? 合意? 合意なのか? 合意ならもう何しても許され――何をだよ! アウトだろ! これから兄妹になるんだぞ!? 家族だぞ! 手を出したらおしまいじゃんか!!)


 そんな状態で眠れるはずもなく――ほとんど瞬きも出来ないまま、嵐が過ぎ去るのをジッと待つかのように身動き一つせず、貴緒はそのまま朝を迎えた。


 あるいは、気を失っていたのか。


 夢を見た気もしている。

 なぜか、あの小学生が出てきた。

 変な夢だった。




 ――さとりちゃんがベッドを抜け出す、その気配で目が覚めた。


(朝……か?)


 部屋のドアが開き、閉じる。足音が遠くなる。貴緒は体勢を変え、枕元のスマホに手を伸ばした。時間を見る。朝だ。弁当の準備をしなければ。


 意識ははっきりしているが、なんだか頭が重い。体もだるい。汗もびっしょりかいていて、全身がじっとりと湿り気を帯びている。暑いのかといえばそれほどではなく、むしろちょっと寒気がするくらいだ。

 ベッドに戻りたい。もう少し寝ていたい。服が湿っていて体は気持ち悪いが、そのまま横になっていればまた眠りに落ちそうな気持ち良さがある。しかし、今日は平日。学校だ。この時間帯に起きたのはいつぶりだろう。最近は寝過ごしてばかりだった。


 部屋を出て、ダイニングへ。電気が点いておらず薄暗いが、ベランダの方からカーテン越しに薄明かりが入ってきている。さとりちゃんの姿はない。洗面所にいるのだろう。水音が聞こえてくる。シャワーに入りたいと思って、昨夜のことを思い出す。せめてさとりちゃんが家を出てからにしよう。お腹も空いているし、まずは朝食だ。


 トースターが音を立てている


(朝はパン派か……。というか、自分で準備してたのか)


 思えば、貴緒が目を覚ます頃には大体さとりちゃんは登校の支度を終えている。彼女が普段、朝はどうしているのか、これまで考えたこともなかった。

 孝広たかひろ美聡みさとも朝は遅い。孝広なんて場合によっては昼まで寝ている。となれば当然、さとりちゃんは自分で朝食を用意し、一人で食べて、登校しているのだ。

 これまでの貴緒と同じように。


(まあ、そうか。親一人、子一人なんだしな)


 今更ながら、実感する。彼女は、貴緒が思っている以上に、しっかりしている。他人の家に住むことになっても、こうしてちゃんと日常を続けられるほどに。

 きっと、見た目以上に大人なのだ。


(美聡さんがだらしないとは言わないが……まあ、あれだしな。そりゃあ、しっかりしてるわな)


 孝広は朝が弱いだけで、貴緒が学校にいる間にはちゃんと家事をやってるし、これまで食事の準備は交代でやっていた。一応、在宅で仕事もしている。だから反面教師とは言わないまでも、貴緒はそんな父親を見て育ってきた。

 さとりちゃんも、きっと同じだろう。


 本当に今更なのだが、見る目が変わった。

 彼女をひとりの人間として、意識する。


 さとりちゃんが洗面所から出てきた。こちらを一瞥する。トースターがチン、と鳴る。そそくさとそちらに向かい、皿に焼きあがったパンを乗せる。そして冷蔵庫から飲み物を取り出すと、さとりちゃんはリビングのテレビを点け、ソファに座った。


(……うーん、それにしても馴染んでるなぁ。手際が良い。俺なんか自分の家にもかかわらず緊張しまくってたのに)


 しみじみとそんなことを考えながら、貴緒は貴緒で朝食と、昼の弁当の準備にとりかかる。とはいっても、ご飯は炊飯器に残っているし、弁当も昨夜の残りを詰めるだけ。特に時間もかからない。


 我ながら、実に手慣れたものだ。弁当を用意するようになったのは高校に入ってからで、まだ半年も経っていない。そのため「よし、やるぞ」と作業に取り掛かるために多少、時間的な余裕は要るが、いざ始めてしまえばレンジを動かしたり、インスタントの味噌汁を用意しながら作業できるようになった。


(さとりちゃんの弁当は……、いらないか。小学校だもんな。給食あるか。ご飯も……パン派に味噌汁は不要だろうし)


 たまに、こうして作業していると、なんともいえない寂しさに襲われることがある。


 今は、そうでもない。まあ、会話がないことに孤独を感じないと言えば嘘になるが。


(しかし、一緒にご飯を食べようと誘う豪胆さは、俺にはない……)


 なので、ダイニングスペースの方のテーブルで、テレビを遠目に観ながら朝食をとる。


(このままいくと……一緒に登校することになるか……? あっちの方が早いか? シャワー入ってたら時間稼げるかな。それにしても運動部かってくらい汗かいてんな俺……)


 一緒に登校……そのシチュエーションはちょっと心惹かれるものがあるのだが、昨日の今日だ。あれが夢ではないのは、手首に残る手錠の痕に気付いてから、はっきりした。

 このマンションとあの公園には距離があるとしても、近所の誰かに見られていた恐れは充分にある。昨日は周囲の様子を意識している余裕はなかったが……。


(小学生と一緒に登校するのは……)


 兄妹のように映るだろうか。しかし、後ろ暗いことのある身である。周囲の目が気になって仕方ない。とはいえみんな、朝は他人のことなど気に留めていないだろうが……。


(はあ……。学校、行きたくないなぁ……)


 なんなら――ソファに座り、こちらに背を向ける格好になっている彼女も――


(学校で昨日のこととか誰かに喋ったら……。というかもうあの子たちに喋ってたりして……。それをもし、先生とか、大人に聞かれたら……?)


 このまま、この子を登校させていいものだろうか。


 無防備なことこの上ない背中を見て、生唾を飲み込む。


(口封じ……――いや、自分で考えといてなんだが、もうこれ完全に犯罪者の思考じゃんか。ああああ……)


 頭を抱える。食欲が出ない。めまいがする。気持ち悪い。吐きそうだ。


 ……頭が熱い。


「?」


 ふと気になって、席を立つ。リビングの棚から滅多に使わない救急箱を探す。さとりちゃんの視線を感じる。……あった。救急箱から、体温計を取り出した。


「…………」


 脇に挟んで、しばし待つ。


 しばらくして、電子音。体温計を確認する。

 ぶるっと、寒気がした。


「わお」


 変だとは思ったのだ。


(あ、マジで学校行かなくていいかも。ラッキー)


 熱があった。



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