第2章
1 論理的モザイク構築
そのため浴槽にはめったに浸からないのだが、最近はよくお湯を張るようになっている。
今日は心身ともにめちゃくちゃ疲れたし、たまにはお湯に浸かろうかしら、と――その夜、
「ふう……」
全身から力が抜ける。大きく息を吐くが、吸うのは少し難しい。換気扇を止めているため、浴室には湯けむりが充満しているのである。
視界がうっすらと靄に覆われるくらいの湯けむり――ちょっと頭がぼうっとするような、眠気を誘う空間。よけいなことを考えないで済む、そんな状態が貴緒の好みである。
(うん、分かってるんだ。お風呂で眠るのって意識を失ってるだけだって。下手するとヤバいって。お湯もじゃぶじゃぶ出してるし。でもなんか、温泉にでも入ってるような贅沢感あっていいんだよな……)
もしかするとそういう死に繋がるリスクが好きなのかもしれない。もう現実から逃げ去りたいのかもしれない。
それくらい、今日は散々だった。
小学生相手に変な気を起こしかけたところから始まり――まさか、手錠をかけられる日がこようとは。
思い返すといろいろ引っ掛かるというか、検証したい問題があるのだが――その中でも、一番の気がかりは。
(……パンツ――)
今朝、学校で渡された謎の紙袋、その中身だ。
(
お巡りさんは下着を贈るおまじないなどと言っていたが……確かに、貴緒も今ではそういう風にしか考えられないのだが――なんにしても、〝いる〟のだ。
「俺にパンツを贈った、謎の人物……エックス。好意からのものだったら問題はない――ないか? まあ、ないとしても――俺が持っていていいものじゃあ、ないよなぁ」
まず間違いなく、持っているのを知られたら不審者扱いされるし、実際、小学生ズからもそういう反応をいただいた。
これは場合によっては――悪意ある、攻撃だ。
(お巡りさん……警察――下着。不審者……)
これらの言葉から、連想することがある。
『なんか中等部の方で下着ドロがあったらしい。それで持ち物検査あるかもって話を聞いた』
いつかの、
(下着ドロの変質者がいる……? その罪を俺に押し付けようと……? いやぁ……でも持ってきたのは中等部の、女の子って話で――いや、誰も「女の子」とは明言して――)
中等部……?
何か――さとりちゃんに対する後ろめたさと同じくらい、頭の片隅に引っかかっている――
ガラララ……と、浴室の扉が音を立て、貴緒の頭は真っ白になった。
浮かびかけた何かが湯けむりの向こうに消える。
そして代わりに何かこう、あってはいけないものが現れたのだ。
「ん……!?」
さとりちゃんである。
……さとりちゃんだと?
(なぜ? 俺が風呂に入ってるとは思わなかった……とかじゃないよな? 分かるよな? 分かってて入ってきたんだよね? それとも……トイレの仕返しか? だとしたら効果てきめんです……!?)
ありがとう湯けむり――大事なところが見えそうで見えない中、顔だけを覗かせていたさとりちゃんが遠慮なく浴室に足を踏み入れる。タオルもない。まして水着でもない、すっぽんぽんのまま……。
(か、家族になるん……だもんな? 裸の付き合いっていうか、一緒にお風呂に入ってもおかしくは……ない、のか? 小学生だから、そういう恥じらい? とかがないってこと? むしろ意識してる俺の方が変なの?)
意識してるということはつまり、ロリコンである証左なのでは?
……そんな馬鹿な。相手は小学生だ。つるペタだ。そんなものは背中と変わらないし、なんなら手のひらの延長線上である。前を向いてるか後ろを向いているか分からないんだぞ、そんなものに興奮する人間なんていないだろうはははは。
(……さ、さとりちゃんが平気なら……オッケーなら……この状況は、アリなのか? これは罪にはならない?)
――見たら、リアル犯罪だからな。……見たのか、お前?
(あ)
全身の血の気が引いた。あるいは、どこか体の一点に集まった。それが上なのか、下なのか、自分でも分からない。顔や頭が熱いのはお湯に浸かっているせいかもしれないし、動きが硬いのは突然の事態に対応しきれていないせいだろうし。
「わわわわわ」
顔までお湯に浸かる。さとりちゃんは気にせずバスチェアに座り、シャワーを使う。お湯が床に当たり、湯けむりが回復する。
(な、ななな中に入ってどうする! 今すぐ出なければ、一刻も早く! 少しでも長居すれば外の親父たちに怪しまれる――)
まさか、それが狙いか?
(まさか……俺をハメようっていうのか? あらぬ事実をでっち上げて? それともまさか、俺に手を出させようと誘って――それで俺を追い出すつもりなのか? それとも再婚自体をご破算にするつもりか……!?)
誘惑? 色仕掛け? まさか小学生がそんなことを、と思うのだが、事実として今日、ヤバめな子どもたちと出遭ってしまったのだ。しかも、さとりちゃんと同級生。いや一人は実は中身がおじさんだったりするかもしれない。最近そういうフィクション多いし。なんにしても頭がおかしいので計算に入れるべきではない。
(まさまさか)
頭の中が「まさか」でいっぱいになる。今日はそれくらい、和庭貴緒のこれまでの常識をぶち壊すような出来事が多すぎた。
そしてその「今日」はまだ終わっていない。
むしろ、ここからが本番だ。
(すり減りすぎた精神、俺の理性が試される……)
何はともあれ、さとりちゃんが頭を洗って目をつむっている、無防備な今がチャンス――
(何がチャンスだ馬鹿野郎!)
なぜか腰を低く、前かがみになりながら、貴緒は浴槽の中で立ち上がる。恐る恐る、足を上げて、
「…………」
ぴた、とさとりちゃんの動きが止まる。貴緒も固まる。片足は上げたまま。
(あ、頭を流さないまま、体を洗う、だと……?)
頭も洗えるボディーソープである。全身シャンプーともいう。
さとりちゃんたちが家に来てから、浴室にシャンプーなどの容器が増えていることには気づいていた。しかし、まさかそれがこんなところで牙を剥くなんて! 美聡さんこういうの使ってるんだー、しげしげと大人のお風呂事情に気を取られていたことが仇となった瞬間である。
(体を洗っているということは当然、目も開いている訳で……さとりちゃんが振り返ったら――〝見せる〟のも当然アウトですよね立希さん!?)
ここは「見られる」というべきだろうと、どうでもいいことを思い直す。別に見られるのが恥ずかしい訳ではない。そういう次元の話じゃない。ところで「見せる」だとなおさら変態的だが、むしろ見られて楽になりたい気持ちも顔を出す。ヤケという字は、「自分を棄てる」と書くんだなぁ、と現実逃避で戒める。
(俺の動きには気づいているはず……。見ないようにしてくれているのか……?)
だるまさんが転んだ、を思い出した。浴室で転ぶと危険なので、この体勢は早々にやめたいのだが、足を下ろすとそれはそれで危険な状況である。
さっさと風呂から出なければ。しかし急ぐと転びそうな足場だし、精神的にも不安定。慎重さと焦りがせめぎあう中――ふと、さとりちゃんが動きを止めた。
(…………)
自然と息を止める。緊張で全身が張り詰める。こんな心臓破裂しそうな状況で未だに(体が)硬いままの自分はもうどうかしてるんじゃないかと思った。
たぶん、どうかしているんだろう。
「お、お背中……お流ししましょうか……?」
その背中を見て、これはそういうものを求められているのではないか、と思ってしまった。ほら、背中だけ泡立ってないし……。
さとりちゃんが、微かに頷く。下を向いただけかもしれない。落胆のため息をこぼしただけかもしれない。なんにしても――
(いやもしかしたら実はこの子、〝男の子〟かもしれないぜ? だから平気でお風呂に入ってきたのかも? 湯けむり効果で大事なところは見えなかったし俺には何も分からない! ……背中を流し合う、裸の付き合い……つまりそういうことで、今後のために、ワンチャン男の子である可能性を確かめるために――)
ごくりと、固い唾を飲みこむ。
「…………」
大気が凍り付いたかのような沈黙の中、薄い背中に触れた。
びく、と。電気でも走ったかのように彼女は背筋を伸ばす。
背中はお尻に続いているのだと知った。人体の神秘だ。
顔を上げる。肩甲骨。正面よりも胸っぽく見える、なんて思ってしまったものだから、むくむくと首をもたげる心の何か。
「……っ」
指先が意思を持ったように動き出し、さとりちゃんの脇腹をなぞった。
脇の下へと滑り込む――全神経が指先に集中していた――
――――、
「はっ……!」
背筋に悪寒が走った。ぶるっと、震えが全身を走る。
湯冷めしたのだ。それで我に返った。
不自然なくらい即座に立ち上がり、貴緒は浴室を出た。
手についたままの泡にも構わず、脱衣所のタオルで無心に自分の体を拭く。そして服を着ると急いでその場を逃げ出した。
頭にタオルを載せたまま脱衣所から出ると、ダイニングのテーブルに着く大人二人の視線に出迎えられた。
「遅かったなー? また風呂で溺れたのかと思ったぞ」
「溺れてはいないが寝てはいた……」
「入ってる、て言ったんだけどね……一応ねー……?」
「ははは……」
なんとか平静を装った。無心状態が続いていた。
……バレなかったか? 気付かれなかったか?
タオルに表情を隠したまま、二人の横を通り過ぎる。
心臓が早鐘を打つ。呼吸が苦しい。なんでもないのに前かがみになる。倒れそうだ。うまくバランスがとれない。部屋に行きたい。ベッドに倒れ込みたい。支えが欲しい。歩けない。
罪を犯した。
人を殺した。
そんな気分だ。
(……女の子だった……!)
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