7 こどものおもちゃ2




 ――逃げなくては。早くここから逃げなければ……。


 目の前でにっこりしている女の子から視線を外せないまま、貴緒たかおは必死に手錠から手を引き抜こうとするのだが、手首が痛むばかりでいっこうに外れる気配がない。


「どうしたのー?」


 眠そうな目、おっとりとした声。一見無害で無邪気な女の子だ。しかしなんというか、本能が訴えている。


(この子はヤバい……!)


 何かがヤバい。この子がヤバいのか、この子と接する自分の中の何かがヤバいのか――


(逃げられないとしても、誰か……証言してくれる人を呼ばなくては……)


 味方が欲しいのだが、生憎と連絡手段が手元にない。スマホは鞄の中だ。学校では基本的にスマホの使用は禁止で、真面目に鞄に入れていたのが災いした。


(そしてその鞄はさっきぶっ飛ばされて……)


 手の届かない場所に落ちている。誰か拾ってくれないものか……などと思っていたのを見透かされたのか、目の前の女の子がそちらを振り返り、


「おにぃさん、あのカバン取って欲しいのー?」


「え、……ま、まあ……。取ってきてくれると、助かるかなー……? 出来れば、中のスマホを……」


「おねがい、はー?」


「え……?」


「ひとに何か頼む時は、ちゃんとおねがいしなきゃいけないんだよー?」


「ぐ……、お願い、します……」


「みのりちゃん、おにぃさんのカバン見てみようよー。中に何か入ってるかもー」


「そうね! 名案だわこのみ! 犯罪の証拠が見つかるかも!」


「ちょっ、まっ……!」


 犯罪の証拠、と聞いて背筋に悪寒が走った。別にそんなものは入っていないが――


 ツインテールの子――みのりちゃんというらしい――が、なんの変哲もない学生鞄を宝物でも抱えるようにして持ってきた。あえて貴緒から距離をとって鞄を囲む小学生たち。エロ本を見つけた中学生男子ってこんな感じかな、と貴緒は他人事のように思った。既に心は現実逃避を始めていたのである。


「財布があったわ!」


「スマホもあったよー」


 人の財布を覗くなんて、この子の親はどういう教育をしているのだろう……なんて思っていられるのも今のうちだ。まだ状況は平和だ。先ほどに比べれば平静だ。今のうちに、何か打開策を考えなければ。


(お、落ち着け……冷静になるんだ、俺……。そうだ、現金で示談とかどうだ? ……何がだ。俺は何もしてないんだぞ)


 ちょっと小学生の後を追いかけていただけで、変質者だと誤解されたのだ。お巡りさんが戻ってきて、きちんと話をすれば、ちゃんと分かってもらえる。何も、後ろめたいことはないのだから。


(そうだ、さとりちゃんだってさすがに俺を見捨てはしないはず……。しない、よな……?)


 ともあれ、さとりちゃんの証言があれば助かる見込みはある――


「おにぃさん」


 間延びした、甘ったるい声がした。


「スマホだよー」


「お――」


 最初の直感は何かの間違いだったようだ。

 マスクの子――このみちゃんは親切にもスマホを貴緒に手渡し、


「はい、拾ってー」


 ――自分の足元に、手落とした。


 それは貴緒が手を伸ばせば……手錠に繋がれたまま、痛みもいとわず全力で手を伸ばせば、ぎりぎり届くかどうかといった距離にあった。


(悪魔だ……! この子は悪魔だ……!)


 直感は正しかった。なんかヤバそうな目をしていたのだ。今もスマホの前で屈みこみ、何かとても嬉しそうに目を細めてにっこり微笑んでいるが、この状況でそれは非常識すぎる。


(手が届いたところで奪われそうだけど……)


 なんだかそんな予感はするものの、貴緒は全力でスマホに向かって手を伸ばした。普通にやっては届かないので、肩が外れそうなほどに勢いをつけて、やっと、


「もうちょっと、もうちょっとー。がんばれー」


 指の先がスマホに触れようかというところで、案の定――スマホが動かされ、画面が点灯した。


「おめでとー、ロック解除できたねー」


 指紋認証でロックの外れたスマホを手に取り、女の子は満足そうに言った。


「――――」


 努力が徒労となったことよりも、目の前の少女への恐怖心が勝った。考えることが、小学生のそれではない。


「あ、見て見てー、みのりちゃん、これー。おにぃさんのスマホの中に、さとりちゃんの隠し撮り写真があるよー」


「なんですって……! やっぱり変質者!」


「は……?」


 そんなものあるはずが、と言いかけて、思い当たる出来事が脳裏をよぎった。

 一昨日、さとりちゃんが石を食べていたあの日だ。


(そういえば隠し撮りしかけてましたね……! そして間違って写真撮っちゃったわ!)


 そしてそれを消していなかった。というか、その存在をすっかり忘れていた。確認していないが、それこそ隠し撮りみたいな構図になっているのではないか。


「ついでにー、みのりちゃんも撮っちゃおうかー?」


「? どうして?」


「証拠写真は多い方がいいんだよー。じゃ、はいちーず」


 ぱしゃ、と一枚。さっきまで人の財布の中身を検分していたみのりちゃんも、しっかり手で目線を隠すポーズを決めている。


(ヤバい。マズい。こいつは確信犯だ……。というか俺がロリコンだと確信してる……。ありとあらゆる手段ででっち上げようとしている……)


 このままでは外堀が固められ、いざお巡りさんがやってきた時に――


(ん……?)


 さっきからさとりちゃんが大人しい。いや、彼女は元から大人しいのだが、それにしても、友達二人がわいのわいのやってる横で、いったい何をしているのかと思えば……。


居曇いずみさん、それなぁに?」


 鞄の前にしゃがみこんださとりちゃんが、何やら黒い袋を覗き込んでいる。


(ん……!?)


 さとりちゃんが覗き込んでいるそれに他の二人も興味を持ったようだ。どうしたのー、と寄っていく。そしてあろうことか、その中身を取り出した。


 一人は顔を真っ赤にして、もう一人は――


 にっこり。マスク越しでも分かる、素敵な笑顔を浮かべてこちらを見ていた。こころなしか顔が赤い。小学生らしい反応といえなくもないが、実はさっきから微かに赤かった。それが彼女にヤバめな雰囲気を加味していた要因だ。


 チェックメイトだね。そう言われている気がした。……気がしただけだ。もしかするともっと平和的に、「こういうのが趣味なんですねー」とか思っているのかもしれない。なんにしても、エ口漫画が見つかった男子高校生に小学生が向ける笑みではない。


「こ、これはアウト、アウトなのだわ……!」


 一方でみのりちゃんはとても初心な反応を見せているが、めちゃくちゃ興味津々なのかページをめくる手が止まらない。ここは年上としてなんとかしなければならないのだが、当然ながらそんな大人の対応が出来る余裕はなかった。

 具体的には顔が熱くなって頭がゆだったかのようにぼうっとしている。


(よりにもよって、よりにもよって……さとりちゃんに――)


 ……惜しかったのだ。捨てられなかったのだ。人から借りてるものだし、などと言い訳してしまった自分が憎い。あまつさえ捨てようとして取り出した際に思わず読んでしまった自分が恥ずかしい。義理の母親との関係を題材にしたものと、妖女(幼女)を扱ったもののというこの上ない嫌がらせにもかかわらず、興奮してしまった自分が情けない――


「あ、あなたたち! そこで何やってるのー……!」


 遅れてやってきた正義の味方、お巡りさんが小学生からエ口本を取り上げるまで、拷問のような時間は続いたのだった。




「まず尋ねます。この袋の中身は何かしら? どうしてこんなものを持っているの?」


「そ、それは……友達から、押し付けられたんです――う、嘘じゃない! ほら、考えてもみてください。普通、学校帰りの鞄にそんなもの入れてますか? 普通は持ち歩きませんよね!? 渡されたんですよ! 俺の親が再婚するかもって話を聞いて……それで、嫌がらせなんです!」


「……あなた、いじめられてるの?」


「い、いえ、別に……」


「いじめられてるなら、相談に乗るわよ」


「どうも……」


 案外話が通じる――というか、相手はお巡りさんだ。そうであってもらわなくては困る。


 未だ鉄棒と繋がれたままだったが、貴緒は小学生たちから解放され、お巡りさんと向かい合っている。目線を合わせるようにしゃがみ込んだその女性は理知的な印象で、厳しそうな雰囲気こそしていたが、まともに話を聞いてくれる寛容さがあった。


 正直、警察と関わるなんてまっぴらごめんだ。普通に生きている社会人なら誰もがそう思うだろう。警察というものは、たとえ自分に後ろめたいものがなくても、なんだか不安をあおる存在だ。特に、今みたいに容疑をかけられ尋問されているこんな状況。自分でも信じられないし、信じたくないが、こうなってしまったからには冷静に、落ち着いて対応しなければならない。


「それより聞いてください、お巡りさん。違うんです。俺はただ……さ、さとりちゃんの、その子の様子を見に来ただけっていうか、ちょっと心配になっただけで……。たまたま、こう、後をつけるみたいなかたちになっただけなんですよ」


 あれ、それってなんだかストーカーみたい、と自分でも思う。しかし事実なので仕方ない。


「じゃあ、この子とあなたはどういう関係なの? 妹、っていう訳ではないわよね」


「厳密には、違います。なんていうか……父親の、交際相手の、その娘っていうか……」


「それってもう他人じゃない!」


 小学生から横やりが入る。思いっきり睨むと少しだけ恐がられた。

 確かにその通りだが、他人であって他人ではないのだ。それにしても、説明しづらい関係性ではある。


「後をつけてたとかじゃないんですよほんと! 今は一緒に住んでて、それで帰り道も同じだったってだけで――」


「そうなの?」


 と、お巡りさんがさとりちゃんに確認を取る。さとりちゃんは――貴緒はコワくてその顔を見ることは出来なかったが、やや間があって、どうやら頷いたことが分かった。


「なるほど、それで嫌がらせって訳ね」


 お巡りさんも納得してくれたらしい。まったく、義理の母と妹が出来るかもしれない高校生男子に、なんてモノを押し付けるんだ。


「でもね、こうも考えられない?」


「はい?」


「義理の母と妹が出来るかもしれない、そんな相手と同棲している状況……その性的なストレスから、」


「性的なストレスとは」


「つまるところ欲求不満になって、こういう本を購入してしまった。だけど、それを家に置いておくことは出来ないから……もっとも安全だろう、鞄の中に隠していた」


 う、と声が詰まる。いや、そんな事実はないのだが、そう言われればそれが正しいのかもしれないと思わせる説得力があった。そしてお巡りさんもそう思っているのかもしれないという不安が。


 そんな時、


「お巡りさん! 不審なものを見つけたわ!」


 またこいつか、と貴緒はツインテールのみのりちゃんを睨むのだが、みのりちゃんはこのみちゃんの後ろに隠れつつ、お巡りさんにファンシーな柄の小袋を手渡していた。


「何かしら。プレゼント?」


「ぷれ――、」


「…………」


 お巡りさんは中身を取り出し、そのハンカチみたいな布切れを眺め、広げ、そしてすっと無表情になると、貴緒に冷たい視線を向けた。


「これも、嫌がらせ?」


「そ、それは――」


「やっぱりヘンタイだわ! 変質者よ……!」


 言い訳のしようがない。だって、貴緒自身それがなんなのか分からないのだから。


「女の子の……下着よね。どうしてこんなものを持っているのかしら」


「……ど、どうして、でしょうね……?」


 素直に事実を説明したとして、果たして信じてもらえるだろうか。

 試しに今朝の出来事――自分も聞いた話なので詳しくは分からないが、中学生らしい人物が持ってきたもののようだと話してみたのだが、お巡りさんの表情は冴えない。


 普通こんなものを持っているはずがない、と先ほどと同じ理屈を口にしてみるも、「おうちに置いとけないから持ち歩いてるんじゃないかなー」というカウンターが炸裂。どう判断するかはお巡りさんの裁量に委ねるしかなくなった。


「同じ家に住んでいる……のよね?」


「え? ――はっ。ちがっ、違います……! いや違わなくて――」


 お巡りさんの考えが手に取るように分かった。しかし、ちょっと落ち着いて考えてみてほしい。サイズだ。サイズが違うのでは――とか言い出したらよけいに変態扱いされそうで口を開けない。だってこれ、どちらかといえば子ども用の下着だもの。


「もしかしてー、さとりちゃんへのプレゼントだったりしてー」


「たしかにそれっぽい袋に入ってるわ」


 小学生の間で平和的な解決策が浮上するも、


「でもー、やっぱりそれってー」


「ロリコンであることの証左だわ!」


「難しい言葉知ってんなぁ小学生!」


 もうヤケになって突っ込むしかなかった、そんな男子高校生の心情を察して欲しい。



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