5 どうかしてる夜
その夜である。
(ヤベェ、今この部屋にエ口漫画がある……!)
なんだかんだで一冊も立希に渡さないまま、今もそれらは
今までそういうものとは縁がなかった。パソコンもある。スマホもある。しかし検索したことはなかった。脳裏をよぎったことはあったが、それを実行しようという意欲や欲求がなかったのだ。我ながら、それはそれで健全なのか? という疑問が浮かぶ。
一応、ちょっとえっちなテイストの少年漫画を読んだりはする。興味はある。たぶん、日常に忙殺されていたのだろう。帰ったら家事が待ってるし、基本的にはテレビっ子なのでテレビの前にいる時間が長かった。将来を見据えて、というほどしっかりした意志がある訳ではないが、何があってもいいように授業の予習復習を欠かさない日々……。
(貴重なものを手に入れたのはいいが……部屋はいつさとりちゃんが来るか分からないし、カギをかけるのは不自然だし)
トイレしかない、が――部屋は既に真っ暗で、さとりちゃんも床に就いている。鞄から例の袋を取り出すのは難しい。音がするし、起こしてしまうだろう――
(噂をすれば、だ)
さとりちゃんが起き上がる気配がした。今がチャンスとばかりに貴緒は寝返りを打つ。背を向ける格好になる。ベッドが軋むせいで、体勢を変えることすら気を遣うのだ。
(トイレかな。トイレかぁ――、あ……?)
違う。ベッドが軋む。貴緒の体がわずかに傾く。がさごそと――中に入ってくる。
夏用の薄い掛け布団の中に、何かが入ってきた。ちょっと暑いくらいの熱を感じる。振り向きたい衝動に駆られるが、もしも――もしも、目が合ったら?
(三日目にして、何ごと……!? お菓子効果ですか!? いや……)
そういえば、お菓子を食べながら
『隣、まだ空いてんの? じゃあそっちに引っ越せばいいんじゃね?』
『マンション入るよりは、同居した方がお金もかからんし。というか隣、事故物件じゃん。むかーしむかし、ベランダから女の子が転落して足とか腕とかばきばきに骨折したという……。その時に落ちた少女の霊が今も――』
『めちゃくちゃ健康体だが?』
……訂正、下らないことを言っていたのは自分だった。
(あれにビビったとか……? 俺は君のお人形の方が恐いんだけども)
今もどこかでこちらを見ている気がしてならない。追視、というらしい。どこからでも自分を見ている風に映る、そういうドールアイだそうだ。
(いや、真に恐れるべきはこの状況か……。どうしよう、いつも以上に動けない)
とりあえず、目を閉じる。背中に感じる気配を意識からシャットアウト――……出来ない。
(ソファで寝るか、俺が布団で寝るか……。なんにしてもここから動かないといけないが――)
微かな呼吸音。もう眠ってしまったのか。それならなおさら、起こさないよう細心の注意を払わなければ。
音を立てないよう体の向きを変える。目が合うことは、なかった。さとりちゃんは仰向けに眠っている。前髪が横に流れて、闇の中、白い顔が露になっている。
(さて、ここからどうするか……)
息を殺し、左手をついて上半身を起こす。右手はさとりちゃんを越えてベッドの端に。あとは足を床につければ――
「!」
その時、視界が真っ白に染まった。
スマホだ。枕元にあったスマホのディスプレイが突然点灯したのである。
(眩しっ――)
右膝をベッドの端につけ、バランスが崩れそうになるのをなんとか堪える。光に目が慣れた頃になって、スマホの照明が消え――たかと思えば、また光る。メッセージだ。
(さとりちゃんのスマホか? こんな夜中に……、)
【お姉ちゃん】「待っててね、すぐに助けてあげるからね! もう少しの辛抱だよ!」
…………。
(……何? 今の何?)
表示されていた文章が一瞬目に入ったが、意味を理解する間もなく画面が消えた。
今のはメッセージアプリだ。いわゆるSNSだ。誰かからの……【お姉ちゃん】という人物からのメッセージ。
(お姉ちゃん? さとりちゃんの?)
なんだろう。気になる。他人のスマホを見たいと思ったのは生まれて初めてだ。思えば、さとりちゃんはたまにスマホを触っているが、いったい何をしているのだろう……。
「――――」
「……あ」
闇の中、更なる闇と目が合った。
気付けば、貴緒は彼女に覆いかぶさるような格好になっていた。
(あ、アウトの極み……)
過去最接近。言い訳のしようがないくらい、客観的に見てアウトな体勢である。すぐに退避すればいいものを、その視線に縫い留められたように動けなくなる。全身が心臓になったかのように、どくどくと脈動する。これはいけない、これはマズい。頭では分かっているのだが、頭では――バレなければ? 何をだよ!
(今朝、変なもの見ちゃったせいだ……。――くそう、可愛いな……!)
じっと身動きをしないさとりちゃん。純粋に、シンプルに、可愛い顔をしている。無表情の極みだが、そんなもの気にならないくらい素材が良いのである。触ると柔らかそうな頬、小さな鼻、唇……大きな目だけが、黒目がちなその虚無だけがどうにも慣れないが、それを除けば他に類を見ない美少女――いや、美幼女か?
なんにしても……叫ぶでも、暴れるでもない。怖くて固まっているのかもしれないが――今なら……今なら、何をしても、
その時である。
――くうぅ……、と。
「はっ……!」
呪縛が解かれたかのように、貴緒は瞬時にベッドから離れた。具体的には左手でベッドを押して、スプリングの反動で右手側の床に転がった。いいところに布団が敷かれていた。ほぼ無音だったと思う。
(た、助かった。どうかしてた。ところで今のは俺の腹の音か?)
お腹と相談する。たぶん、違う。
のそり、と。さとりちゃんが身を起こした。マズい。まだ危機は去っていない。小四の女の子は今のが何か理解しているだろうか。なんにしても、告げ口されたらおしまいだ。
その時、もう一度――お腹の鳴る音がした。
そういえばさとりちゃん、お菓子の食べ過ぎで夕飯を残していた。
「な、何か……食べようか?」
精いっぱいのごまかしだった。
シンクの上にあるライトを灯す。これくらいの明るさなら、奥の部屋にいる二人には気付かれまい。
人生最大の失敗をなんとか取り返すため、貴緒は冷蔵庫の中を覗き込んだ。今から何か作るか? いや、いいものがある。コンビニスイーツの残りだ。深夜に食べるスイーツほど罪深い――もとい、美味しいものはない、と何かで聞いた。罪の味か。今の自分に相応しい。
(いやまだ何も過ちは犯してないが……)
正直、つい数分前の自分が何を考えていたか、思い出せない。自分のこととはとてもじゃないが信じられない。どうかしていた。気の迷いだ。まったく、何をしようとしていたんだか。相手は小学生だぞ?
冷蔵庫から取り出したのは、小腹を満たすにはちょうど良いサイズのエクレア、シュークリーム。
振り返ると、部屋から出てきたさとりちゃんが立っていた。薄地の白いネグリジェに、黒い長髪がよく映える。ホラー映画を連想するのはなぜだろう。
(まな板……つるペタ幼女だ。幼女、幼女……)
相手は幼女。自分は何もしない――というか、そもそもそんな考えなどなかっただろう。だから孝広も美聡も、さとりちゃんが貴緒と相部屋になることを許した。そう、これは無条件の信頼だ。裏切る訳にはいかない――いやいや、裏切るも何も、だ。そんな気など起こらない。
エクレアの袋を開ける。一口食べる。うん、普通に美味しい。自分も空腹だったのだな、と自覚する。
さとりちゃんがこちらを見ている。美聡に釘を刺された手前、自分からは手を伸ばしにくいのか。
(ふれあいチャンス……!)
一口サイズのエクレアをさとりちゃんの口の前に持って行く。最初は警戒しているかのように動きがなかったものの、甘い匂いにつられたのか、一歩、こちらに歩み寄る。
ぱくり、と。指ごと口の中に収まった。
「……!」
すぐに引っ込めたので指先に熱を感じたのは一瞬だったが――
(アナタ疲れてるのよ、貴緒……)
ちょっと身が持たないので、エクレアの袋を丸ごとあげた。自分はシュークリームの方を食べることにする。
ついさっき、さとりちゃんの舌に触れた指――
(いやマジで、どうかしてるって)
さっさと食べて、早く寝よう。もちろん歯磨きを忘れずに。ぐっすり眠れば、よくない考えも消え去ってくれるだろう――
「さとりちゃん――?」
と。
ドアの開く音と共に、
(現行犯……!)
貴緒はとっさにさとりちゃんの肩を押し、脱衣所へと追いやった。意図を察したのか、さとりちゃんも自らの意思で隠ぺいに協力する。間に合った。
「あ、なんだ、貴緒くんか――」
「え、あ、あははは……。ちょっと小腹が空いたもので」
「てっきり、さとりちゃんかと。ほら、夕飯残してたから。夜中にこっそりお菓子を、なんてね」
完璧に見抜かれていて内心ひどく焦った。
おまけに、テーブルの上にスマホがあった。さとりちゃんのものだ。それもとっさに手元に寄せる。幸いだったのは、美聡が眼鏡をしていなかった点か。
「お菓子……」
そういえば、あんまりあげないで、と言っていた時のニュアンス。ただ夕食が入らなくなるから、というだけではなかったような気がするが……。
美聡がしみじみと、
「私、むかし太ってたのよね……」
「はあ……」
今も、太っているというほどではないが、多少ふとましいところはある。ぽっちゃり系ではないが、身長の割に体重はありそう。
「体質って遺伝するじゃない? だからあんまりお菓子をあげたくないのよ。もしさとりちゃんが太っちゃったら……みんなから『ふとりちゃん』なんて呼ばれるかもしれない」
「ふとりちゃん……」
「だから、好意は嬉しいんだけど、あんまり買ってこないでほしいな」
「は、はい……以後気を付けます」
「じゃ、おやすみね。貴緒くんもちゃんと歯磨きするんだよ」
「おやすみなさい――」
と、危機が去った。なんだろう、寝起きのせいか、日中に接する感じと雰囲気が違っていた。ふわふわしていた。そんな彼女と話してちょっとどきどきしている自分に気付く。
それにしても。
(スマホが我が手に……)
ロックがかかっているにせよ、ボタンを押せば通知画面くらいは見える。さっきのメッセージが気になるが――
「ふとりちゃん、か」
つぶやいて、思わず噴き出す。何それ面白い――
「はっ……」
「――――」
振り向くと、脱衣所の入り口に怨霊が立っていた。隣の部屋からやってきたのかもしれない。恨めしそうな目をしていたかと思うと、足音もなく近づいてきて、貴緒の手からスマホを奪い取った。
それからさとりちゃんはきちんと歯磨きをして、そして自分の布団で眠りについた。
時刻は既に零時を回っていた。
和庭貴緒の人生最悪の一日は、こうして幕を開けたのである。
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