3 父の彼女が連れてきたファンタジー




 そして、放課後――和庭わば貴緒たかおは一段飛ばしでマンションの階段を駆け上がっていた。


「おっと――」


 部屋のある階に到着したところで、死角から現れた人物とぶつかりそうになる。


「すみませ――、」


 言いかけて、ぎょっとした。不審者だ。不自然なサングラスに、マスク。帽子を目深に被っている。思わず距離をとった。顔に注目してすぐには気付かなかったが、制服を着ている。ブラウスにスカート。よく見知ったものだ。


(うちのガッコの中等部の……)


 しかし、このマンションにこんな子いただろうか。いや、顔は判らないが。少なくともこれまで出くわした覚えはない。


 あまり見ているのも失礼だし、ぶつかりかけた手前、気まずい。そそくさと自分の部屋に向かう。部屋の前に来た時、視界の隅にまださっきの人物が映っていた。こちらを見ていたようだが、すぐに顔を背けて階段を下りて行った。なんだろう。まあ、それよりも、だ。


 深呼吸し、ドアを開けた。


 テレビの音が聞こえる。


 土間はきれいなものだった。あるのは孝広たかひろのサンダルくらいだ。

 靴がない――まさか本当に夜逃げ……、などと一瞬思ったが、美聡みさとは仕事かもしれないし、さとりちゃんはまだ学校かもしれない。


 ふと、気付く。脇にある靴箱の引き戸がわずかに開いている。覗いてみれば、覚えのない靴が並んでいた。一つはサイズが小さく、明らかに子ども用。もう一つは女性ものだ。


(靴箱に仕舞う習慣が……? うちは脱ぎっぱなんだが。実は育ちが良い……?)


 なんにしても、靴があるということは帰宅しているのか。帰宅……。不思議な感じだ。この家はもう彼女たちにとっても「帰る家」なのだろうか。


 ともあれ、美聡かさとりちゃんのどちらか、あるいは両方と顔を合わせる覚悟はしておくべきだ。


「……まあ、普通に、だ」


 とりあえず、自室に入る。玄関から入ってすぐ左手側にある。右手側がトイレである。心から落ち着けるのは自分の部屋とトイレ、そしてお風呂だけだ。


 ドアを開けて、まず違和感を覚えた。普段、ドアを開くと換気されていなかったむわっとした空気が溢れ出してくるのだが、今日はそれがなかった。見れば、部屋の隅に畳まれた敷き布団と、段ボール箱。そして真新しい収納ケース。今朝は見落としていたが、前の二つは昨日からある。収納ケースは今日買ってきたものか。さとりちゃんの着替えが入っているようだ。


(だんだん浸食されている……)


 机に鞄を置いて、制服から部屋着に着替える。部屋着でいいのか? まあいいだろう。どうせ昨日も見られているし。その点、昨日突然やってきたのは幸いだったのかもしれない。


 一息ついて、深呼吸。なんだか部屋の〝におい〟まで違って感じる。


「――よし。……て、なんでこうも気合入れなきゃいけないんだ」


 独り言が多い。我ながらどうかしてると思いつつ、スマホ片手に部屋を出て廊下を進む。右手側がダイニングキッチン、左手側がリビング――二つあるソファの一つ。その前にさとりちゃんが座っていた。


 腰くらいまでありそうな長い黒髪が顔に影を落とし、ソファより下に座っているせいかなんだかこぢんまりとして見える。そもそもが小柄な方なのだろう。それにしても、不気味だ。あの場所にだけ得体の知れない何かが潜んでいるような……いや実際そこに人がいるのだが。


 床に座りテーブルに隠れているため、詳しくは分からないものの……どうやら、制服を着ているらしい。紺と白のワンピースタイプの制服。市内の小学校のものだ。思えば、この子が普通の服を着ているところを見たことがない。


 さて、そんなさとりちゃんが何をしているかといえば――ソファにはランドセル、テーブルにはノートや教科書が並んでいるから、宿題でもしているのだろうが――今は、石を、口に入れようとしていた。


(石……? 石を喰って……?)


 いいところのお庭に敷き詰められている灰色の砂利のようなものを、口に運んでいる。いや恐らくそういう見た目のお菓子なのだろうが――


(小四、だよな? なんでもかんでも口に入れようとして、注意とかしなきゃいけない年齢ではない、よな? 分からん、俺が小四の頃ってどれくらいの知能レベルだったっけ……?)


 はた、と。その動きが止まる。こちらに気付いたのだ。白い小さな歯が今にも砂利に触れようとしているところであった。黒目がちな大きな目が貴緒を捉えていた。光を反射しない闇色の瞳が、長い前髪の隙間からジッと――


(ひっ……)


 思わず目を逸らす。なんだか見てはいけないものを目にしてしまったようだ。


 ぎこちない動きでキッチンへ。手を洗う。シンクに流れる水の音が気まずい沈黙をごまかしてくれた。


(僕は夕飯の準備をしていますのでお構いなく……)


 リビングに背を向けてお米を洗う。とりあえず日々のルーティンをこなそう。なぜか、普段は上の棚に仕舞ってある軽量計やボウルなどが出されている。そうした違和感――「家に他人がいる」痕跡がちらほら目につくが、無視だ、無視。普段通りの生活を送ろう。後ろの子のことも、気にしない気にしない――……それでいいのか?


(よくはない……)


 スマホのタイマーでアラームを設定。お米を水につけて十分ほど。それから炊飯器のスイッチを入れるのだ。


 ダイニングのテーブルでアラームが鳴るのを待ちながら、ちらちらとリビングの様子を窺う。また目が合うと気まずいので、背を向ける格好で、スマホのカメラを起動した。メッセージを確認している風を装いつつ、自撮りする要領で背後を……リビングを映す。

 さとりちゃんはどうやら宿題をしているようだ。さっきの石はなんだったのだろう。ズームなどを利用してみる。我ながら自宅で何をやっているんだろう。盗撮でもするつもりか。


(そうだ、立希りつきに写真送ってやろう――)


 スピーカー部分を手で覆ってシャッター音を抑える努力。いよいよもって不審者じみてきた――


(うおっ、立った……!)


 画面の中のさとりちゃんが立ち上がった。思わずシャッターを切ってしまい、慌ててスマホを隠す。親にエロ本が見つかった時ってこういう心境になるのだろうかという動揺を覚えつつ――


(こっち来てる……!?)


 足音はほとんどしなかったが、気配で分かった。近づいてきている。テーブルの前にやってきた。もう視界の端に映っている。動悸が激しくなる。ヤバい。


「…………」


 コトン、と。テーブルの上に何かが置かれる。皿だ。うちの皿だ。さすがに背を向け続ける訳にもいかず、半身だけ振り返る。


(石……)


 いいところのお庭に敷き詰められていそうな灰色の砂利が、白い皿の上に盛り付けられている。盛り付けという表現が正しいのかどうか。大小さまざまな形の小石が複数ある。どこからどう見ても石だ。見た目の質感は間違いなく石だ。飴やグミという可能性もあるが。


(なんだろう、俺にくれるのか? 友好の証? 俺に食べろと?)


 顔を直視できなかったが、そもそも彼女はうつむきがちで表情は前髪に隠れている。


 さとりちゃんが、皿から石を一つ、指で摘まんだ。そして口に運ぶ。ちょっと顔を上げている。歯にぶつかり、噛んだ時の音が硬質な響きをもっていた。やはり石っぽいが……。


(普通にもぐもぐしてるな……。やはりグミか……)


 なんだか未開の地で遭遇した先住民から「これはこのように食べます」と実演してもらっているような気分である。恐る恐る、同じように手に取ってみた。指に触れる感覚は硬い。強く摘まんでみるが、弾力はない。新手の嫌がらせでないことを祈りつつ、先住民とのコミュニケーションを図るため、それを口に入れた。


(じゃりっと――したが……ほのかに甘い。外はじゃりっと、中は柔らかい……。いいところのお菓子なのだろうか。別に美味くはないが、ちょっとクセになる謎食感)


 じゃりじゃりしていて、ふと閃く。


(……まさかこれ、美聡さんの手作りお菓子だったり? 映える系の?)


 そう考えると、なるほど。見た目が石……宝石っぽいお菓子をテレビで観たことがある気がする。そちらはもっとキレイだったが、手作りなら石っぽくなっても不思議じゃないかもしれない。


 気付けばさとりちゃんはリビングに戻っていた。スマホのアラームが鳴り、びくっとする。奥のドアが開いた。これにもびっくり。神経質になっている自分を自覚する。


「なんだ、帰ってたのか」


「なんだ居たのかと返したい」


 仕事部屋から孝広が出てきた。どうやら美聡もいたらしい。奥から声が聞こえた。


(部屋で二人っきり……。いやいやいや……)


 雑念を振り払い、夕飯の支度に集中する。


(映えスイーツに対抗せねば……)


 ――しかし、即席でそんな手の込んだ料理が出来るはずもなく、


「今日は無駄におかずが多いなぁ」


「無駄っていうな。文句あるなら食うな」


 これは美聡とさとりちゃんの好き嫌いを把握する目的があるのだ、と自分に言い聞かせる。

 ところで肝心の二人の評価はどうだろうと様子を窺えば、


「素朴な味」


 何やら顔色が悪い美聡のコメントに、貴緒は敗北感を味わった。なんだ、口に合わなかったのか?


「にんげんの味がする……」


「!?」


 初めて、さとりちゃんの声を聞いた。

 ちょっと何言ってるのかは分からなかったが……。




 夕食を終えて就寝するまでのあいだ、普段なら入浴したり、テレビを見ながら授業の予習復習をしたりするのが貴緒の日常だ。

 今日はシャワーを浴びた後、自室で机に向かっている。

 リビングはさとりちゃん親娘に占拠されているのであった。


(……いやまあ、俺が入るスペースはあるのだが。一応、二人がお風呂入ってる間に観たいドラマは録画予約したからいいとして……でもいつ観よう……)


 ちょうどテレビの前になるソファが占拠されているのもあるが、シンプルにちょっと気まずいのである。


 家族以外の女性が、お風呂上がりのラフな格好で無防備な姿をさらしている――化粧もしていない。いわゆるすっぴん。


(昨日はそんなに気にならなかったんだけどな。シャワーだったからか?)


 貴緒も孝広も普段はシャワーで済ませていて、浴槽はほとんど使わない。そのため手入れもされておらず、普段は浴槽に浸かるという美聡たちは昨日シャワーを使ったのだ。今日は孝広が掃除したらしい。血行が促進されたのか、肌の色つやというか、見た目の印象が違っていた。


(一緒に暮らす……将来的には結婚も見据えてるんだよな? なんか、とりあえず転居先見つかるまで、みたいなことは言ってたけど)


 だったら、慣れなければ。少なくとも、自分が家を出るまでは――


(……〝両親〟がいるっていうのは、いいことだ。安心感がある)


 たとえば、それは〝道〟だ。道が一つだと、それが途切れた時、路頭に迷うことになるだろう。しかしもう一つあれば、それは保険として機能する。


 父親がいなくなっても、母親が面倒を見てくれる。その逆もしかり。

 だけどもし、父親しかいない家庭で、突然その父がいなくなったら?


 両親がいるということは、安心に繋がる。


(単純に、俺が自立して、親父一人になって……老後とか、なぁ? 一人よりは相手がいた方がいいだろうし)


 だから、これでいいのだ。

 頭では理解できている――


 その時、背後で遠慮がちにドアが開く気配があった。

 貴緒はびくっと背筋を正す。


(……でもやっぱ慣れないんだよなぁ!)


 ちらりと振り返ると――ネグリジェというのか、白いワンピース状のパジャマを着たさとりちゃんが立っている。この子はいちいち着ているものが可愛らしい。育ちの違いを感じさせる。母親の方は、「テレビとかで見る普通の成人女性」といったイメージなのだが。


(もうそんな時間か……)


 さとりちゃんが布団を敷いている。もう眠るのだろう。貴緒もそれに合わせる。


「歯磨きしてこよう……」


 口に出したのは、自分も寝るというアピールである。


 部屋を出る。リビングにはまだ美聡がいた。テレビはついているが、スマホを見ている。なぜか渋い顔をして腰をさすっている。腰痛だろうか。引っ越し作業が祟ったのかもしれない。若そうに見えるが、これでも一児の親である。一応見なかったことにして、洗面所へ向かう。洗面所兼、浴室へと続く脱衣所はダイニングから入って右手にある。


(洗濯物……。基本的に親父がやってくれてるからいいが……)


 邪念を落とすように歯磨きを済ませ、部屋へ戻ろうとする。


「おやすみー」


 と、美聡から声をかけられた。そうか、一般家庭ではそういう挨拶があるのか、と今更思い至る。和庭家ではあまり馴染みがなかった。


「お、おやすみなさい……」


 返事をし、そそくさと部屋に戻る。さとりちゃんはもう布団に入っていた。布団を迂回して自分のベッドへ、抜き足差し足で。


(スマホ……今日の二の舞にならないように目覚まし欲しいけど、それでさとりちゃん起こすのも後ろめたい……)


 見ればバッテリーがなくなっていた。とりあえず、充電しよう。コンセントと充電器はちょうどさとりちゃんの頭の上にある。さとりちゃんのスマホも充電器に繋がっていた。コンセントに何か見慣れないものが刺さっている。


(そうか、家族が増えるということは、コンセントが増えるということ……)


 差込口を増設する電源タップだ。実際、さとりちゃんもスマホを使っている。


 スマホを充電器に繋ぎ、貴緒もベッドに入った。さとりちゃんは目を閉じ、身動き一つしない。その姿を見下ろしていて、思う。自分より年下の子に布団を敷かせて、自分はベッド……。普通は逆にすべきではないか?


「こっちで寝てもいいけど――」


 言ってから、心の中の幼馴染みが「それセクハラだからな」と警告した。

 さとりちゃんが目を開く。それから、すぐに掛け布団を頭まで上げた。


 やらかした……。苦い思いをなかったことにするように、リモコンで照明を消す。


「おやすみ……」


 一応、声をかける。


「――――」


 ごにょごにょと、返事のようなものが聞こえた。



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