最愛
三角くるみ
最愛
一周一時間の環状線を何周もしたことがあったなあ、と彼は笑った。
「なにそれ、忙しい自慢?」
よく似た声音で彼女が尋ねると、彼は緩く首を振った。
「はじめからそこで眠るつもりだったんだよ」
昼さがりの車内は、ほどよく暖かく、ほどよく賑やかで、ほどよくさびしい。
彼女の視線の先で、彼はなにかを懐かしむような顔をしている。まだそんなにむかしのことでもないだろうに、未来のない者の目に過去はあざやかに映るものなのか。
さりげなく伸ばした指先をさりげなく拒まれた彼女は、諦めきれずにしげしげと彼の手元を見つめる。そこに嵌められた銀を守るように、彼のこぶしがゆるく握られた。
「それ、はずさないの」
なじる言葉を彼は受け流した。はずさないよ。
「なんで」
もういらないでしょ、そんなもの、と彼女は言った。
「きみはあたしを選んだんだから」
「いらないよ。いらないから、つけていくんだ」
まあたらしい指環のほこらしげな輝きは、そこにあるだけで彼女の心を曇らせる。
「いやよ。はずしてよ。不愉快よ」
「いやだ。はずさない」
癇癪にまかせて伸ばされてくる指を、今度はたしかに受け止めて、彼は笑った。
「はずさないよ」
つかまれた指のさきに感じる硬さ。人肌にぬくもるかがやきは、彼女がどれだけ望んでもどれだけ願っても、手に入れることのかなわなかった幸せの証だ。
「そんなになにもかも思いどおりになると思うなよ」
なだめるように指の背をなでられて、彼女は唇をかみしめた。
いったいなにが思いどおりだというのだろう。
望むものはなにひとつあたえられなかった。願うことはなにひとつかなえられなかった。
最後の最後、すべてをかけてたぐりよせようとしている最愛にさえ、なにひとつわかってもらえない。
「わかってないなあって顔してる」
彼は楽しそうだった。
「あなたはいつもその顔だよね」
欲しいものもわがままも、ぜんぶぜんぶ聞いてあげたのに、あなたはぼくに笑ってくれたことがなかった。
「でも、いいんだ。このあいだ、笑ってくれただろう」
「このあいだ」
「この旅行のこと、いいねって、賛成したら、あなた、笑ってくれた」
それでもうぜんぶ、いいんだよ。
彼はそう言って彼女の手を握ったまま、ふとまぶたを閉じた。
「すこし眠る。着いたら、起こして」
彼女はしばらくのあいだ、身じろぎひとつしなかった。
このさきもう二度と、まなざしもことばもこころも交わすことができなくなるというのに、この潔さはなんなのか。
生まれるまえから一緒にいて、ともに育って、だれよりもながい時間そばにいたけれど、彼のこういうところはすこしも理解できない。
彼女は、彼の肩にもたれかかった。
耳を占める鼓動が、からだを揺らすリズムに重なって――、ああ、たしかに、これは眠たくなる。
「きみの言うこと、も、たまには、正しい、のかも」
だれの耳にも届かないつぶやきを落とし、だれの目にもとまらない笑みを浮かべる。
思えば、気に入らない男だった。
生まれるまえからなにもかもをわけあってきたはずが、ながい時間をかけてなにもかもを奪っていった。
両親の関心も。周囲の喝采も。
笑顔も。朗らかさも。
たったひとつの、こころさえも。
なにも持たないあたしは、くるしくて悲しくてみじめで、きみが憎らしくてしかたなかった。
憎らしくて、羨ましくて、誇らしくて、――いとおしかった。
だれよりも、なによりもいとおしかった。
だけど、もういい。もうゆるしてあげる。なにもかも、もうゆるしてあげる。
さいごにあたしを選んでくれた、ぜんぶいいんだと言ってくれた、きみをもうゆるしてあげる。
だから、着いたら起こしてもらいなさい。やさしいだれかに、起こしてもらいなさい。
最愛 三角くるみ @kurumi_misumi
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