第3話 夢うつつの社畜
"深淵を見ているとき、深淵もまたこちらを見ている"
なんて言葉がある。こちらだけが神秘なる深淵を除いていると思っていたら大間違いで、深淵も観測者である私を捉えている――つまり、往々にして見る見られるの能動受動の関係は流動的で相互的な関係であるということを述べているのだ。
と、俺は解釈している。
「しゃくらぎくん~飲み足りないんじゃないの~? ほらほら~」
泥酔してあられもない姿になっている新条先輩を見て、うっかり助平な人間にならないように脳内の理性を総動員しながら、俺は平静を装う。
「先輩、飲みすぎです。大丈夫ですか?」
俺の肩に手を回してくる新条先輩。
繊細な指先が俺の肩をくるくるとなでていた。
「だって~ さくらぎくんがさあ~」
新条先輩は「む~」と頬を膨らませながらいじらしげに俺を見つめる。上目遣いで潤む瞳が俺の理性軍隊を半壊させた。
しかし、まあ俺の仕事が予想よりもはるかに時間がかかって、結局21時頃終わったという事実。そして俺の仕事が終わるまで律儀にも待ってくれていた新条先輩には申し訳が立たない。
「仕事が遅くなったのはほんとすんません」
「そうじゃなくてぇ~」
「えっ?」
頭を下げかけたところで、俺はぐいっと引き寄せられた。
目の前に、新条先輩の麗しい顔があった。潤んだ瞳に、紅潮した頬。あまいかおりがぶわっと鼻孔に突き抜ける。理性の軍隊が、もう一握りに減ってしまっていた。
恐るべし深淵からの不意打ち
跳ね上がる鼓動を感じつつも俺は永劫にも感じられるその時間の中で新条先輩の唇に集中する。
「さくらぎくんが、わたしの、その……」
「その……?」
いいどもる先輩の挙動一つ一つが艶やかに映る。吐息さえ、淡いピンク色に見えてくるようだった。
「……す」
「え、な、なんですか?」
「……きす」
「きす、ですか」
「そうよ、間接キス。まったくかわいげないんだからあ。私だけドキドキしちゃって、バカみたいじゃないのお」
ふむ。関節キスか。
セメンダインコーヒーミルクの、あれね。
あー、あれね。
俺は足元から一気に血液が燃え滾って上昇してくるのを感じていた。
熱い。頬が、体が、脳があつい。
「さくらぎくんの――」
酒場のカウンターに肘をついて、乱れた髪をそのままに、色気漂う先輩は俺に言う。
「「ばぁーか♡」」
なぜか、声が二重に聞こえた。
その瞬間。
世界は、一気に暗転した。
********
「うわあああああああ!?」
まるでどこか高いところから落ちたかのような感覚に襲われた俺は飛び起きた。
大丈夫、どこかから落下しているわけではなかったようだ。
「……夢か」
どこからどこまでが夢だったのかわからないが、随分たちの悪い夢を見ていた気分だった。
「やれやれ」
「ほんと、やれやれですね、おにいさん♡」
ほんとほんと、思い出せば、住居侵入18歳が部屋にいてさ……
「って、え?」
「おにいさんったら、ほんとにもう――」
"ばぁーか♡"
夢の中で聞こえた二重の声が、ここに解明された。
俺から見える深淵は、いついかなる時も、俺を捉えているに違いなかった。
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