第2話 深夜のデスク
どこかから、ふわりと甘い香りがした。
「ちょっと桜木くん、私の話聞いてる?」
「え、あ、はい」
「もう、ボーっとしちゃって。だいぶおつかれみたいね」
俺とパソコンの対面世界に、にゅっと新条先輩は入ってきた。ショートボブの艶やかな髪が斜に垂れる。左手で髪を耳にかけるしぐさが、俺の疲弊しきった心に潤いを与えた。
さんきゅうです、先輩・・・
「で、なんでしたっけ」
「そうそう、それでね――って聞いてないじゃない!」
「ちょっとボーとしてました」
俺は軽口を叩きながらひたすら目の前にディスプレイと睨めっこしていた。にらめっこしながら手元のキーボードをひたすら叩き上げ、画面に映し出される文字を機械的に読み込んで、流していく。
デスクワークといっても、こういうタイプのガチガチなタイピングが必要なデスクワークは結構な重労働である。
「だからぁ~」
「おわっ」
新条先輩は軽快な動作で俺のデスクにひょいっと腰かけた。視界に新条先輩の体が
大きく映る。
ディスプレイを見てハッとした。
文字の打ち間違えが増えているのが如実に分かった。
「ちょいちょい、何してるんすか新条先輩」
「私の話、こうでもしないと聞いてくれないでしょ?」
「いや仕事さえなければいくらでも聞きますよ」
「桜木くんが仕事持ってないときなんてきたら、それこそ我らが会社そのものが無くなってるわよ」
「……そうでもないと思いますけどねえ」
「謙遜屋さんね、桜木くんは」
「なんすかそれ」
「ふふ、冗談よ。……でも、さすがにそのお人よしをどうにかしないといつか体壊しちゃうわよ? 今日だってその仕事――」
「――いいんすよ。これくらい。遅くまで働いた分だけ、仕事終わりに飲むビールの価値が上がるってもんです」
いいながら、俺はキーボードをダラダラとたたき続ける。
俺の言葉に、少しだけ新条先輩は黙った。俺の視界に映るのは新条先輩の魅惑の下半身だけだった。黒のタイトスカートが佇んでいる。
定時をとっくに過ぎた20時現在、残っている社員は俺と新条先輩くらいのものだった。
「……桜木くんのそういうところ、嫌いじゃないわよ。難儀だけどね」
「よく言われます」
「自覚がある分、余計にたちが悪いわね」
「たちが悪いのは社会の方です」
「盛大な責任転嫁……」
「なんて、ははって感じすね」
「ふふっ面白いわね、相変わらず」
些細な会話でも、俺にとってはこの時間が案外好きだった。
一日中仕事に追われて、言葉を発する時間さえも惜しい日々だから、新条先輩が話しかけてくれる定時後、静まり返ったフロアのシチュエーションが俺にとっては真の昼休みといったところだろうか。
「で、終わりそうなの?」
「まあ……終わらせるしかないというか」
「それはそうね」
「先輩はなにしてるんすか? こんな時間まで残って」
「決まってるじゃない。かわいいかわいい後輩を飲みにつれていって慰めてあげ得ようと思って残ってあげてるのよ……おいしいわねこれ」
新条先輩は右手に持っていたらしいパックのコーヒー牛乳をチューチュー飲んでいた。 エレベーター前の自販機で買ってきたのだろう。わが社の十八番「セメンダインコーヒーミルク」一本60円で破格のコストパフォーマンス。
俺の糖分補給は「セメンダインコーヒーミルク」で決まりだった。
「セメンダインコーヒーミルクに目をつけるとは先輩もなかなか……ん?」
俺は定位置にあるはずの「俺のセメンダインコーヒーミルク」を取ろうとした。さっきも言ったが、俺の糖分補給はいつもセメンダインコーヒーミルクなわけで、右手の届く距離に、そう――新条先輩の妖艶な下半身が座っているデスク上にあったはずなのだ。
「んー、やっ、ぎょめんね。しゃくらぎくんの、のんじゃってるや(訳:あ、ごめんね桜木君の飲んじゃってるわ)」
「……」
唖然とする。
俺のセメンダインコーヒーミルクは新条先輩のつやつやの唇に運ばれていた。チュー音を立てていたのは、俺のセメンダインコーヒーミルク……
「いやいや、なにしてんすか先輩」
俺は平静を装って、咄嗟にディスプレイに向き直った。
新条先輩はいたずらっぽく微笑みながら俺の視界に無理やり入ってくる
「ぷはーっ。こ、これ、ほんとに美味しいわね!」
「先輩が好きなのはお酒だけだと思ってました」
「ち、違うわよ! そ、そうだ、ちょっと飲みすぎちゃったから、代わりのセメンダインコーヒーミルク買ってきてあげるわ!」
「え、いいっすよそれは」
いくらなんでも先輩にぱしらせるわけには――
そう思っていたら、目の前の大きな魅惑のお尻がデスクからひょいっと降りた。
「ま、そういわずにもらっておきなさいな。さあ仕事人は働いた働いた~」
「え、あ、はあ」
さっきまでの威勢はどこに行ったのか、なぜかそそくさと新条先輩はフロアの外へと歩いて行った。心なしか早歩きのようにも見える。
相変わらず面白い人である。入社以来ずっと面倒を見てもらっている俺は頭が上がらない。軽口は叩くがまあそれも信頼関係あってこそだろう。
代り映えしないつまらないディスプレイを見ながら、それでも手を動かす。
山ほどあった仕事に、ようやく終わりの目途が立っていた。
「あ」
癖で一息つくためにセメンダインコーヒーミルクのパックを手に取った。
さっき新条先輩に飲み干されたやつだった。
……あれ? 中身がまだある…っていうかだいぶ残ってる。
なんであの人はわざわざ新品を買いに……
思考が一瞬止まる。
なんだか、大事なことが分かりそうな……
なんて、遅くまで働いて頭がおかしくなっているにちがいないな。
「おいおい、勘弁してくれ」
ディスプレイに映し出される「FAILED」の文字を見て、俺は天を仰いだ。
「千堂、お前のマニュアルに則ってるのに、どうして失敗してるんだよ……」
仕事を押し付けてきた千堂を恨みたいような、新条先輩との時間を作ってくれたことに感謝してやらんこともないような……
ともかく、俺の残業はまだまだ続きそうだったのである。
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