下
強い香りと鮮やかな色を誇らしげにふりまく花の陰、深い草むらの奥で、私は、ひとりちいさく震えていた。
鍵になったしっぽを身体に巻きつけ、三角の耳をぺたりと倒して、この世でもっともおそろしいものから、自分の存在を隠してしまおうとしていた。
恋の季節を迎え、あたりはなにかと騒々しい。
よりよき腹を借りようと争うオス、よりよき種をもらおうと阿るメス。にゃあにゃあにゃあにゃあ、あっちで争い、こっちで番い、ひとときも休まることがない。
私とて他人ごとではない。
まだまだ細くて小さな身体だけど、もう月は満ちている。仔を産むことができるのだ。
その証なのか、メスを求めるオスの声に、身の奥が疼く。ふかふかとした毛に覆われた腹の底で、本能が喚く。――あなたがほしい。
ふいに、草むらが揺れた。
びくりとして眼を開けば、すぐそこで番う者たちの姿がある。私は、慌ててきつく目蓋を閉じた。
人であったころの記憶は、こういうときに厄介だ。
ちいさな獣に生まれたいま、こんな恥じらいになど意味はない。食うこと寝ることと同じように、番うことは、生きることそのものである。
それでも、ほかの誰かのあられもない姿を目にするのは、とても恥ずかしかった。
メスを求めて鳴くオスの声は、独特の音色で私の鼓膜を震わせる。
身を丸め、耳を伏せ、ただじっと時の過ぎゆくのを待つ。
欲に疼く身体も、満たしてほしくて蠢く腹も、時が過ぎれば治まるものだ。
見つからなければ、大丈夫。
ここにいれば、大丈夫。
大丈夫。大丈夫。
あたりは、いつのまにか静かになっていた。目の前で番っていた二匹の姿は消え、いつしか、茜を含んだ薄い闇が忍び寄ってきていた。
私は身体の力を抜いて、周囲の様子を窺った。鍵になったしっぽの先が、ぱたりぱたりと揺れてしまう。
おなかが空いた。のどが渇いた。もうしばらく、まともなものを口にしていない。
がまんできそうにない。
だめだめ、と私は自分を戒める。
いまはまだ、ここから出てはだめ。この世でもっともおそろしいものに、見つかってしまう。囚われてしまう。溺れてしまう。
時はまだ、十分に過ぎては――。
なあんだ、と夜の帳を切り裂く声は、ごくごくやわらかに私の耳に届いた。
全身の毛が逆立ち、しっぽの先がふくらんだ。にゃ、と鋭い声が、渇いたのどを震わせる。
彼だった。
私と同じ、白と黒と茶を纏う、艶やかで美しい彼がそこにいた。
まだ、こんなところに隠れてたの、と彼は言った。もう、とっくにどっかへ行ってるもんだとばかり、思ってたのに。
嘘だ、と私は咄嗟に思った。彼は私がここにいることを知っていた。ここから動けずにいることを知っていた。
にゃあ、と鳴いた彼は、蹲ったままの私の前に、前脚を揃えて行儀よく座った。私のそれとは違うまっすぐなしっぽをしなやかに身に沿わせ、ときおり、ぱたりぱたりと揺らしている。
とても、機嫌がよさそうだった。
私は、そうとは気づかれぬよう、総身にくっと力を溜める。
いつでも飛びだせるように。いつでも逃げ出せるように。
金色の眼差しが交差した。
彼の前脚が、わたしの背中を押さえつけようと、ひらり、一閃する。
すんでのところで交わし、私はそのまま草むらを抜けようと、茂みのなかへと飛び込んだ。半瞬遅れで、彼もまた茂みを揺らす。
私はもう滅茶苦茶に走りまわった。
草地を抜け、泥を滑り、水を跳ね上げ、枝から枝を跳んだ。ぺこぺこのおなかも、からからののども、ぜんぜん気にならない。
いまはもう、ただただこのおそろしいものから逃げたい、逃げなくてはならないと、その一心だった。
目の前に聳える灰色の壁を登りきれるかどうか、ほんの瞬きひとつのあいだ、迷ってしまった。
それが命取りだった。
背中に飛びかかられ、壁に爪を立てたまま、ずるずると落下した。
首根っこを押さえられ、かぷり、と耳を噛まれる。全身の毛を逆立てて首を振りたくれば、気に入らないとばかりに、今度はのどの近くに牙を立てられた。
やめて、と私は鳴いた。彼の顎に力がこもり、痛みが増した。逃げないか、と彼は訊いているのだ。
逃げない、と私はもう一度鳴いた。
嘘だ。この牙がはずれたら、私は逃げる。
逃がさない、と背中を押さえつける重みが増した。
まるでやさしくない牙が、より深く突き刺さる。
まったく手間をかけさせるんだから、と彼はくぐもった声でぼやいた。ずっとあそこに隠れていれば、僕がほかに目移りするとでも思ったの。
きみは僕のものだって、魂の伴侶なんだって、あんなに言い聞かせたのに、往生際の悪い。
――でも、まあ、いいか。
これで、きみはもう完全に、僕のものになるんだから。
ようやく、僕のものになるんだから。
そうして、私は。
とうとう、私は。
私は、彼に満たされ、ちいさくかすかな悦びの声をあげた。
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