やさしい牙

三角くるみ

 なんでここにあんたがいるのよ、と私は喚いた。すっかり小さくなって、白と黒と茶の三色に染められた背中を震わせながら。

 なにを言っているんだよ、とばかりに、彼は優雅にひと声鳴いた。私とそっくりの色をした艶やかな毛並みを見せつけるように、両の前脚をぴしりと揃え、堂々と胸を張って。

 ――なにを言っているんだよ。魂の伴侶だからに決まってるじゃないか。


 思えば、私の人生は、はじめから思うようにはいかなかった。生まれた瞬間から、否、生まれる前から両親を落胆させ、成長してからも、彼らの期待に応えることはできなかった。どう頑張っても。男の子だったらよかったのに、とため息交じりに言われても、そんなのどうにもしようがない。

 せめても、と頑張った勉強もスポーツも、私が私であることの価値を変えてはくれなかった。――無意味。

 それでも私は頑張らないわけにはいかなかった。男の子になれないのならばせめて、と友だちと遊ぶ時間さえ惜しんで鉛筆を握り、ラケットを振り回して。

 頑張っても頑張っても、私は両親に認めてもらえなかった。成績が悪かったからではない。大会で勝ち進むことができなかったからではない。

 男の子でなかったからだ。

 両親が望んだようにありたかった、といったいどれだけ願ったことだろう。きっと、跡継ぎを望む父よりも、ふたりめを産むことの叶わない母よりも、私の願いは強かったはずだ。


 近所に住む幼馴染に憎悪を抱いたのは、だから必然だった。

 存在することをせめて許してもらえるよう必死だった私とは違い、彼はただそこにいるだけで許されていた。

 特に賢くなくとも、足が速くなくとも、顔形が綺麗でなくとも、彼はすべてを認められていたはずだ。男の子である、というただそれだけのことで。

 神様はどんな伝承に綴られているより、ずっとずっと意地悪だった。

 彼はすべてを兼ね備えていた。賢く、逞しく、美しく。

 おまけにとても優しかった。彼を羨み、憎み、ひどく嫌う、私に対してさえも。

 小さな頃からガリ勉で、勝負事に容赦のなかった私は、友だちのひとりもいない、ひどい嫌われ者だった。

 けれど、彼は、彼だけは、いつも近くにいてくれたのだ。

 かくれんぼでは最後まで私を探してくれたし、悪口を言う子はぶってくれた。教室では隣に座ってくれたし、避難訓練では手をつないでくれた。

 好きだよ、とはじめて言われたのはいつだったのか、そして、それから何度同じことを言われたのかは覚えていない。

 私の答えはいつも同じだった。

 ――知らない。

 彼の答えもいつも同じだった。

 ――そのうちわかるよ。だって僕たちは魂の伴侶なんだから。

 そんなことがあってたまるか、神様はどこまで意地が悪いんだ、と私は思っていた。私はあんたが大嫌いなんだ。男の子であるだけで許されて、認められて、愛されて。私がもらうはずだったものを、みんなみんな持っていってしまったくせに。


 彼の話を信じていたわけではない。大嫌いなやつが魂の伴侶だなんて、そんなひどい話があるか。

 だけど、彼の言葉は正しかったのかもしれない。いっぺん死んで、まったく違う姿に生まれ変わったその先で、目の前に現れたそいつが彼だと、すぐにわかってしまった、いまこのときになって考えてみれば。

 腹立たしいことに、彼はここでも許されるべき存在だった。オスであるだけで価値のある、三色の毛並み。私とまったく同じ色を纏いながら、全然違う価値を持つ、彼。

 私は彼が大嫌いだ。かつてと同じように、生まれ変わったいまもなお。


 喉の奥に唸り声を溜めて、私は大きく飛び上がった。

 彼に牙を向けるため?

 彼に爪を立てるため?

 ――いいえ、違う。

 彼から少しでも遠ざかるためだ。


 次の刹那、私は地面に叩きつけられていた。私と同じ毛色をした、けれど私のそれよりもずっと太く、逞しい前脚に背中を押さえつけられて。

 まだ、逃げるつもり? と彼は言った。

 こんなところまで来て、こんな姿にまでなって、それでもまだ僕を拒むつもり?

 いままできみのくだらない劣等感にずっとつきあってきたけれど、もう我慢も限界だよ。さあ、僕を見て。僕を受け入れて。僕を愛して。

 お願いだよ、魂の伴侶。

 彼はそう言うと、鋭くひと声、にゃあ、と鳴いて、私の首ねっこに、かぷり、とやさしい牙を突き立てた。

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