17 骸骨 妖怪 [検索]
魑力を使わない山歩きは想像以上に困難を極めた。目指す場所はいきなり山の中に現れた塔。遠目でもわかるが、古い立派な寺院に建っている三重塔か五重塔をさらにデカくしたような構造をしている。
だからといって参道が設けられているわけではないので、今までの魑力に頼った強行ルートを諦め、かろうじて歩きやすい獣道を選んで塔を目印に進んでいく。
歩いているうち、徐々に周囲に気配を感じるようになってきた。百舌に不安な視線を投げると、無言でうなずいて唇に人差し指を当てる。声は出さないほうがいいらしい。
最初はひとの気配だと思った息遣いや足音はだが、私たちが塔に近づくにつれ荒く、近くなってくる。これはどちらかというと獣のものではないかと心中に不安が広がると、それを読み取ったかのように衣擦れの音が混ざりだす。服を着ているということは人間なのだろうが、荒い呼気と一度に聞こえる回数の多い足音はどうしても餓えた獣を連想させる。
人間――獣――ぐるぐると頭の中を回っていた疑問が、ふとした恐怖によって結実する。
私たちの周囲を取り囲んでいるのは、人間でも獣でもないのではないか。
山の中に潜む異類。妖怪と呼称することもできる、得体の知れない存在。そんな連中が自分たちのテリトリー内で私たちを見つけ、じわじわと追い詰めている。
私は恐怖で竦みそうになりながら、ここにいるかもしれない菊花のことを考えた。
あいつ、自分の魑力の源を恐怖だと言っていた。基本的に感情を面には出さないが、原初と接続してしまうレベルの怖がりだということはたしかだ。そんなやつがこの状況を耐えられるのだろうか。
そして、これほどの恐怖を踏み越えてでも見つけだしたいと願っている千歳という女は――菊花にとってどんな存在なのだろうか。
百舌が腕を横に伸ばして「止まれ」と合図を出す。いつの間にか恐怖も忘れて悶々と菊花のことを考えていた私は、慌てて我に返って立ち止まる。
「妖怪馬鹿に子脅しは効かない」
「お連れがそうとは見えなかったものですからな」
低いわりに軽薄な調子の声でいきなり私たちの前にぬっと現れたのは、袈裟を着た僧侶らしき男だった。剃髪した頭はたしかに僧侶と思わせるが、目を隠すサングラスのせいで一気にスキンヘッドに方向が傾く。
「和尚自ら出迎えとはね。〈お山〉もよっぽど人手不足なのか?」
「ハ、ハ。他山からの客人となれば、拙僧が挨拶に伺うのが礼儀かと思いましてな」
「ケッ。なれはてをけしかけておいてよく言う」
「狗子に仏性ありともなれば、まして亡者も習わぬ経を読むというものでしょうなあ」
そろって声を上げて笑うふたり。当然サングラスとカラーレンズの奥の目は笑っておらず、互いに一歩も引く気はないという意思表示でしかなかった。
「こいつが〈お山〉の大将、
サングラスの和尚――白蔵主は寺まで案内すると言って私たちの前を歩き始めた。どうやら知り合いらしい百舌は汚いものでも見るように背中を指さして私に紹介し、ついていくことを決める。
「おふたりが来訪した理由はおおよそ把握しております」
「じゃあやっぱり菊花がここに――!」
白蔵主は腹から出した乾いた笑いで私の言葉をかき消す。
「そのことについては腰を据えてゆっくりと。あまりお山で口を開くものではないですな。会長殿と違ってこの場を乗り切る知恵もないのなら、なおさら」
たしかにまだ得体の知れない気配は私たちを取り囲んでいる。下手に刺激すると何をしてくるかわからない、と白蔵主は言っている。あるいは、私程度ならいつでも殺せる――か。
「しかし、私らが来たことにあまり驚いてないのな。カチコミかけられたとは――ああそうか、タイミング的に思わないか」
「ええ。それにそちら様がお山に分け入ろうとしていたことは前より承知しておりましたもので。見張りは常に立てておりますでな」
「さすがに鼻の利くことで」
悪態を吐きながら、百舌は渋面を作る。自分たちの確保した異界のルートが相手側に把握されていたということは、もし本当にカチコミをかけていた場合、完膚なきまでに敗北していたであろうことを示している。
塔が間近に見えるようになると、朽ちた山門と新築らしきお堂が目に入った。ここが〈お山〉の現世清浄僧団の本拠地。名前の通り寺院建築のようだが、山門に山号は書かれておらず、白蔵主もこの場所の名前を口にしない。
敷地内にお堂はひとつだけで、私たちはその中に上がり込む。白蔵主は一度奥に下がり、すぐに座布団をふたつ持って戻ってきた。
「お座りくだされ」
目の前に敷かれた座布団に腰を下ろし、ここまで歩き通してきた足の痛みに呻く。
「さて、そちらのお山の阿闍梨――菊花殿ですが、たしかにこちらにやってきておられます」
「どこに――」
私が身を乗り出すのを百舌が手で制して、私の言葉を引き継ぐ。
「まず、勝手に異界を侵犯したことを謝罪させてほしい。私らは菊花の不始末のケツ拭きに来た――と言ったら信じるか?」
「そのほうが都合がよろしいのでしたら、ご随意に」
菊花がここに来たことを聞き、すぐさま私たちが追跡に来たことへの建前をでっち上げ、罪を菊花のほうにミスリードする。ただ当然向こうも嘘八百であることは見抜いており、それでも円滑に事を運ぶため、建前を建前として認めてやると余裕を見せてきた。
たった一度の会話の往復で交わされた激しいせめぎ合い。下手に口を挟むべきではないとしっかり肝に銘じる。
「じゃあこれは本当のことなんだが、菊花が〈きさらぎ駅〉を出ていったのは自分の意思で、私たちにとっても寝耳に水だった。菊花は境界面を越えて、異界の漂流をやっている」
「なるほど。道理で、ですな」
現世から山を通じて〈お山〉に入るルートは見張られていたという。だが菊花は現世を経由せず、直接異界から異界へと渡り歩いた。〈きさらぎ駅〉の人間が本来想定していないルートで〈お山〉に入り込んだのに気づいた白蔵主は大いに慌てたに違いない。
あるいは、慌てたあとで、菊花がやっていることの無謀さから〈きさらぎ駅〉の関与はないと判断したか。
ならば今の落ち着きようにも説明がつく。おそらく百舌と同じように平然と嘘を吐いてくる手合いだろうが、そのわりには敵地のただ中という点を差し引いても百舌に比べて白蔵主には余裕がありすぎる。
「で、ウチの現地情報防疫官はなんか悪さしてった?」
「当山の僧侶数名を暴行し、公案を投げかけていきましたなあ」
「公案ねえ……」
公案――禅問答か。おそらく、菊花はこう聞いたのだ。千歳はどこだ――と。
「ウチのモンが迷惑をかけた。重ねて謝罪する。それで、そのアホは今」
「それが総出で捜索にあたったのですが、まんまと逃げられてしまいましてな」
軽薄な笑みを浮かべる白蔵主。捜索などと言ってはいるが、自分のところの構成員に手を出した報復を加えるために菊花を捕まえようとしていただけだとすぐにわかる。
だが菊花は白蔵主の掌中にはいない。
「一歩遅かった、か」
菊花はもうこの異界に見切りをつけ、別の異界へと漂流した。
「いや、いや。何も何も。当山の僧侶に手を上げた不始末、きちんと償ってもらえれば、それで結構。ですのでおふたりを歓迎させていただいておりますでな」
「美桜、走れるか」
「えっ」
勢いよく立ち上がった百舌はそのまま自分の座っていた座布団を白蔵主に投げつけ、私の腕を引っ張ってお堂を飛び出す。
「責任をとってもらわなければ困りますなあ」
白蔵主の声のあとに、お堂全体を震わせる読経が始まった。
「百舌さん! なんか逃げたほうがいいっぽいのはわかりますけど、なんで逃げてるんですかっ!?」
「現世清浄僧団なんて名乗っているこいつらは、もともと私らと同類、同業みたいなもんだった。〈大祭礼〉を防ぐために集められたのは私たち日本怪異妖怪保全会のほかにもうひとチーム、どんな汚いことでもやる呪術師集団がいてな。ここにいるのはその残党どもだ」
上がり框で自分たちの靴を履いて、そのまま山の中へと駆け出す。
「連中がやろうとしていたのは、敵の呪殺だ。その敵っていうのが呪いもクソもないような相手だったから全部無駄に終わったが、集まった呪術師同士が連帯した結果、今のこいつらになった。汚れた現世を呪いで焼き尽くしてここを新しい楽園にする――なんて頭のおかしなことを考えて、そのためにはどんなことでもする」
「あの、じゃあ、捕まったら――」
「よくて実験台。悪けりゃ燃料だ」
「そんな相手とよく楽しくお話しできてましたね!?」
シマを荒らされた〈お山〉のほうに理があると思っていたが、向こうはそれを笠に着て私たちを好きなように使い果たす。菊花がここにいないとわかった以上、逃げ出す以外の選択肢はない。
空が黒く光る。
「出してくるかーッ。そりゃ出すだろうけどさーッ」
悲鳴だか罵倒だか煽りだかわからない言葉を吐きながらも、百舌は黒く染まった空を見上げずに走り続ける。
私は走りながら、思わず空を仰ぎ見た。黒い太陽――空亡。日本怪異妖怪保全会が作り出し、敵に奪われ、今では現世清浄僧団が保有する兵器。
私が今ここにいるのも、よく考えればこいつのせいだった。現世を呪いで焼き尽くす空亡の炎から逃れ、本来死ぬはずだった私は死なずに現世で生きていくハメになった。
菊花の声――「逃げろ」と言われて、私の世界観は揺らいだ。そこで決定的に間違えてしまった。
しかし、菊花はなぜ「逃げろ」と叫んでいたのか。自分の声が正常な言語として認識されないと知りながら、誰に向かって危険を知らせていたのか。
「あの日もこんな空でしたかな?」
僧衣を着た四足歩行の何かがこちらに駆けてくる。背中には白蔵主が腰かけており、山道を素早く移動するための乗り物として使っているらしい。
あっという間に私たちの前に回り込んだ白蔵主は、両腕を広げて天を仰ぐ。
「おかしいと思ったことはいくつかある」
立ち止まった菊花が、慎重に言葉を選びながら口を開いた。
「美桜が死ぬはずだったあの日、菊花はなぜか自分から現世に赴いた。そこになぜかタイミングよく、終末兵器である空亡が出てきた。菊花はそこで、初めて現世人類の保護に成功――その時は失敗だが、結果的には成功した」
百舌は指を三本立てる。
「菊花に現世に行くようそそのかし、〈お山〉に空亡を使うようそそのかし、美桜を現世から切り離した状態で現世で走らせるように仕組んだやつが――いたとしたら怖いよなあ」
「恐ろしいですなあ」
ちりちりと毛先が焦げ始める。空亡は空に浮かんでいるだけでこちらの精神を着実に炙っていた。冷静に白蔵主を挑発する百舌の胆力に私は驚きを禁じえない。
「怖い話はいったん置いておくことにして、お前、美桜を殺したかったんだろ」
「拙僧は万人を等しく殺めたいと思っておりますが」
「それは本心だが、この場では嘘だ。お前は私たちが〈お山〉に侵入した時、美桜が日本怪異妖怪保全会の人間ではないと知っていた。私らはお互いのチームに干渉していないから、顔を知らないメンバーはいくらでもいる。その中の誰かが私についてきたのではなく、日本怪異妖怪保全会とは無関係の新参者が同行しているとお前は判断した。理由は簡単だ。お前が美桜のことをよーく知ってたからだろ?」
あの日。空亡が街を焼いた日。唯一助かった――現世の修正から外れてしまった私。そこになんらかの意思が介在していたら――と、百舌は白蔵主を挑発している。挑発――だけだろうか。
「お前が空亡を使ったのは、美桜を確実に殺すためだった。なら今また空亡を出してくるのにも納得だよなあ?」
恨みを買うようなことはさんざんやってきた自覚はあるが、2017年に現世から脱出した国お抱えの呪術師から恨みを買った覚えはない。
だから――シンプルに、だんだん腹が立ってきた。
もし、この坊主が笑ってそれを肯定したら。
「ハ、ハ。この
ノータイムで蹴りつぶそう。いま蹴りつぶした。
「ええ……」
つま先がみぞおちに入り、まともに息もできずにのたうち回る白蔵主を冷ややかな目で見ながら、百舌が困惑の声を漏らす。
さらにつま先を脇腹にめり込ませようとする私を、百舌が慌てて止める。一瞬、百舌に殺気のこもった目を向けるが、すぐに自省する。ノータイムでキレるのと同じ速度で冷静さを取り戻すことができるのも無敵状態の私の長所だ。
「こわーっ……ひとまず、空亡が出てきたのはピンチだけども、チャンスでもある。稼働状態の空亡の情報質量はひとつの異界に収まるサイズじゃない。一度出てきたからには、現世まで飛び出して燃焼させなければ再度の保存はできない。だからここも、徐々に――」
足腰に力が戻ってきた。魑力が全身を巡っている。
「現世に戻ったな。駅まで走るぞ!」
空を覆う黒い太陽はまだそこにあった。
「く、空亡!」
白蔵主がなんとか声を絞り出す。空亡の表面が爆発し、容赦のないフレアが一帯の山の木々を燃やし尽くす。
魑力で自分以外を減速させた私はだが、これは無理だと悟る。私の魑力の性質は「世界を遅くする」であって、菊花のように自分がとにかく早く動くわけではない。なので一度放たれてしまったフレアをかいくぐって抜け出すには判断が遅すぎ、太陽の範囲が広すぎた。
「波羅蜜に座せ――」
百舌が今にも燃えだしそうな私の前に躍り出ると、誓言を口にする。
「〝骸骨妖怪〟」
さっきまで皮膚を焼いていた熱さが急に消えた。
百舌と私を包むように、巨大な白い骨が組み合わさっていく。最後に気球ほどの大きさのしゃれこうべが現れ、私と百舌は馬鹿デカい骸骨の中に収まっていた。
これが百舌の魑解――〝骸骨妖怪〟。その骨組みの中にいると、地上を焼いている最中の空亡の炎の熱すら感じない。
「あんま早くは動けないんだよ、これ。そっちの魑力の加速は抑えてくれると助かる」
「わ、わかりました」
山を登ってきた時と同じく魑力をブーストだけに使い、黒く燃える山をゆっくりと下っていく。
「百舌さんの
「ん? ああ。種を明かしても問題ないし、美桜には言っとくか。私の魑解は、『絶対に負けない』魑解だ。なにしろ骸骨妖怪っていう妖怪が、『退治する方法はない』妖怪だからなー」
それ、無敵ってことなのでは。
安全な〝骸骨妖怪〟の中で、百舌は遠い目をして空を見上げる。
「空亡、取り返したかったな……」
実質無敵の〝骸骨妖怪〟を使っても、空亡を無力化して回収することはできない――百舌はそう言っている。
「暴れろ――」
骨と骨の隙間から身を乗り出し、誓言を口にする。
「〝天刑星〟」
燃えさかる黒い炎を手でつかんで握り、口に運ぶ。熱さよりも、どろりとした粘り気のせいで飲み込みにくい。
「食べられますね、これ。全部食っちゃいましょうか?」
百舌が見上げていた空亡を指さす。
わずかに身を乗り出した百舌はだが、大人しく〝骸骨妖怪〟の中へと引っ込む。
「少なくとも、今はいい。今の私たちは〈きさらぎ駅〉に帰還することが第一だ。空亡がガス欠になるまで〝骸骨妖怪〟でしのげる。あとは駅で電車に乗れさえすればそのまま〈きさらぎ駅〉に戻れる。だけど――」
百舌はどこか愛おしむように、空を見上げる。
「可能性のひとつとして、頭に入れとくよ」
「ええい、待たれよ、待たれよご両人! お山に無断で立ち入ってなんのお咎めもなく帰れるとお思いか!」
「そのことについてはきちんと謝罪しただろ」
袈裟を振り乱して山を駆け下りてきた白蔵主に、百舌は冷たく言い放つ。
「それだけではなく、あろうことか拙僧を相手に狼藉を働くとは! 許されません、許されませんぞ! かくなる上は我が魑解をもって、調伏して進ぜよう!」
カーッと声と息を吐き、白蔵主は居合いの構えをとる。
「あぶれろ――」
減速した世界をぬるりと進みながら、行く手を邪魔する炎を次々口に運んでいく。
白蔵主の口がまだ「ろ」の息を出している中、その懐へと潜り込み、さっきと同じ前蹴りをみぞおちに入れる。わずかに浮いた白蔵主の身体に背を向け、来た道を戻って〝骸骨妖怪〟の中へと入った。
「めンボッ」
「うるせえ」
また地面に転がった白蔵主を置き去りにして、私たちは山を下りていく。
「ああー……下手したら空亡に焼かれて死ぬな、あいつ……」
菊花は世の無常にしみじみと感じ入っていた。
空亡が消えると、燃え尽きた現世が再構築されていく。巨大な骸骨の中から見るそれは、ひどく現実感を欠いていた。
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