18 階層

 私と百舌が電車で〈きさらぎ駅〉に戻ってくると、驚愕の声で駅舎が揺れた。

 別の異界に行く――これがどれほど危険な行為か。いま行ってきた私にはイヤというほどわかる。だから長年かけて〈きさらぎ駅〉を開拓してきた日本怪異妖怪保全会の連中も、私と百舌が無事に帰ってくることを信じてはいたが、本当に生きて帰ってくるとは思っていなかったらしい。

 百舌の無事を喜んで涙を見せるひとも多かった。まだ付き合いの浅い私の周りにはひとが少ないが、義理堅く百舌を守ってくれてありがとう、と感謝を伝えにくるひとは後を絶たない。

 私はほとんど百舌に守られていただけだとその都度口にしたが、謙遜だと思われて取り合われなかった。

 奇跡の生還を喜び合ったあとで、徐々に陰鬱な空気が漂い始めた。

 私たちは第一の目標を達成できていない。

 菊花は〈お山〉にいなかった。たしかに〈お山〉を訪れてはいたが、私たちの到着より先に別の異界へと漂流していた。

「〈きさらぎ駅〉としては、菊花の捜索はここで打ち切らざるをえない」

 苦い顔で言う百舌。日本怪異妖怪保全会の面々が神妙にうつむく。

「菊花はずっと、千歳との約束を律儀に守ってきた。〈きさらぎ駅〉に三人目の魑解到達者が現れるまで、ここを守ってほしい――っていうな。美桜が魑解に至ったことで、菊花を縛るものはなくなった。ならもう、あいつの自由にさせてやるのも、考えようによってはアリだ」

 重苦しい沈黙。異界から異界への漂流者を捕まえて連れ戻すことが、まず不可能だと全員が理解している。

「私はまだ収まってないですけど」

 声を出した私に、百舌は優しく笑いかける。わかってるよ、とでも言いたげに。

「美桜が〈きさらぎ駅〉に協力してくれたらものすごく助かるが、私らに強制する権限はない。〈きさらぎ駅〉としては出奔したアホの追跡を打ち切るし、そいつを追っかけるどアホを支援することもできないが、止めることもできない、という立場だな」

 ホームに電車が到着する。降車してきたのはスーツ姿の男――日暮だった。

「会長、少々まずいことに」

「その呼び方やめな。現世で何かあった?」

「ええ。また魔王です」

 そう言った日暮の姿を見て、私は違和感を覚える。前回の魔王侵攻の際、現世に出ていた〈きさらぎ駅〉の面々はほとんどが重傷を負っていた。日暮もスーツにどす黒い染みをいくつも作り、平気そうな顔こそしていたが相当の負傷だったと聞く。

「でも暴れてはいない、と」

 百舌もそのことに気づいたのだろう。慌てることなく、日暮に先を促す。

「はい。それどころか、間に〈バックルーム〉の解放戦士を通訳に挟み、こちらと意思の疎通をしようとしています」

「何を言ってた?」

「〈椿の海〉に〈きさらぎ駅〉よりの侵入者あり。身柄の引き渡しの意思あり。交渉のため、現地情報防疫官の現世への召喚を待つ――と」

「うーん、罠臭い」

 にわかに色めき立った私とは逆に、百舌は渋い顔をする。

「だいたい、こっちは前に向こうの魔王ふたりを二回にわたってボコボコにしてるわけ。報復のためのお膳立てと考えるのが普通じゃない?」

「自分もそう思いました。ですので、美桜さんが出ていくのは避けたほうが無難かと」

「待ってください、菊花が〈椿の海〉に捕まってる――ってことなんですよね?」

「額面通りに受け取ればな」

 百舌は交渉の相手が魔王であることを忘れていない。どんな裏があるのか、高速で検討を繰り返している。

「まず、菊花が〈椿の海〉を訪れたのはおそらく本当だろう。異界同士の情報の交換はあまりないし、あったとしても遅い。菊花が漂流しているという情報を手に入れて罠を構えた、というのは考えにくい」

「だったら――」

「ただし、〈椿の海〉が菊花の身柄を確保したというのは、かなり怪しい」

 魔王の国に行って、菊花が無事に逃げおおせることのほうが想像しにくい気がするが、百舌は私の考えを読んで話を続ける。

「異界の中では魑力は使えず、魑解だけが使える。〈椿の海〉でもそれは変わらない。現世で見た圧倒的な力も、結局は魑力の応用でしかない。だから異界の中でなら、魔王といえどもスペック自体は人間と変わらない」

 存在するだけで街を燃やすほどの威圧感。手を振るっただけですべてを吹き飛ばす衝撃波。魔王という肩書きと実際に相対した時の戦慄のせいで、それらが魑力によるものだとは思いもしなかった。

「無論、魑解を使えるだけでただの人間にとっては凄まじい脅威であることに変わりはない。だけど、菊花の魑解――〝魔王の小槌〟の性質を考慮すると、ちょっと事情が変わってくる」

「あっ――」

 菊花の〝魔王の小槌〟には、魑解を無効化する力がある。魑力が使えず、アドバンテージが魑解だけとなった異界の中では、魑解を無効化する菊花は――反則級に強い。

「異界の中なら、菊花は魔王が相手だろうと負けることはないだろう。そんなやつをいくら多勢に無勢でも捕まえておけるかというと、だいぶ疑わしいだろ?」

 第一菊花の目的は千歳とかいう女を捜すことだ。その異界にいるかどうかを何人かに尋問したら、また別の異界へと漂流を繰り返す。長居する必要もないのだから、用件がすんだらさっさととんずらするだろう。

 魑解を使っても敵わないが、すぐに逃げだす相手を捕らえて〈きさらぎ駅〉との交渉材料にする理由は、皆目見当たらない。

 だが、もし〈椿の海〉が〈きさらぎ駅〉への報復を考えているなら。〈椿の海〉を侵犯した菊花というイレギュラーは、格好の餌になる。

「でもなー、話を受けないわけにもいかないんだよなー……」

 百舌はげんなりと肩を回す。

「菊花が〈椿の海〉を侵犯したことはまず間違いなく本当だろうし、向こうが嘘でも身柄を引き渡すつって通訳まで立てて交渉を望んでいる以上、出ていかないわけにもいかないんだよなー……。〈きさらぎ駅〉と菊花はもう無関係で押し通そうにも、じゃあ菊花の暴走の落とし前は誰がつけるんだって言われると、あのアホの世界観になってる〈きさらぎ駅〉しかいねえだろってことになるんよなー……」

 しかも、交渉の場は魔王に圧倒的に有利な現世という指定すらある。異界間の往来が困難である以上当然の交渉場所だと言えるが、罠と考えるのが道理だろう。同時に罠とわかっていても顔を出さなければならないようにお膳立てしてある。

「とりあえず交渉には私が出るとして、あとは何人かついてきてもらって、別働隊を配置して抗争に備えておくって感じかー……日時の指定は?」

「現世時間で明日の正午、と」

 すでに日は暮れている。

「よし。寝る」

 言うが早いが百舌はホームのベンチに横たわり、新聞紙を布団にして寝息を立て始めた。

 死ぬ思いをしながら山を登った疲れは私にも溜まっている。

「私も寝ます……そういえば事務室を独占しちゃってますけど、みなさん寝る場所ちゃんとあるんですか……?」

 あくびをかみ殺しながら日暮に聞くと、少し驚いたように笑う。

「みんな事務室の寝袋で寝ていますよ」

「え? でも――」

「うん。そうですね。美桜さんはつい先日まで私たちの誰とも遭遇しなかった。でも、私たちはずっと〈きさらぎ駅〉にいたんですよ。私たちは〈きさらぎ駅〉の世界観の上に立っている。ですがそれぞれ、個人の世界観を有している。この異界の環境は、それぞれの世界観が何層にも積み重なっているんです。事務室の寝袋で眠るというオブジェクトが、いくつものレイヤーに分かれていると考えてください」

 デジタルで絵を描かない私にはどうにもわかりにくいたとえだが、たぶんもっと単純に、階層レイヤーと考えればいいのだろう。あるいは、異界の中の異界、か。

「それぞれのレイヤーに分かれることで、事務室の寝袋で眠るという行為を各人がとれるわけです。最終的に帳尻が合えば多少のぼやけやにじみは無視できる、というのが異界の利点ですね」

「えーっと、じゃあ、私が寝てるという状態の上と下で、何人ものひとが同じように寝てるわけですか」

「素晴らしい理解です。私たちはそれぞれの〈きさらぎ駅〉環境に同時に存在しているわけですね。だからこうやって大勢が同じ環境に集まることはあまりないんですが、それだけ会長とあなたの帰還が衝撃的だった、と」

 日暮はおっとと口を押さえる。

「会長があれだということは、美桜さんもお疲れでしょう。引き留めてしまってすみませんでした。おやすみなさい」

 そう言って日暮は私がこれから寝るのと同じ駅舎のほうへ歩いていく。

 駅舎に入って事務室のドアを開ける。いつも通りひとの気配はなく、私以外の人間はいない。百舌にもらった寝袋も最後に見た時と同じ、そのままの位置でくしゃくしゃになっている。

 でも、ここは――〈きさらぎ駅〉は何層ものレイヤーが重なっているらしい。上を見て、下を見る。当然私のレイヤーからほかのレイヤーは見ることができないが、何人もの人間がここで同じように寝ているのかと考えると、あまり安らかに眠れる気はしなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る