7 時空のおっさん

 そういえば〈きさらぎ駅〉に来てから、ホーム以外に出入りしたことがなかったという事実に今さら気づく。

 異世界だか異界だか知らないが、きさらぎ駅というなら「駅」だけが異世界で、あとはただの異じゃない世界なのかとも思ったが、そんな甘い場所ではないらしい。なにせ近くで焼死体がよく採れるという意味不明の立地である。

 なのでホームを出て改札を抜け、目当ての人物を探すことにした時、菊花は決して自分から離れないように、とキツめに言った。

 駅から少し離れて、駅舎を振り返る。一応の屋根のついたボロいコンクリートの建物。おもむきも風情もないが、それは駅から延びる道も同じだった。あちこち舗装の剥げたアスファルトの道がだらだらと蛇行し、枝分かれしながら続いている。いっそ草原や砂漠なら異世界感があるのに、アスファルトのない地面には背の高い雑草がまばらに生えていたり、大きな砂利が敷き詰められている。地元でよく見かけた耕作放棄された畑や、田んぼを埋め立てて作られた駐車場を連想させる。

 百舌の話では妖怪ハンターとかいうチームが〈きさらぎ駅〉を開拓したらしいが、ボロい駅舎から離れて荒涼としたアスファルトの道を歩いている間、ひとの気配はまるで感じなかった。いったい何人の人間がここで生活しているのか。そもそもこんなとこで生活している連中は果たして人間なのか。疑問は尽きないが、菊花が探している相手は――人間ではないらしい。

 大きな通りに出た。通りといっても、アスファルトの道幅が広いだけで建物はなにもない。

 菊花は急に、前方に向かって走り出した。現世で見せたような圧倒的なスピードは出ていないが、それでも私を突き放すには十分な速度だった。

 自分から離れるなと言っておきながらこれだ。置き去りにしたりはしないと確信できるくらいには私は菊花を信じていたが、相変わらず説明不足この上ない。

「コラッ」

 男の怒声が響く。瞬間、菊花の動きがぴたりと止まる。

「こんなところでなにをしてる。早く帰りなさい」

 現れたのは半白頭で上半身がスーツ、下半身がジャージという奇妙な恰好の男だった。淀んだ目で菊花を見ると、小さく溜め息と舌打ちの中間くらいの音を漏らす。

安野あんのさん、話がある」

「やだ」

 安野と呼ばれた男は、急に子どもっぽく短い返事をして立ち去ろうとする。

「新しく異世界に迷い込んだ子がいる。時空のおっさんの仕事はしなくていいの?」

 今度は明らかに舌打ちをして、安野は私の前に歩み寄ってくる。

「君、ここがどこだかわかってるのか」

「えーっと、きさらぎ駅」

「そうだ。ここは君のいるべき世界じゃない。早く帰りなさい。そう落ち込まないで。もとの世界に戻れるように力を貸すから」

「えっ、本当ですか」

「終わり」

 それまでの饒舌さが定型文を読み上げていただけだと即座にわかる、短くやる気のない言葉。安野は私に対して興味を失ったように早足で離れていく。

「安野さん、その子、魑力を持ってる」

「見れば」

 わかる――と言いたいらしい。

 しかし、この安野というおっさん、どうにも、私の中のイヤな部分を刺激する。この感覚は間違いない。このおっさん、やばい奴だ――。

「ちょっと菊花、説明してよ」

「ああうん。このひとは時空のおっさんの安野さん」

「時空のおっさん?」

「そうだね。僕のように異世界に迷い込んでしまった人間をもとの場所に返す役割を持った存在を、皆さんそう呼ぶらしいよ」

「もともとネットロアにあった怪異のひとつ。時空のおっさんとして稼働している時の安野さんは優しいしわかりやすいけど、素の安野さんは悪人だから気をつけて」

 つまり、時空のおっさんという怪異としての役割と、安野という自己を完全に切り離しているということなのか。しかし怪異としての人柄のほうが親しみやすいというのもおかしな状態な気がするが――それだけ安野というおっさんがやばいということか。

「で、安野さん――時空のおっさんじゃない時の安野さんは、私に魑力の扱いを教えてくれた、師匠のようなひとなの」

 はあ、それで私にもその扱いというのを学ばせよう、と。とうの安野は全然乗り気じゃないみたいだけど。

「安野さん、美桜に魑力の扱いを教えて」

「やだ」

 また営業モードから素に戻っている。

「あのさ、そもそもその、魑力ってなによ? 菊花がすげー早く動けるのと関係ある?」

「話せば」

 帰るか? と言いたいらしい。菊花は引き下がるつもりはないようだが、私はひとまずうなずく。

「魑力というのは現世から乖離した人間が、現世とのズレによって引き出すことができる力の総称だね」

 営業モードだ。

「現世に存在する位相のズレた人間が、己の内面から汲み上げることによって現世に作用する力。魑力を引き出すにはなによりも、自分の内面を知らなくてはならない。具体的には、自分の内面で最も強く作用するものを自覚し、それが世界の閾値を超えるほど強くなくてはならない。だから魑力はひとによって様々で、正確に他人に扱い方を教えることは不可能に近い」

「えっ」

 菊花が驚く。

「僕とこのひとの魑力は同源のようなものだったから、似た扱いとして教えることができたんだね。だから残念だけど魑力の源がわからない相手に教えられることはなにもないんだ」

 早口でまくし立てると、安野は今度こそ早足で去っていった。菊花も呼び止めることはしない。

「――戻ろう。実際、駅から離れた場所に長時間いるのは危険だから」

「ああ、うん。ところでさ、菊花の魑力の源って、聞いてもいいやつ?」

 私は質問をしてから、ああ、しまった――と後悔した。

 菊花は小さく笑っていた。卑屈な、自嘲の笑みだった。

 初めて見るこいつの笑顔が、もっとマシなものだったらよかったのに。私の質問のせいで、菊花はあまりにも惨めな笑顔を作ってしまった。

「恐怖」

 菊花は歪んだ表情のまま、溜め息を漏らすように答えた。

「生物にとって最も古く、最も速く伝達される感情。最古にして最速――それが私の魑力の性質」

 淡々と話す菊花だが、私は信じられない思いでいっぱいだった。菊花は常に仏頂面のつっけんどんで、自分勝手に動き回るやつだというのが、私の正直な感想だった。

 だが、菊花の内面で最も強い存在――魑力の源を、こいつは恐怖だと告白した。

 じゃあ、あの仏頂面で飛び回っている間、菊花はずっと怖くて怖くて仕方がなかったのか。どういう理屈で動いているのか、どういう感情に振り回されているのか、私には知るよしもない。

 魑力の仕組みを、私はまだ理解しきれていない。だから菊花が常時恐怖に襲われているかどうかもわからない。それでも、菊花が世界をズラしてしまうほどの怖がりだということはたしかだった。どんな怖がりだ。あの異常なスピードは、本来なら恐怖で逃げ出すための最高速度なのか。

 ちゃんと、魑力というのを身につけよう。理解して、扱えるようになる。はっきりと自分に誓う。戦うとか、妖怪とか、そういったことを考えるのはいったん後回しにしておく。

 菊花がどんな思いで戦っているのか、少しでも理解したいと思うから。

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