8 音速い…音速いぞ!

 電車に乗って現世に戻ってきた私は、廃ビルの屋上で座禅を組んでいた。

 駅を出てしばらく歩き、人目がないことを確認すると、菊花は私を抱え上げてそのままビルの屋上まで跳んだ。あの時菊花に助けられたことを思い出した。事前確認なしでいきなり空を飛ぶあたり。

 私を丁重に下ろすと、菊花はまず自分の魑力の使い方を実践してみせた。

 と言っても、菊花の説明はまるで説明になっていなかった。

「ぞわっときたら、抑える」「ひやっときたら、溜める」「ブルっときたら、放つ」といった調子で、まさしく自分の中だけの感覚的で抽象的な表現。実際に凄まじい速度で移動したり、跳躍したり、拳や蹴りを放ってみせたが、私の魑力が菊花と同じとは限らないし、違う可能性のほうがはるかに高いらしい。そうなると菊花の説明もほとんど無意味ということになる。

 ひとつたしかなのは、魑力を引き出すためのトリガーは私の内面で最も強く作用するものだということ。要は一番強い感情を見つけろ、というのが今の私への課題だった。

 安直だとは思ったが、私は精神統一の真似事をすることにした。心が凪いでしまえば強い感情は見つからないような気もするが、魑力は必ずしも感情と結びつくわけではないらしい。

 精神統一、などと言ってみたはいいが、私は別段なんの修行も哲学も持たない大学生なので、自然と思考は散り散りに乱れていく。〈きさらぎ駅〉に流れ着いてからずっと、ひとりで落ち着いて考えを巡らせる暇もなかった。まあ目を閉じた私の前には菊花が立っているわけだが、目を閉じていればいないのも同じだ。

 考えることは、やっぱり優希と羽海のことだった。私のかけがえのない友人。三人一緒なら私は無敵になれた。でも優希と羽海がいない私はなにもできずに泣くことしかできなかった。私はふたりを置き去りに、現世では死んだことになっている。今ごろ性別不明の焼死体が私ということにされているのか。ふたりは泣いてくれただろうか。時々考えていたことがある。自分が死んだあと、周囲の人間がどんな反応をするのか確かめる方法はないかと。今ならできるんじゃないか? 私は幽霊みたいなものだし、おそらくもう相当世界とズレているから、現世の人間は私を知覚できないかもしれない。じゃあ見に行くか。私の葬式。

「美桜」

「うわっ!」

 いきなり声をかけられて、私は息継ぎをするように声を上げた。びっくりした。いま、なにを考えてた? 危ない危ない。下手にひとりで考えるとろくなことを思いつきやしない。

「大丈夫? もしかして、つながった?」

「え? は? なにが?」

 動揺を悟られないように座禅の姿勢を崩す。菊花は残念そうに目を伏せ、「ごめん」と謝る。

「近くにほかの異世界の人間の気配がある。私が感じるということは、相手も魑力を使えるはず。ちょっと様子を見に行きたい」

「それって危なく、ない?」

「わからない。相手の出方しだい。私のほうからは手は出さない」

「ああ、そう、私……は? ここにいたほうがいい?」

 まだ動揺が残っている私の言葉に違和感を覚える様子は菊花にはない。

「うん。もうすぐこのビルの下を通るはずだから、ここで見てて。私は下で様子を窺う」

 言うが早いが、菊花はビルの屋上から飛び降りた。落下するよりも速く宙を駆けることができるから、墜落死の心配はないらしい。よくわからない理屈だ。

 私は用心深くビルの屋上を囲う鉄柵に手をかけ、気が進まないながらも下の道を見下ろした。

 瞬間、息を忘れた。

 眼下の細い道を、優希と羽海のふたりが並んで歩いている。離れているがすぐにわかる。優希と羽海だ。私の、一番大切な――。

 そのふたりの前にひとつの影が躍り出る。

 私はその姿に見覚えがあった。菊花に助けられたあの日、私と優希と羽海の三人でボコボコにした露出魔のおっさんだった。

 最悪だ。

 やばい奴がお礼参りにやってくる――私がずっと恐れ続けていた代償が、私のいないところで優希と羽海にだけ降りかかっている。

「あ――あああああ!」

 久しぶりに味わう感覚。頭の中のなにかが完全にキレる。ストッパーが吹っ飛ぶ。無敵になってしまう。

 私は鉄柵を乗り越えると、そのまま五階建ての廃ビルの屋上から地面に飛び降りる。

 普通に考えて、死ぬ高さだった。だが私は当然のように並び立つビルとビルの壁を交互に蹴っていく。稲妻のように落下した私は、そのまま露出魔に向けて蹴りを放つ。

「美桜!?」

 菊花の驚いた声。だがそんなものは今の私には届かない。とにかくこのおっさんを片さないといけない。優希と羽海を守る。こいつを殺してでも――。

「危ない!」

 菊花のものではない声。優希と羽海のものでもない。男の声だった。

 私は何者かに引っ張られて身を屈めさせられる。自分の髪の毛が数本、なにかに掠って宙に舞った。

 私が蹴りつぶしたはずのおっさんが、私の上に覆い被さっていた。こいつ、ナメやがって――なぜそうなったと考えるより先に、この男をぶちのめすことに頭がいく。密着されている不快感など置き去りにして、私は自由になる足を振り上げ、強引な角度からおっさんの背中につま先をめり込ませる。

「ぐっ――落ち着け! 今はこの場を離れるのが先だ! 魑力が暴走してるのか?」

 暴れる私に密着しているおっさんの背後に菊花が飛び出てくる。菊花はおっさんの胴回りに腕を回すと、そのままトップスピードでビルの屋上へと跳んだ。

 おっさんごと屋上に連れ戻された私は、まだおっさんの腕の中で暴れていた。

「美桜、美桜! 落ち着いて。そのひとは敵じゃない。今のところは」

「ふざけんな。ふざけんなよオイ! どのツラ下げて私らの前に出てきてんだアア?」

「美桜、よく聞いて。そのひとは美桜を助けてくれた」

 知るかそんなもん。やばい奴をぶちのめすにはそれ以上にやばい奴と化すしかないんだよ。そうしなけりゃ私は自分も守れない。

「くっ、追ってきたな。君たちは、どこの?」

「〈きさらぎ駅〉の現地情報防疫官」

「僕は〈バックルーム〉の解放戦士だ。敵対する理由はなさそうだが、この子は――」

「私にもわからない。美桜はまだ魑力を扱えないはず」

「この力、間違いなく魑力のブーストが乗ってるよ……!」

「申し訳ない。が、もう少し美桜を頼みたい。奴らの相手は、私がする」

 懐かしい気配を感じて、私は一度力を緩める。目だけを気配の方角に向けると、優希と羽海のふたりが並んで立っていた。

 ビルの屋上の、鉄柵の上に。

 私は思い出す。

 菊花に助けられて現世に残った私の目に映っていたのは、なにもかもが狂った世界だった。

 その中には、当然、優希と羽海も含まれている。

 菊花が優希と羽海に向かって地面を蹴る。

「待っ――」

 優希の口ががばりと開き、そこから巨大な毛むくじゃらの腕が突き出てくる。腕の先は拳を作っており、ぶんぶんと振り回して菊花を迎撃するつもりだ。

 菊花は一度ステップを踏み、無防備に見える羽海のほうへと方向を転換する。

 羽海の背中から、蛹が羽化でもするように、何本もの足が生えてくる。生えそろった足は羽海の身体を持ち上げ、菊花の急襲をかわす。

 そこに優希の腕が届き、菊花の太ももを強打する。瞬時に間合いから離脱した菊花は顔を顰めて足を押さえていた。

 私はもう暴れるのをやめていた。

 そうだった。

 優希と羽海は、少なくとも私の目には、もう、まともに映らない。

「なにが起きた……? 速すぎる――」

「あの」

 私はおそるおそる声を発する。優希と羽海を失った私が、無敵になれるはずもない。

 そのおかげで、ここまでの経緯をなんとなくだが理解できるようにはなっていた。

 まず、菊花が察知した別の異世界の人間というのが、このおっさん。

 おっさんはおそらく、優希と羽海だったものを始末しにやってきた。たぶん、〈きさらぎ駅〉のやっている妖怪狩りと同じような目的だったのだろう。

 そこに、ぶちギレた私が乱入。おっさんを再起不能にしようとしたが、おっさんは魑力を扱えるので私の一撃を回避。乱入した私に反応した優希と羽海だったものが私を攻撃しようとしたところを、間一髪おっさんが助けてくれた。そんな中でも私はキレたままで、おっさんを遠慮なく殴る蹴るしていた。

 危険を感じた菊花がおっさんごと私を屋上へと退避させたところに、ふたりが追ってきた――そして現在、菊花が交戦中というわけだ。

「すみませんでした。その、助けてくれてありがとうございます……。私のこと、覚えてます?」

 おっさんは急にしおらしくなった私に困惑したものの、もう暴れる心配はないと手を離した。

「ああーっ! 君、あの時の暴力娘か!」

 そのまま、私の顔を指さして驚愕の声を上げる。

 大声を発してすぐ、急に居心地が悪くなったように唸る。

「いや、あの時は本当、申し訳なかった……」

「いえ、私こそ……その、殴ってすみませんでした」

 全裸のおっさんのほうに非があることは、元全裸のおっさんにもわかっているのだろう。私が謝ると、いやいやと慌てる。

「とにかく、今は目の前の怪異をどうにかしないといけない」

「あのふたりは、私の――」

「いや、あれは君の友達なんかじゃない。君の友達だったものの中に入り込んで乗っ取った怪異だ。僕は、当人たちから現世に残った肉体を消去してほしいと頼まれて、ここにいる」

 私は、思わずおっさんに詰め寄った。

「優希と羽海も、異世界に……?」

「ああ。あの日、空亡が一帯を焼き尽くした時に、僕は〈バックルーム〉に救出された。君は〈きさらぎ駅〉。彼女たちもまた、別の異界に救出されていたんだ」

 そこでおっさんは少し言いよどむ。だが私はそんなことを気にしている余裕はなかった。

 優希と羽海が、異世界で生きている。

 ただそれだけで、私の目の前が一気に明るくなっていく。

「優希と羽海は、今どこに」

「〈椿の海〉という異界に救出されたようだ。ただ――」

 ふう、と息を吐く。手首と足首をスナップ。身体にまとわりついた埃を払うように手をパンパン。

「じゃあ、あそこのバケモン、ぶちのめしていいんだな」

 魑力がどうこうとかいう理屈はまだわからない。だけど今の私は無性に万能感に包まれていた。

 キレている――と言ってもいい。優希と羽海にまた会える。そう想像しただけで、私は無敵になれていた。

 あちこち塗装が剥げ、でこぼこした廃ビルの屋上で数度軽くジャンプする。地面の感触を掴むと、私は軽い足取りで駆け出した。

 視界がゆっくりと移っていく。世界がスローモーションをかけたように緩慢に映る。

 対して私の速度は落ちていない。大して速くない足で、優希と羽海の身体を使っているバケモンに向かっていく。

 この世界で一番速く動いているのは、やはり菊花だった。足を痛めていたはずだが、ダメージを感じさせない速度で動き回り、二体の連係をかわしつつ攻撃を入れようとしている。

 おっさんには、菊花の動きが目で追えていなかった。そのおかげで私は自分の魑力の性質に気づいた。

 自分以外の時間の停滞。あるいは自身の体感時間の拡張。スポーツ選手がゾーンに入った時、すべてのプレーがゆっくりに見えるように、今の私には世界のすべてが遅く感じられる。

 そして、その中で私は、普段通りに動くことができる。

 ああ、そうだった。無敵になってる時と同じなんだ。ノータイムで変質者に蹴りを入れたり、誰にも負ける気がしなかったり。それを実現できていたのは、この無敵のゾーンに入っていたから。

 まず優希だったものへと迫り、ゆっくり目の前を泳いでいる口から生えた腕に当たらないように身を屈めて懐へ潜り込む。完全に無防備な顎に下から鋭いパンチを撃ち込む。

 脳が揺れるまでに私の体感ではまだ時間がかかりそうなので、無数のローキックを足にたたき込んでおく。

 優希の頭ががくりと上を向いたタイミングで、隣の羽海だったものへと詰め寄る。

 背中から生えた足で身体を浮かせたバケモンの身体を支えている足を一本一本足で払っていく。バランスを崩し、地面に下りてきた身体の背後に回り込み、まだるっこしいのでジャンプして首に腕を回しかけて裸絞めを極める。

 このころにはすでに優希だったものの脳が揺れており、それまで振り回していた腕が力なく垂れ、踏ん張りが利かなくなった足から地面に倒れていく。

 菊花の驚愕の表情がよく見えた。だが迷うことなく、無防備となった優希だったものに菊花は最速の蹴りをたたき込む。

 沈んだ相手を見もせずに、私が絞めている羽海だったものに目を向ける菊花。真っ直ぐに私の目を見た菊花からのアイコンタクトに、私はすぐに気づくことができた。そのまま、動くな――。

 菊花の一撃が腹部に決まり、羽海だったものもまた沈黙する。

 私はもう動かないことを手触りで確信し、腕をほどいて屋上に倒れた二体のバケモンを見下ろした。

 時間はもう、元通りに流れている。

 よくこれを今まで優希と羽海だと思い込んでいたものだ。ぐずぐずと溶け崩れていく身体の中からは無数の手と足が覗いていた。

「手長と足長――か。これは〈きさらぎ駅〉が回収するが、よろしいか」

 菊花は時間に置いていかれたおっさんに向かって確認をとる。おっさんはしばし言葉を忘れていたらしかったが、菊花の声を聞いて我に返る。

「あ、ああ。構わない。僕の目的はそのふたりの現世に残った肉体の消去だ。中身はどうでもいい」

「協力、感謝する。〈バックルーム〉の解放戦士」

半田はんだだ。たぶん、また会うこともあるだろう」

「――そう。私は菊花」

「あっ、私、は、美桜です」

 無敵状態が終わって、私はまたどもってしまう。

「覚えておくよ。〈きさらぎ駅〉の現地情報防疫官」

 おっさん――半田は、そのまま霞のように消えた。

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