5 火車
私は渡された紙コップに口をつけるフリをしながら、ずっと無言を貫いている菊花のほうに何度も視線を向ける。ものすごく不味そうに、日本酒をちびちび飲んでやがる。
まさかとは思うが、餌付けされたわけじゃないですよね……? 菊花ってなんか野生動物っぽい(無論、悪い意味でだ)から、餌や酒を恵んでくれる相手にほいほいついていってしまいそうな危うさがある。百舌の下についている理由をちゃんと聞いておくんだった――「食べるものと寝る場所があったから」とか言い出しかねないんだよなこいつ……。
「連れション」
そんな失礼なことを考えていると、菊花がひょいと立ち上がって隣の私を引き上げ、リビングを抜けていく。
言葉通りにトイレのドアを開けると、私を中に押し込んで自分も入って鍵を閉める。一般住宅のトイレなので、当然ふたり入れば狭い。思ったよりは中が綺麗で匂いもないのが救いだった。
「困ったことになった」
菊花はほとんど密着した状態で口を開く。狭いのだから仕方がない。どちらかが便座に座れば少しはマシになるのかもしれないが、空き家の便座に腰かけるのはごめんだった。鼻にかかる菊花の息は若干酒臭い。思ったよりも飲んでる――。
「わかってる。わかってる。あいつら焼身自殺サークルで、私らは勝手に同志だと思われてる。このままじゃ本当に私が焼死体になる。ならどうするか? 逃げる。オーケイ?」
「そういうわけにもいかない」
「どうもこうもないだろ。いつ着火するかわかんねぇんだぞ。トイレ出たら、即脱出!」
「あのひとたちの、言葉がわかった」
菊花の目は、やけに輝いていた。
「私は異世界に長く浸かりすぎて、もう現世の言語をまともに認識できない。私の言葉も、届く相手はまずいない」
私には菊花の声が届いた。結果として私は自分の焼死体をこしらえるハメになっている。
「あの連中を、助ける気……?」
「できれば。〈きさらぎ駅〉に連れていきたい」
ものすごく、イヤだと思ってしまう自分が、死ぬほどイヤだった。
これまでの話しぶりからするに、菊花は今までも現世から汚染を免れた人間を助け出しているはずだ。なのに私は、自分が菊花にとって何かしらの特別な存在なのかもしれないと期待してしまっていた。
菊花がミスを犯してしまっただけの話なのに、その自責の念を勝手に勘違いして利用していたことに気づく。
私は、菊花にとっては多くの救助者の中のひとりでしかない。
リビングで最期の酒盛りをしている焼身自殺サークルと、なんの違いもない。
その事実を痛感して、私は自分がいつの間にかこの女に心を許して距離を詰めようとしていたことに気づいた。
単に、右も左もわからない場所で頼る相手がほしかっただけだ――たぶん。頼るものが何もない状態で、最初に目に入った相手に縋りつく。雛鳥の刷り込みか、文字通りの子どものわがままみたいなもの。
だから菊花がこれから焼身自殺をおっ始める連中を助け出すことにこうも嫌悪感を抱くのも、大人から自分へ興味が向かないとぐずりだす子どもの心理と同じ――たぶん、きっとそう。
うん。なら、私も協力すべきだろう。私だって一応成人しているんだから、子どもの論理を振り回しても仕方がない。
ただし、ものすごくデカい問題がひとつ。
「助けるのはいいけど、あいつら、これから死のうとしてる最中なんだよな」
「そう。だから困ってる」
「私が死にかけた時みたいに、死ぬ前の状態を引っ張ってこれないの?」
「それは無理。あれは異世界からの干渉で現世が大きく破壊されたから、現世の修復が起こった。今から起きるのは現世の理の中での火災。修復されることはないから、死んだらそのまま死ぬ」
うーん、ややこしい。というか私たちも火災の中に残ってたらそのまま燃えて死ぬことになるんじゃないのか。
「じゃあ、無理矢理」
「人数が多い。私が持って運べるのは一度に二人が限度。選別みたいなことはしたくない」
抵抗されるだろうし、ここと〈きさらぎ駅〉を往復する時間はないだろう。
仕方がない。あまり気は進まないが――。
「皆さん、生きてることがイヤになったなら、この世を離れましょう」
宴席に戻ると、私は開口一番にそう言った。楽しそうに酒を飲んでいる連中はわっと湧いて、そうだそうだと囃し立てる。
「ただし、命を絶つ必要はありません。この世界を離れて、新しい世界に向かうのです。徒歩と電車で」
私が考えたのは、甘い誘いで自殺サークルをまるまる〈きさらぎ駅〉に引率するというものだった。話をどこまで信じてもらえるのか、そもそも死にたいと考えている連中を異世界なんてもので心変わりさせられるのかとか、問題は山のようにあったが、とにかくやってみるしかなかった。やらなければ、このまま火を着けられて私たちまで焼死体だ。
当然と言うべきか、菊花にはあらかじめ台本があっても言葉を使って勧誘じみたことはできなかった。トイレの中で試しにやってもらったが、棒読みだし何度も噛むし、言葉が通じてもまともに意味が伝わるとは思えない。
なのでなぜか私が、異世界への勧誘行為に手を染めることとなった。私だってこんなことはやりたくないし、今までやったこともない。
しかし案外、反応は悪くなかった。戸惑いの声は上がらず、酔っているせいかそうだそうだと声援まで上がっている。
いや――おかしくないか……?
自分で言うのもなんだが、私の突然の演説は意味不明でこれから死のうとしている相手に冷や水をぶっかける類いのものだったはずだ。それが無批判に受け入れられている今の状況は、逆に怖い――。
ヒュッ、と風を切る音。
私の隣に座っていた男が、壁に叩きつけられていた。
瞬時に立ち上がり、迷いのない蹴りを放った菊花によって。
「菊花!?」
「やられた。罠だ」
菊花は自分の隣に座っていた女も同様に蹴り飛ばす。
「火取り魔――火消し婆――姥が火――いや、火車かッ!」
菊花が『火車』と叫んだ途端に、車座になっていた男女がいっせいに燃えだした。燃えたまま、私と菊花を捕まえようと手を伸ばしてくる。
一気に煙たく熱くなった空気を大きく吸い込み、菊花は邪気を払うかのように大振りで美しい回し蹴りを放つ。竜巻を起こしたかのようにその場の空気ごと燃えた連中が吹っ飛ぶ。
「出てこいアホ。まさかこれで逃げおおせるつもりじゃないだろ」
「にゃーん」
最初に菊花に壁へ蹴り飛ばされた男が、野太い声で猫の鳴き真似を始めた。
「広域呼称〈火車〉。情報保存及び除染のため該当妖怪の情報切断を行う」
いや、あの、燃えてるんですけど。灯油の入ったポリタンクにも引火して、もう初期消火不可能なレベルになってるんですけど。
「美桜、私から離れるな」
言ったそばから目で追えない速度で相変わらず「にゃーん」と言ってる男に突っ込んでいく菊花。
ぱちぱちと建材が爆ぜる音の中、私はどうすればいいのかわからず、呆然と突っ立っていた。
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