4 きゃあ、じぶんごろし。
寝ろと言われたので駅のベンチで寝た。
本当に久しぶりに、しっかり眠った。起きた時には身体中がバキバキになってたけど、それを補ってあまりある活力が戻ってきた気がする。
起きたら太陽が高く昇っていた。こういう場所にも夜明けは来るのかと、なんだか不思議な気持ちになる。普通、夜が明けたら消えてしまうとか、もとの場所に戻って助かるとか、そういうオチが定番だと思うが、残念ながら日中になっても私は〈きさらぎ駅〉に存在していた。
どれだけ待っても来なかった電車は、百舌がスマホをいじるとすぐにやってきた。出前か。
私と菊花はその電車に乗って、座席に腰かけたままじっと固まった。最初は乗客は誰もいなかったが、駅に停車するたびに徐々にひとが乗ってくるようになった。やがて知らない駅名ばかりだったのが、私の大学付近の見知った駅名に移り変わっていく。
「美桜、次で降りる」
「……うん」
降りる駅は私のアパートの最寄り駅の二駅前だった。このまま立ち上がらずにアパートまで帰ってしまえば――と最初は思ったものの、そんな気は電車に揺られているうちに雲散霧消してしまった。
私の目に映る世界は、さらにますます狂っていた。〈きさらぎ駅〉から離れ、私の知っている場所に近づいていくごとに電車の中は魑魅魍魎の巣窟へと変貌していった。電車に乗ってくる人間のうち、ぱっと見で人間だとわかるほうが少ないようなありさまだった。
こんなふうに世界が見えてしまって、まだ帰ろうと思っているのか。自問するが、答えは出ない。このままだとするっと用事をすませて〈きさらぎ駅〉に直帰しかねない。
ICカードを改札にタッチして駅を出る私と菊花。百舌が言うには、私がもともと持っていたこのICカードはちょうどよく狂っているから電車なら乗り放題らしい。菊花のほうは知らない。でもなんの問題もなく改札を抜けられたので、狂ってはいるんだろう。
菊花は〈きさらぎ駅〉を出る時からずっと馬鹿デカいボストンバッグを抱えている。
「菊花、その中身って……」
「焼死体。〈きさらぎ駅〉の近くでよく採れる」
「そんな特産物みたいな……」
やっぱりかー。そんな気はしてたんだけど、いざ隣に立っている人間が焼死体を隠し持ってるとわかると、いやな緊張が走る。
百舌からの指令はこうだ。
「今日の昼過ぎに美桜の行動範囲内でデカい火事があるから、現場にあらかじめそれと美桜の持ち物を隠してきな。うまくいけば失踪者から焼死体にランクアップ。現世できちんと死んだことにできる」
なんで未来のことがわかるのかと聞いたら、百舌はあははと笑って、
「歪んでるから。時空」
と答えになってるのかなってないのかわからないことを言った。まあ、異世界とか異次元とか言うなら、その程度の時空の歪みは当たり前なのかもしれない。
百舌の手はず通りに事が運ぶと、現在失踪中の私が、火事の現場で焼死体として発見され、哀れ亡くなったことにされてしまう。
いやいや。いいのか、それで。
たしかに私の目にはもうこの世界は汚染された様相でしか映らない。だけどここは本来私がいた場所で、優希と羽海という大切な友人が残されている世界でもある。
百舌は手遅れだと言っていたし、私の目にもふたりはあれな姿で映っていたけど、それでも優希と羽海がいなければ、私は無敵になれない。
現に今の私は菊花のあとについていくことしかできていない。こいつだって結構やばい奴なんだから、いい加減にしろとぶちギレてもいいようなものだけど、スイッチが全然入る気配がしない。
私は結局ひとりでは何もできない。怒ることもぶん殴ることも、隣に優希と羽海がいてくれたからできていた。
このままだと、何もできないまま、私が死んだことにされる。
「あの、菊花」
「なに」
話しかけても足を止める様子はない。火事が起こる前に焼死体を現場に置いておかなくてはならない。こいつ課題はクソ真面目にやるタイプだな、絶対。
「私、マジで死ぬの?」
言葉を選ぶのが難しい。私は現にここで生きている。だけどこの私は、本来死んでいるはずだったはずが菊花に助け出されてしまったイレギュラーで、本来の私とはもう完全に別の道を歩んでしまっている。そして本来の私――死んで再生するはずだった何も知らない幸せな美桜ちゃんは、私が存在しているせいで再生せずにこの私へと収束した。
「うぶっ」
菊花が急に足を止めたせいで背中にぶつかる。真後ろに立っておいてよかった。ボストンバッグにぶつかっていたら焼死体の質感を味わうことになっていた。
じゃなくて、なんで急に立ち止まる。まだ目的の空き家までは距離があるはず――
「は――?」
私は菊花の異変に、その足下に落ちてくる水滴で気づいた。
菊花は突っ立ったまま、一切の声を上げず、ぼろぼろと涙をこぼしていた。
「ちょっと、菊花? どうした――」
「ごめんなさい」
震えていたが、上擦ってはいない声。こんだけ涙を流しながら、強靱な意志で己を律している。じゃあそもそもなんで泣いているのか――こいつの中での優先順位が皆目わからない。
「私が、無理矢理にでも美桜を連れていかなかったから、美桜を殺してしまった。他人の意思なんて無視すればよかったのに、あの時、なぜかできなかった。こんなことは初めてだった」
さらっと恐ろしいことを言っている気がするが、菊花が私を〈きさらぎ駅〉に連れ帰らなかったことを激しく後悔していることは理解した。だったらもうちょっと言葉を尽くせとか、最初から横柄な態度をとるなとか、言いたいことは山ほどあったが、あの時の菊花の顔を思い出して、私は何も言わなかった。
あんな悲しそうな顔、思い出させんなよ。こっちが悪いみたいだろ。
仕方なく、私は菊花の頭におそるおそるではあるが手で触れて、優しく撫でてやる。菊花のほうがかなり背が高いから、結構体勢がきついけど、私の手が触れると萎れるように菊花の身体が縮こまったのでなんとかなった。
「菊花はまあ、そこまでは悪くない――と思う。選んだのは私だし」
本当に選んだのか? 優希と羽海の隣にいられなくなることが怖いだけで、選ぶことをやめて考えることを放棄したんじゃないのか?
頭の中で喚く声を黙らせ、私は菊花の前で虚勢を張る。そうしないと、いつまでも泣いていそうだったから。
ああもう仕方ない。菊花にいつまでも私を殺した責任がどうのこうのとうじうじ悩まれては寝覚めが悪い。
さっさと終わらせて、さっさと帰ろう――〈きさらぎ駅〉に。
「ほら、行くよ菊花。放火犯に間違えられたら笑えないから、早めに仕込んどくんでしょ?」
「美桜、でも――」
「よく考えたらさ、私ここで生きてるし、だから菊花についていかなかったんだよ。どっちにしろ、今ここの私が生きてるって思えてるなら、それでいいんじゃない?」
虚勢。私は別に現世への未練を捨てたわけでもないし、優希と羽海への執着もきちんと持ち続けている。
でも、それ以上に、目の前でこいつが泣いていることが私には耐えられなかった。菊花は取り乱すわけでも喚くわけでもなく、彫像のように涙を流す一種神秘的ですらある姿だったけど、それがかえって、感情の閾値を超えてしまうほどの悔恨が菊花を責め苛んでいる証明に見えてしまう。
私ひとりの命は、こんな綺麗な子を泣かせてしまうほどの価値があるのか? ないだろ、どう考えても。
さようなら、現世の私。どうか安らかに。あまり優希と羽海を悲しませないように。
木造二階建ての空き家は、想像していたよりも片付いていた。なんだかつい最近までひとの出入りがあったような、生活感というか、気配らしきものが漂っている。ただ電気水道ガスは止まっているし、まともな生活は無理だろう。近所の悪ガキが入り込んで遊んでいるのかもしれない。
ひとと出くわす前に作業をすませる。二階の寝室に敷かれたままのかぴかぴの布団の上に菊花がボストンバッグの中身を広げる。ああ、これはもう性別不明だ。よし、見なかったことにしよう。
私は身分証の入ったポーチを床に放り投げる。百舌がなにやら細工をして、中身が完全に燃え尽きない程度の防火処置を施したらしい。これで私は火事のあとで性別不明の焼死体となって発見される。
感慨に耽っている時間はない。さっさとここを出て〈きさらぎ駅〉に帰らなければミッション完了とはならない。
菊花と目を合わせてうなずき合い、階段を下りて玄関まで向かう――はずだった。
一階のリビングからわいわいがやがやと陽気な話し声が聞こえてくる。私は思わず足を止めて、声の方向を見てしまった。
十人ほどの男女がリビングで酒盛りをしていた。奇妙なことに、私の目に上は五十代から下は十代までの男女が、全員人間として映っていた。菊花に助けられ、〈きさらぎ駅〉にたどり着いた私には、もうこの現世の人間がみんな化け物にしか見えないはずだったのに。
「あら~いらっしゃ~い」
その中のひとり――四十手前の女性が私に気づいて、驚くでもなく親しげに声をかけてきた。
有無を言わせず、数人が立ち上がって私の周りを固め、宴席へと連行していく。
「き、菊花――」
その菊花もまた、私にぴったりと張りついていたために同様にひとの壁を作られてリビングの床に座らされた。
「うれしいわぁ。仲間は多いほど心強いもの」
集まった年代もバラバラの男女たちは、うんうんとうなずき合って酒を飲む。
一升瓶や缶チューハイが並んだ床。その中心には、20リットルのポリタンクがいくつも並んでいた。
こいつら――火ぃ着けて死ぬ気だ。
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