3 きさらぎ駅

 電車は一向に来なかった。

「帰りたい……」

 駅のベンチに座り込み、何度目かもわからないつぶやきを漏らす私を、菊花は怒っているのか悲しんでいるのか判別できない難しい顔で、じっと見てくる。

「あんな世界にか?」

 菊花が、感情を排した声で聞いてきた。

「あんたが、私をおかしくしたんでしょ」

「それは正しい。私がお前を助けたのがそもそもの間違いだった。次に間違えたのは、お前を無理矢理にでも異世界に行かせずに、置き去りにしてしまったこと」

「戻してよ」

「今は無理だ。現世の汚染は一朝一夕でどうにかなるレベルじゃない」

「ねえ、菊花」

 私は叫び出したい衝動を抑え、ベンチで隣に座った菊花の顔を正面から見据える。

「ちゃんと、話して。説明して。私もちゃんと聞くから」

 菊花の鋭かった目がまん丸に見開かれる。どうやら完全に面食らったらしい。ざまあ見ろ。これまで適当なこと言って逃げてきたのかもしれないが、絶対に逃がしてやんねえからな。

「私、は……話すのが」

「苦手なんでしょ。見りゃわかる。でもこんな危機的状況で、ディスコミュニケーションのせいで余計に危機的状況になったらマジでクソだろ。会話、対話、意思疎通をおろそかにするのは相手を馬鹿にしてる証拠。あんたが私を馬鹿にしてるっていうなら、私はひとりでもここから出てく」

「待っ――た。わかった。話す。できるだけ、話す」

「よし。じゃあまず、ここはどこ?」

「ここは〈きさらぎ駅〉。私たちが拠点とする異世界。お前を助け出した時に、連れていこうとした先」

「異世界っていう割には、ただの寂れた駅にしか見えないけど」

「ああ……そうだった。私たちが用いる異世界という語は、たぶん美桜がイメージする異世界という語と微妙なズレがある。これは単に使用者間の認識の齟齬で、異世界という語がいつの間にか異世界ファンタジーの方向に拡大していったことによるものだ。きさらぎ駅がどんな話かは知っているか?」

 羽海に教えてもらった話をそのまま伝える。

「そうだ。ここは、その〈きさらぎ駅〉そのままの場所だと思えばいい。現世からズレた異世界、亜空間、幻の駅――」

 やっと納得がいった。

 菊花は最初から、『異世界』をこの空間を表す言葉として用いていた。対して私は、ネット小説やアニメなどで見聞きする異世界イメージで受け取っていた。菊花が私に「異世界に行ってもらう」と言ったのも、単にここに連れていくという意味でしかなかったのだ。

 しかし、今の時代に『異世界』って言ったら普通、私のようなイメージを抱くほうが多数派だと思うんだけど――菊花自身に悪気はなさそうなのが余計に事態をややこしくしていた。

「菊花、お前また『異世界』なんて言ったの?」

 私たちが座るベンチの後ろから、いきなり誰かが立ち上がった。

「安心していい。仲間だ。百舌もず、いたのなら説明を代われよ……」

 ピンクのカラーレンズ眼鏡をかけた背の高い女が、ベリーショートの髪をくるくると指でいじりながら、愉快そうに笑う。耳だけでなく、眉や唇、ちらっと見えた舌にもピアスをつけている。ぱっと見た印象では菊花よりはるかにおっかない雰囲気だが、悪戯っ子のような笑顔がうまい具合に相手に恐怖心を抱かせない働きをしている。

「いやー、菊花が自分で説明しようという姿勢に感動しちゃってさー。面白そうだったからこっそり様子を窺ってたわけ」

 そこで女――百舌は私を見てにんまりと笑う。

「美桜だっけ? 私は百舌。〈きさらぎ駅〉の取りまとめ役みたいなことをやってる。菊花が保護に失敗したって言うからどんな子かと思ったけど、あんたすげーよ。こいつに自分から話をさせるんだもん」

 菊花を見ると、恋人を殺されでもしたかのような仏頂面に戻っている。そういえば私と話してた時、こいつ結構表情豊かだったよな……。

「だったらさっさとお前が話せアホ」

「えー? なかなか面白かったぞ? あんたが一生懸命会話しようとしてたの」

 菊花は殺気すら感じさせる凶相で立ち上がり、早足でホームから改札のほうへ出ていった。

「ごめんな。あいつはここでも一番の腕利きなんだけど、ひとと話すのが下手で下手で。つーわけで、私がきっちり説明するから、覚悟決めな」

 生唾を飲み込む。菊花からはまだ私への遠慮というか配慮というか、下手くそだが気遣いのようなものを感じられた。だがこの百舌というひとは、なんの容赦もなく現実をぽんぽん投げつけてくる――カラーレンズ越しの目の色でいやでもわかった。

「菊花に助けられてから、あんたの見る世界は変わっただろ?」

 うなずく。

「あれは、あんたが世界を正常に認識できるようになっただけなんだよ」

「はい?」

「はっきり言う。私たちが本来存在していた世界――現世は、2017年に崩壊した。世界は完全に汚染されて、人間が生存できる状態じゃない。あんたが見ていた狂った世界こそが、現世の本当の景色なんだよ」

 混乱の波濤が押し寄せる前に、ちょっとだけ、安堵した。私の頭がおかしくなっていたわけじゃなく、世界のほうが狂っていたと確認できて。

「私、それまで普通に生きてましたけど」

 年齢的には菊花も百舌も私と変わらないように見える。だけど百舌には敬語で話したほうがいいと感じていた。ここのリーダー格みたいだし、オーラというか圧が強い。

「そう。普通に生きられるんだな、これが」

 人間が生存できる状態じゃないんじゃなかったのか。

 むっとした私を見て、百舌がからからと笑う。

「だけど、汚染はされていく。あんたが見た世界の側に、どんどん引きずり込まれていくわけ。まだ現世が汚染されてからそこまで時間は経っていないし、あんたみたいに耐性を持ってる子もいる。私らはそういう連中を、完全に汚染されてしまう前にこちら側に脱出させる手引きをしてる。菊花の声が聞こえただろ?」

 ――逃げろ。

「私らはこっちに長く居すぎて、現世とかなりズレを起こしてる。いま話してる言葉も、現世の人間が聞けば意味不明な言語としてしか捉えられない。だけど、現世の中でも耐性を持った人間は、私らの言葉を聞き取ることができる。つまりまあ、あんたは菊花の声を聞いて目ぇつけられた、と」

「あの、黒い太陽は」

「ああ。あれは私らとはまた違う異界に潜伏してる連中の攻撃。〈お山〉の現世清浄僧団つって、一番の過激派だわな。あいつらは汚染された現世を完全に消滅させようと日々邁進してる」

「でも、世界は修復されたんですよね……?」

「まあな。局所的な破壊だけじゃ、現世の存在証明を揺るがすことはできない。あの程度じゃすぐに修復されて無駄に終わるんだが……」

 百舌は私をしげしげと見つめながら、困ったように唸る。

「菊花のやつ、本当に戦闘以外はダメダメだな。人間ひとり殺してんの、ちゃんとわかってんのか……」

 たしか、菊花も言っていた。

 私が世界が修復される前にこっちに来ないと、修復されるはずの私が修復されずに、結果として私が死ぬことになる。

 ややこしくてよくわからなかったが、菊花に助け出された私は、最終的には必ずここに来るとわかっていたのだ。本来なら修復前に私をここに連れだし、私の存在を現世から一時的に抹消しておくことで、世界が修復される際にバックアップをとってあった現世の私が修復されるはずだった。死ぬはずだった私を異世界へ、死んだ私は現世で元通りに生きる。

 だが、私は菊花の誘いを断った。

 世界を正常に認識できるようになってしまった私は、逃げて逃げて〈きさらぎ駅〉にたどり着いてしまった。現世に私のバックアップは残っていない。私という人間が、現世から突然消失したことになる。

 ああ、たしかに。菊花についていかなかったせいで、私は死んでしまったらしい。

「でも、今ならまだ帰れるんじゃ……?」

 私がつぶやくと、百舌は呆気にとられたように目を丸くする。

「マジで言ってる? それ。あんた見ただろ。あんたの見た世界が現世の現状だぞ? あんなところに帰りたいって?」

「優希と羽海が――友達がいるんです」

「諦めろ」

「どうして……!」

「そいつらもどうせ、手遅れだ。あんた、見たんじゃないのか」

 言葉に詰まる。優希の口から突き出た腕。羽海の背中から生えた足。あれが、正常な光景だとしたら、優希と羽海は、もう――

「そうだな、ケジメだ。美桜、菊花と一緒に一回現世に行ってこい」

「帰れるんですか……?」

「いいや。あんたには、きちんと自分を殺してきてもらう」

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