第12話 後編「悪い兎崎。話を逸らそうとしないでくれ。言いたいことができた」

「いやぁー、猫カフェ、最高だったわね! シナモンのことがあって、それから猫ちゃん成分は基本的に動画とかで摂取してたけど、猫カフェって手があったのね! 明日から早速、毎日通わないと……それで、猫ちゃん達におやつを恵んであげないとね!」

「俺が思ってた以上に、猫カフェにハマってんなこいつ……そんな毎日通って、お前の財布事情は大丈夫なのかよ?」


「猫ちゃん達に貢ぐお金がなくなったら、ヤミ金? ってところでお金を借りるから、大丈夫よ!」


「やめろ。語尾にハテナマークが付くくらいよくわかってないくせに、そんな危ないところから金を借りようとすんな。ホストに貢ぐ女かお前は」

「店にあるちゃ〇ちゅ~る、全部持ってきて! マタタビもがんがん入れなさい!」

「ホストクラブみたいに猫カフェで豪遊すんな。店が困惑するだろそれ」

「そういえばあの猫カフェって、気に入った猫ちゃんとのアフターも可能よね!?」

「あの店では猫の貸し出しはやってねえし、猫の貸し出しのことをアフターって言うなよ」


 俺と兎崎とざきはそんな会話を交わしつつ、道路脇を歩く。

 現在、時刻は二十時を少し過ぎたあたり。

 あれから、猫カフェをたっぷり堪能したのち、外で夕食を食べ終えた俺達は、いま――元カノを家に送り届けるために、ほの暗い夜道を二人で歩いていた。


 猫カフェでの興奮が未だ冷めやらぬ様子の彼女が、隣で楽しそうにスキップをする。……いや、車道側でスキップすんなよ。危ないだろ。そう思った俺はだから、それとなく体を車道側に移し、スキップする兎崎を歩道側へと誘導した。

 そしたら、ふいにスキップをやめた兎崎が、俺に向かって微笑みながら言った。


「もう彼女じゃない女にも、こういう気遣い、してくれるんだ?」

「……いちいちこんなどうでもいい気遣いに気づかなくていいんだよ。こんなの、俺がそうしたいと思ったから、そうしただけなんだから」

「ふふっ……あんたって昔からそうよね。自分の中にちっちゃい、でも確かな価値観があって、それに準じないことはできない主義というか」

「おい、いきなり他人の性格分析を始めんなよ。恥ずかしくなっちゃうだろが」


「昔、デートをするために二人で駅にいた時に、あんたがどっかをしばらくじーっと見てて、だから『どうしたの?』って尋ねたら……我慢できなくなったみたいに、大荷物を抱えた年配のおばあちゃんのところに行って、階段の上まで荷物を持っていってあげたこと、あったじゃん? あん時のあんたの、すっと誰かを助けに行けない、でも見て見ぬフリもできないっていう、あんたらしい行動、嫌いじゃなかったわよ。むしろ――……な、何でもないけどね!」


「……忘れろ、そんな話」


 俺はつい恥ずかしくなって、兎崎から顔を背ける。そんな、偽善者にも善人にもなり切れない男のちっちゃいエピソードなんか、覚えてなくていいんだよ……。


 そうして、兎崎と二人で歩いていたら、見知った公園を視界の端に見つける。その入口には『りんどう公園』という名前が書かれたプレートがあり……それに気づいた俺は少しだけ、昔のことを思い出してしまった。


 ここは、俺と兎崎が付き合ってた頃、よく訪れた公園で。

 デート終わり、彼女を家に送る際には決まって、ここで名残惜しむようにちょっとだけ話をしたのち――拙いキスをして別れるのが、いつもの流れだった。

 まあ、そんな青春っぽいことも、交際期間が長くなっていくうちに、やらなくなっていったんだけどな……。


「……ちょっとだけ、寄る?」


 公園を見ていた俺に気づいた兎崎が、上目遣いでそう尋ねてきた。……それを受け、俺は少しだけ考え込む。いまの俺がこの公園に寄ってしまっていいのだろうか、とか、そんなめんどくさいことを。


 ここには彼女との幸せな思い出があり過ぎるから、どうなんだろうとは思いつつも――でも結局、久しぶりにこの公園を見たいと思ってしまった俺は、だから……わかりやすくこの公園に寄りたそうにしている彼女の要望を汲んだとかではなく、兎崎に言った。


「……ああ。そうするか」

「やたっ」


 そう言いながら、小さく跳ねる兎崎。あざと可愛い女だった。

 そうして俺達は二人、公園に入りベンチに腰かける。……あの頃より僅かに色が薄くなった、青色のベンチ。錆びた鉄棒。寂れたジャングルジム。近所の子供に散らかされた砂場――。

 改めてこの公園を見渡すと、至る所に二人の思い出がこびりついていて、それを見た俺はつい、どうでもいい話をしてしまった。


「なんか、昔を懐かしむほど変わってねえな。……でも確かに、俺達が付き合ってたのって、すげえ昔のことみたいに感じてたけど……お前と別れてからまだ、一年とちょっとしか経ってないんだもんな。そりゃあ、懐かしい気持ちになんか、なる訳ないか……」


「……そうだよ。あんたにとってはもう昔のことかもだけど、ここにとっては――私にとっては、あれは過去じゃない。思い出になんかなってない」


「…………」

「だ、だって、私はまだ、あんたがほにゃららって……い、言ったでしょ」


 踏み込んでこようとしたのち、どうにも踏み込み切れずにそう誤魔化す、素直になれない兎崎。

 彼女は昔から、そういうことが多かった。だいたい、火花ひばなと同じで兎崎も、俺の気持ちに関しては、なあなあにしてるしな……一度、勢いで思いを伝えられはしたけど、それに対して『告白の返事をしてよ』とは、彼女も言ってくれていない。

 ……こうなったらもう、俺の方から一歩、彼女に踏み込むしかないか……。


「なあ、兎崎――」

「そ、そういえば! 私達って確か、ここでファーストキスしたのよね!」


 俺が、自分の中で固まりつつある――けれど、そのあとのことまでは決意しきれていない答えを口にしようとしたら、彼女に阻まれた。

 次いで兎崎は、慌てて選び取った話題を、テンションそのままに続ける。それは、俺の言葉を遮るための話だったはずなのに、どこか楽し気な声になっていた。


「いやほんと、あれは最低の思い出よね……ふふっ。あの時のあんたの、緊張っぷりときたら! あまりに勢いよくキスするもんだから、私の唇が思いっきり切れちゃったし……ファーストキスに憧れを抱いていた私に、よくもあんなキスをしてくれたわね!」

「……お前の方こそ、なんでファーストキスの日にペペロンチーノ食ってたんだよ。おかげで俺のファーストキス、ガーリック味だぞ。思い出しただけで腹減ってくる」

「し、仕方ないでしょ! あの日は別に、あんたとキスするなんて、考えてなかったんだから! ……あんたとのデートに舞い上がって、先のことなんて考えてらんなかったのよ……」


「……ふふっ。でもマジで、あれは酷かったよなあ……俺とお前の思い出は、どれも楽しいものばっかりだけど、あれだけは別格だ。――別格で笑える」


「別格で笑えるって何よ!?」

「以前、酒の席で桃本さんにこの話をしたら、ダサくて最高、って言ってくれたしな。……あれ、なんかすげえ嬉しかったなあ……」

「な、なんでそんな酷い評価をされて喜んでんのよ……つか、私とあんたの大切な思い出を、桃本なんかに話すな! 胸に秘めときなさいよ! ダサいって言われて怒りなさいよ!」

「お前も、仲のいい男友達とかいたら、全然話していいからな?」


「こんなダサい話、他人に話せる訳ないでしょうが!」


「ダサい自覚はあったのかよ」

「当たり前でしょう!? 普通、どっちかは失敗しないものじゃない! なんでどっちもやらかしてんのよ! ああ、思い出すだけで恥ずかしい……でも嫌な思い出じゃないのが腹立たしい……!」


 怒りと羞恥で、夜でもわかるくらい頬を朱に染めた兎崎が、そう怒鳴った。

 一方の俺は、そんな風に怒る兎崎が可愛く思えてしまい、つい忍び笑いを漏らす。……なんだか、どうにも心地のいい瞬間だった。最悪な終わり方をした元カノと、それでもこんな風に、付き合っていた頃の話をして笑い飛ばせるのが、どうしようもなく嬉しかった。

 そうして笑っているうちに、俺は思い出した――。


『ど、どうして、こうなっちゃうのよおおおおおおおおおおおお!』

『く、くふふっ……あははははっ!』


 兎崎とのファーストキスを失敗して、二人笑い合った、あの瞬間。

 ――俺は確かに、地球上で一番、幸せな男だったことを。


「…………あ」


 どうして俺はこんな単純なことに、今まで気づけなかったんだろう。

 俺は、兎崎に浮気されて――正確には浮気されたと思い込んで、誰かと付き合うのが怖くなった。あんなにも深い傷を負ってしまうのなら、誰かと両想いになんか、ならない方がいい……あの失恋を経て以降、そんな考え方が俺の核になった。


 恋愛に永遠はない。

 どうせいつかは痛い思いをするのだから、最初から求めない方がいい。


 その価値観に、未だ迷いはない。……誰かに恋なんて、本当はしない方がいいんだ。人は一人でいる時が一番強い。だって大切な人を作ってしまえば、その大切な人に、自身の心の半分を持っていかれてしまうのだから。


 その人が悲しい思いをすれば、自分も悲しい。

 その人が自分を裏切れば、立ち直るのは難しい。

 そういう側面は、確かにあるんだけど……それだけじゃない。


 俺は兎崎と付き合っていたあの頃、どういう気持ちだった?

 大好きな人と両想いになって、キスをして、どういう気持ちだったんだよ?


「…………幸せだった……」

「え? な、なに、急に? あんたどうしたのよ?」


 隣の男が漏らした意味不明な呟きに、兎崎がそう反応する。

 そうだ。つい口に出してしまうほど、あの頃の俺は幸せだった。……いやほんと、なんでこんな当たり前のことに、これまで気づかなかったんだろう。


 誰かと両想いになるっていうのは、破局のスタートラインに立つことだ。

 だけど――きっとみんな、いつか傷つくことをわかっていながら、それでも。



 大好きな人と一緒に過ごす今日が欲しくて、思いを伝えるんじゃないか。



「兎崎」

「……そういえばさ、あの猫カフェにいた猫の種類、あんたどんくらいわかった? 私はね――」

「悪い兎崎。話を逸らそうとしないでくれ。言いたいことができた」

「…………なによ」


 俺が兎崎の目を真っすぐ見つめながらそう口にすると、彼女は不安げな瞳で俺を見返しつつ、強がるような声音で返事をした。

 そうして俺は、兎崎に告げる。

 もう迷いはない。不安もない。……いや、本当はあるにはあるんだけど、ようやくそれを棚上げにすることができた。


 俺はもう、俺の好きな人に「好きだ」と伝えるための勇気を、手に入れていた。

 兎崎と過ごした日々を思い出すことで、手に入れることができたのだ。

 だから――彼女には申し訳ないけど。

 俺は、俺が好きだった女の子に対して、こんな酷いことを言うのだった。



「実は俺、いま好きな子がいるんだ。だから、お前とは付き合えない」



「――――」


 俺の言葉を聞いて、目を見開く兎崎。

 それから、彼女は震える声で「……そ、そう……」と一言呟いたのち、ゆっくりと夜空を見上げる。今日は星がよく見える夜で、なおかつ、無駄に満月だった。


 そのまま、兎崎はしばらく星と月を見続ける。そうして、俺の渡した言葉を噛み締めるような時間が、しばし続いたのち――。


「うっ、うううううっ……うわああああああああああああああんっ!」


 と、彼女は両手で自身の顔を覆って、勢いよく泣き始めた。

「ああっ、うああっ、うわあああああああ! ううっ、ううううううう! あああああああああっ!」

 兎崎は鼻をずびずび鳴らしながら、涙を滂沱と溢れさせる。……そんな彼女に対して、俺は何もしてやれない。かつて大好きだった元カノに真実を告げ、彼女を傷つけることしかできなかった。


 ……本音を言えば、こうして兎崎を傷つけるなんて、したくはなかった。

 だって俺は未だ、彼女を好きじゃなくなっていない。彼女に報いれるほどの恋愛感情はもう持っていないけれど、俺はまだ絶対、兎崎のことが好きなんだ……。


 でも、それじゃあ何で彼女を選ばなかったのかと言えば、それは――兎崎にも言った通り、彼女よりも好きな相手が、俺にはいるからだった。

 いまの俺はどうしても、あの子の思いに応えたいから。

 だから俺はやむなく、大切な元カノをフッた。……彼女がいなかったら選んでしまっていたかもしれない兎崎に対して、好きじゃないと、そう言うしかないのだった。


「な、なんで、いっぢゃうのよおおおおおお……!」

「……ごめん」

「ば、ばだ……ばだしじゃがでないっで、わがっでだけどおおおおお……! なんでぞんなふうに、私をフるのよおおおおお、ばがあああああ……!」

「……ごめん……」

「あんだが悪いわけざないのにあやまるなああああああ! ばがああああああ! しねええええええ! あんだなんがだいっぎらい! だいっぎらいだもん! ううううううううっ!」

「…………」


「私を好きになってくれないあんたなんか、大っ嫌いなのにいいいいい……! なのに、なんで私はまだ、あんたが好きなのよおおおお……! ふざけんなよおおおお……!」


 俺の肩をがくがく揺さぶりながら、感情のままに叫ぶ兎崎。

 子供のように泣き叫ぶ彼女の思いを、俺は正面から受け止める。……彼女の気持ちに応えてやれないのだから、せめて兎崎の激情くらいは全部、余すところなく受け止めてやりたかった。


 それからも彼女は、聞くに堪えない罵詈雑言を俺にぶつけてきた。「死ね」「ばか」「私をフりやがって」「大っ嫌い」「大好き」――そんなワードを、泣き喚きながら繰り返す。感情のバルブが壊れてしまったらしい兎崎は、そうして思いの丈を約十数分にも及んでぶちまけたのち……泣き濡れた顔を服の袖口でぐしぐし拭いつつ、こう呟いた。


「な、なんで、私をフったりしたのよ……私が答えを欲しがってなかったって、あんた、わかってたじゃない……酷いよ、犬助けんすけ……」

「……悪い兎崎。でも、お前に思いを伝えてもらった俺が、それに応えられないことを言わずにお前と一緒にいるのは、不誠実なんじゃないかと思ってな……」

「…………優しいのか優しくないのか、よくわかんないんだけど……」


「ごめん。謝るしかないから、何度でも言うけど――ごめんな、兎崎」


「……あんま繰り返されても、惨めになるだけだからやめてくんない……うううっ、ぐすっ……」


 依然、少女のように泣き続けながら、兎崎はそう言った。

 無理やり涙を押しとどめるように、ぐしぐしと指の腹で目を擦り、それから俺を見やる彼女。恨みがましい赤らんだ瞳に射貫かれ、つい目を逸らしたくなったけど、それはせずに……俺は彼女を見つめ返した。


 そうして俺は、いまフッたばかりの元カノに対して、話を続ける。

 それは、彼女が好きだからこそ、無理くり続けた話で――だけど一人の男としては、なかなかに酷い言い草だった。


「これからのことは、お前に任せる」

「こ、これからのこと……?」


「ああ。……俺にはもう好きな人がいるから、お前とは付き合えないけど……でも、本音を言わせてもらえれば――俺は今後も、お前との友人関係を失いたくないと思ってるんだ」


「……あんた、正気?」

「もちろん、最低なことを言ってるって、わかってる……だからこれに関しては、お前が決めてくれ。――俺は待ってる。お前がいつか、俺じゃない男を好きになって、俺と友達に戻ってくれる日を、ずっと待ってるから」

「……あんた以外の、男なんて……」


「いまはそう思うかもしれないけど、いつか絶対、元カレより好きになれる男が――俺よりもお前を大切にしてくれる、もっといい男が現れるって。……それは、少し寂しいことだけど。でも俺はこれから、そんな日が来るのを、待ってるから」


「…………」

「だから俺は今後、お前が俺と一緒にいて辛い思いをしなくなるその日まで、お前には接触しない。だけど……それなりに時間が経って、お前が今日のことを過去にできたら。俺はまた、お前と一緒に猫カフェに行きたいと思ってる。それだけ、覚えといてくれ」

「……自分勝手な男……」

「だな……悪い、ほんと。でも俺、お前のことが嫌いじゃないのは、マジだから。好きだって言ってくれて、ありがとな」


「……ありがとうなんて、一番いらない言葉じゃん……ぐすっ」


 兎崎はそう言いながら、溢れる涙を再度、手のひらでぐしぐしと拭う。……いい加減、脱水症状にならないか不安になってきたけど、彼女の涙はいつまでも止まらなかった。

 それから兎崎は、泣き濡れた顔のまま俺を見つめる。そうしながら、「ううっ」と小さく嗚咽を漏らすと、どこか独り言のように、小声で呟いた。


「また、好きになって欲しかった……」


「…………」

「もう一回、ぎゅってして欲しかった……あんたと、キスしたかった……そういう関係に戻りたかったのに、そっか……私、またあんたにフラれたんだ……」

「兎崎……」


「まだ、こんなに傷つくのね……まだ、こんなに傷つける……こんだけ痛いってことは、やっぱ私、こいつのことめっちゃ好きなんじゃん……馬鹿じゃないの、私……なんでこんなに好きなのに、自分から手放したりしたのよ……」


「――――」

「……とか言って。別にもう、あんたのことなんか、全然好きじゃないけどね……」


 俺に対する思いを改めて口にしたのち、兎崎はそう言った。

 そう言いながら、彼女は無理やり笑う。――両目から涙を零しながら。唇を震わせながら。絶対に笑いたい気分じゃないのが丸わかりの表情で、それでも……彼女は強がりだけで、にっと笑ってみせる。


 それこそが、再び俺にフラれた元カノが見せた、彼女らしい素敵な意地だった。


「…………」

 胸の奥がきゅっと、強い痛みを覚える。

 心の奥底にわだかまっていた未練みたいなものが、もう一度だけ、俺の体に小さな傷をつけた。……この傷はたぶん、永遠に癒えはしないだろうけど――彼女の浮気を知った時に負ったそれとは違い、いつまでも治らない傷がこの体に残ったのが、何故かちょっとだけ嬉しかった。

 そうして、意地を張り続ける兎崎は空元気を振り絞るように、明るい声で言った。


「こんなに可愛い元カノをフッたんだから……せめて、桃本さんとはちゃんと付き合いなさいよね!」

「は……? 桃本さん?」

「なにとぼけてんのよ! あんたさっき、好きな人がいるって言ったじゃない! それって、あんたが最近よく絡んでる、桃本先輩のことでしょ! 私、知ってるんだから!」

「……あー、ええと……」


 ようやく合点がいった。そういえば俺はさっき、好きな人がいる、とは言ったけど、誰を好きかまでは言ってなかったよな。だから兎崎はいま、こんな勘違いをしてんのか……。


 そこまで理解した俺は、一瞬だけ頭を悩ませたものの……俺に対して真摯な思いを向けてくれた彼女に、適当な返事をするべきじゃないと考え――誤魔化すことなく兎崎に話した。

 俺が心に決めた、大好きな彼女のことを。


「あのな兎崎? 実を言うと、俺の好きな子っていうのは、桃本さんじゃなくて――俺のいとこである、火花のこと、なんだけど……」

「………………は?」


 俺がそう言った瞬間、フリーズする兎崎。

 それから彼女は、涙を零すのも忘れて、口をぱくぱくさせたのち……言い返すべき言葉の下準備をするみたいに、一文字のひらがなを繰り返すのだった。



「な、な、な、ななななななななななななななななな――――――」



 こうして俺は今日、大好きだった元カノをフッた。

 正直な話、未練が完全に消え去ったとは、いまでも言い切れない。……たぶん、なくなりはしないんだろう。俺はそれだけ彼女が好きだったから、それはきっといつまでも心の隅に残ったままだ。


 でも、俺はその思いを、決して大切にはしない。


 だって俺にはいま、もっと大切にしたい、しなきゃいけない女の子がいるから。

 だからこそ、俺はこれから、火花を元カノにしないために……彼女だけを愛し続けることを、牧師か誰かに問われた訳でもないのに、勝手に誓うのだった。

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