第10話「ごめんね、犬助……あんな嘘ついて、本当にごめん……」

「「…………」」


 火花ひばなと同じベッドで寝た日から、一週間後。

 俺は現在、元カノである兎崎とざきに――『明日、特に理由とかないけど、私の家に来て。理由とかほんとにないし、大事な話もないけど、とにかくマジで来て。来てくんなかったら私、割とガチで凹むから』と、何故か必死な感じのラインで呼び出されて、ここ……兎崎の実家の二階にある、彼女の部屋にいた。


 少し周囲を見回せば、あの頃とあまり変わらない室内が広がっている――ベッド脇に大量に置かれた、様々な犬種の犬のぬいぐるみ。床には大きめのビーズクッションが二つと、白いローテーブルが一つ。少女漫画がぎっしり詰まった本棚の上には、花瓶に割り箸を刺したような芳香剤が置かれ……昔からある勉強机の上には、メイク道具が散乱していていた。


 付き合ってた頃は、あの本棚に難しそうな本が詰まっていたけど、本来の本棚の使い方はこうなんだろうな……なんて思いつつ、ビーズクッションの一つに座っている俺は、彼女に尋ねた。


「えーっと、とりあえず……二点ほど質問したいんだけど、いいか?」

「……なによ」

「まず一点目。なんでお前、俺を家に呼んだんだよ?」

「…………」


 わかりやすく答えづらそうな顔をする兎崎。彼女は少しだけ頬を赤らめ、そっぽを向いてしまうと、無理くり絞り出すように答えた。


「まあ? ちょっとだけ、話がある……みたいな?」

「大事な話はないってラインで言ってたじゃねえかお前」


「いちいち細かいことを指摘してんじゃないわよ、男のくせにみみっちいわね。……確かにあんたに話はあるけど、それを話したかったからあんたを呼んだ訳じゃないというか――むしろ話したくないんだけど、話さざるを得なくなった、っていうのが正しいのかもね。……このままじゃいられないっていう、危機感を抱いたのよ……もちろん、あの子に自分の秘密をバラしちゃったから、あの子に何か言われる前に、私からちゃんと話さないと、って理由も大いにあるんだけど、それよりも――このままちんたらしてたら、あの先輩やあの小娘に取られそうだなって思ったの。……別に、それだけ」


「……もうちょっと具体的に言ってくんない? 抽象的過ぎてわかんねえんだけど」

「わかんないのなんて当たり前じゃない。あんたにわからすように喋ってないもん。察しなさいよ」


 話を終えた兎崎はそう言って、俺をジト目で睨んだ。俺にわからすように言ってない時点で、質問には答えてくれてねえなこれ……。

 俺は思いつつ、一度軽く息を吐いたのち、仕切り直す。どうやら、何か話があるから俺を呼んだらしい彼女に、もう一つの質問をぶつけた。


「二点目。……もしかしてだけどお前、家族に、俺と別れたこと言ってねえの?」

「…………」

「沈黙で雄弁に語んなよ」


 今日、久しぶりに兎崎の実家にお邪魔したら、にこにこ笑顔の兎崎母に「久しぶり犬助けんすけくん! もう、どうしてこんなに長い間、遊びに来てくれなかったのよ? あなたは美々みみの彼氏で、私達の家族同然なんだから、もっと遊びにいらっしゃいな!」と言われた。

 それに対して俺は、その場しのぎの苦笑いをするしかなかった訳だけど――。


「だ、だって……ママがあんたのこと、すっごい気に入ってたから……別れたって言ったら、絶対悲しむと思って……」

「お母さん思いだな、お前……元カレに対する配慮は足りてねえけど」

「い、いいでしょそんぐらい! そんなのも許してくれないくらい、あんたは冷たい男になったわけ!?」

「いや、別に許してない訳じゃないんだけどさ……」


 でもそれ、お前が虚しくないか? とはさすがに言えなかった。

 そうして、一応は俺の質問が終わると、兎崎はふいに「んっ、んんっ……!」とわざとらしい咳払いをしたのち、ビーズクッションから立ち上がる。

 頬を赤らめ、どこか緊張した面持ちの彼女は、それから続けた。


「それじゃあ、その……話をする前に、今日はあんたに、会わせたい人がいるから……」

「会わせたい人? って誰だ?」

「私のお兄ちゃんよ」

「お、お兄ちゃん? ……そういや、お前に一つ上の兄貴がいるのは知ってたけど、これまで会ったことはなかったな……」

「呼んでくるから、ちょっとここで待ってて」


 兎崎はそう言うと、自分の部屋からそそくさと出て行った。……何で兎崎は今更、自分の兄貴を俺に紹介したいんだ?

 そんな当然の疑問を抱きつつ、俺が彼女を待っていたら……一分も経たないうちに、がちゃ、という音と共に、兎崎が部屋に戻ってきた。

 次いで、彼女に続くように、兎崎の兄貴も入ってきたのだけど――。


「初めまして、彼氏くん! 美々の兄の、兎崎じんです。いつもうちの妹がお世話になってるみたいで。これからも仲良くしてやってね!」


「…………は?」



 そこにいたのは、俺が兎崎の浮気を目撃したあの日、彼女の隣に立っていた、あの男だった。



 つまり俺はいま、兎崎の浮気相手――俺達が破局した原因となった男を、目の前にしてる訳だけど……は? そいつが、兎崎の兄貴? え……え? こ、これは一体、どういうことだってばよ……?

 あまりの事態にパニックを起こす俺。要するに、この人が兎崎の兄貴で、兎崎の浮気相手でもあるということは、つまり――?


「……と、兎崎って、兄貴と付き合ってたん?」


「なんでそうなるのよ!」

「へ、へえー、なるほどなー……兎崎と兄貴って、そういう関係だったんだな……で、でもまあ、そこに愛さえあれば、兄妹で付き合うのも全然おかしいことじゃねえもんな! だから言い換えれば、俺が火花と付き合うのも、全然なくないってことですよね!」

「言っとくけど犬助、兄妹で付き合うのとかマジでキモいから」


 俺の耳元に口を寄せ、怒気を孕んだ小声で兎崎はそう言った。……で、でも、そっちだって兄妹で付き合ってた訳ですから? しかも、俺の妹は義妹だし? より平気ですし?

 俺がそう、未だ混乱の渦の中にいると、兎崎兄(浮気相手)は温和な表情で続けた。


「二人が何の話をしているのかはよくわからないけど……俺は妹を大好きな人が大好きだから、会えて嬉しいよ、犬助くん! ――あ、そうだ。美々の小学校の頃の卒アル見る? 可愛いよ?」

「いいから。顔見せだけしたら、お兄ちゃんはもう用済みだから。出てって」


「ええー、そんなあ! 俺は犬助くんともっと、美々かわいいよねトークがしたいのに! ……ねえ、知ってる犬助くん? 美々って少女漫画を描こうとしてた時期があってね、そのヒーローは君だったんだよ。ちなみに、タイトルは『四月のラピスラズリ』で――」


「マジで出てけ! というか死ね!」

「いたっ、ちょ、マジで痛い……あのー、美々? 大学生になってからきみ、お兄ちゃんの扱いが雑過ぎじゃない? 俺のこと、もうちょっと労わってくれても――」

「お願いだから消えてください。えいっ、えいっ」

「いだっ、ほんと痛い! ――じゃ、じゃあね、犬助くん! またお話しようね!」


 妹にげしげし蹴られつつ、無理やり部屋を追い出される兎崎兄。色々と扱いが酷かった。

 そうして、兄貴が部屋を出ると同時に、ばたん! と強く扉を閉める兎崎妹。彼女はそれから、ビーズクッションに腰を下ろすと、一つため息を吐いた。

 ……再び二人きりになった部屋に、気まずい沈黙が落ちる。それがしばらく続いたのち、兎崎は静かに言った。


「あ、あれが、私のお兄ちゃんで……でも私、お兄ちゃんと付き合ってるとか、マジでなくて……そもそも、実の兄妹でそういうのとか、キモくてあり得ないと思ってるし……だから、私、あの――」


 そこで言葉を切り、ちら、と俺を見やる兎崎。……いつの間にか、俺の心臓がバクバクと高鳴り始めていた。

 それは、彼女がいま言おうとしていることがどういう内容なのか、何となく察せたからで――兎崎は、真っ赤になった顔を俯けつつ、ぽつりと呟くのだった。



「私が、浮気したって言ったあれ、実は嘘なのよ……」



「はああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!?」


 何と言われるかわかっていたにも関わらず、俺はそう叫んだ。

 いや……いやいやいやいやいや! だって俺、兎崎に浮気をされたから、彼女と別れたんだぞ!? 浮気をされて、俺はもう彼女の一番じゃないんだって落ち込んで、だから別れるしかないと思ったのに!

 それなのに、そのきっかけ自体が嘘だったなんて、そんなの――。


「……え? じゃあつまり、あれか? お前は俺と別れたくて、あんな嘘をついたってことか? 浮気したって言えば、俺が別れを切り出してくれると思って?」

「や、違うって! 私はあの時もちゃんと、あんたのことが好きで、だから……別れたいとか、私が望む筈ないじゃん……」

「えええええ? じゃ、じゃあどうして、浮気したなんて嘘を……」

「…………」


 俺の質問に答えず、気まずそうに顔を背ける兎崎。彼女は顔を赤らめたまま、ぽつり、ぽつり、と。自分の中の感情を整理するように、話し始めた。

 それはどこか、罪の懺悔にも、愛の告白にも聞こえる内容だった。


「私はあの時、あんたに愛されてるのか、不安になったのよ……」


「……確かにあの頃は、俺も大学受験の真っ只中で、だからそっけない態度だったかもだけど――」

「違う! その前からずっとよ! ……だってあんた、クリスマスイブの時だって、私になんにもしてくんなかったじゃん……」

「あ、あれは、その……まだ、踏み出す勇気がなかったっつうか……」


「でも、半年も付き合ってたのよ? それなのに、イブの夜もキスだけで……付き合いたての頃みたいに、ずっとラブラブじゃいられないのはわかってるつもりだったけど、不安になるじゃない……私はまだ、あんたのことが溺れちゃうくらい好きだったのに、私が持ってる愛情と、あんたが持ってる感情は、吊り合ってないんだって……あんたが大好きだからこそ、それがわかっちゃったのよ……」


「……兎崎……」

「最初はそんな風に思わなかったのに、夏だった季節が秋になって、冬になって……あんたと付き合ってる期間は延びていくのに、抱いてくれない、好きって言ってくれないあんたはまだ私を好きでいてくれてるのか、だんだん不安になってきて……それが雪みたいに降り積もって、私は押しつぶされそうになった。こんなに大好きなのに、私が好きって言っても、その好きが返ってこないのが、どうしようもなく怖かったの……」

「…………」

「だから、あの時は苦しかった……せっかくあんたと両想いになれたのに、気持ちとしてはやっぱり片想いなんじゃないかって疑って……そうやってあんたを疑うこと自体、あたしはあんたに好かれていたかっただけで、あんたを本当に好きな訳じゃないんじゃないかって、自己嫌悪もしちゃって……もう、心の中がぐちゃぐちゃだった……」

「…………」


「そんな時、あんたから――『あの男誰だよ』って聞かれたの」


 覚えてる。俺が兎崎と、あの男――兎崎の兄貴を見かけたのは、高校三年生の一月中旬ごろ。兎崎と同じ大学に入るために、受験勉強を頑張っていた時期で……だからこそ、それを裏切りのように感じた俺は、兎崎にそう詰め寄ったのだ。

 話がそこに至ると、兎崎は顔を上げて、少しだけはにかむ。――それは、どこか困ったような、だけど喜んでもいるような、可愛らしいだけではない微笑だった。


「こんなことを言ったら、こいつは本当に性格が悪いなって、あんたに呆れられちゃうかもしれないけど……私ね、あんたにそうやって怒られて、嬉しかったのよ」


「…………」

「ああ、まだこの人は、私が他の男と一緒に歩いてたら、怒ってくれるんだって……それが、本当に嬉しかった。……きっと、そう思ったこと自体が間違いだったのね。だから私は、それが嬉しくて――あんたに、もっといっぱい嫉妬してもらいたくて。あんたの感情を確かめるみたいに、浮気したのかって聞いてくるあんたに、『したよ、浮気』って言っちゃったのよ……」


 そこから先は俺も知っている。……雪道を転がり落ちるように、俺達は破局に向かっていったのだ。


 兎崎にはっきり「浮気した」と言われた俺は、その日からショックで何も手につかない日々が続いた。……受験勉強はもちろん、食う事、寝る事も上手くできず、この頃に俺を助けてくれたのが、妹の火花だった。

 そうして、彼女の浮気に傷ついている自分を自覚して、ようやく気づいた……。


 ――俺は兎崎のことを、死ぬほど愛していた。


 よく、大切なものは失った時に初めてその大切さに気がつくと言うけど……全くその通りだった。恥ずかしいくらいにありきたりな話でだからすげえ恥ずかしいけど――俺は、兎崎に浮気されることで初めて、どれだけ兎崎が好きだったのかを自覚したのである。


 でも、だからと言ってあの頃の俺は、大好きな彼女を浮気相手から取り戻してやるぜチクショウ! という気持ちにはならなかった。……時期的に大学受験が差し迫っていたし、何より、大好きな彼女に浮気をされたという精神的ショックがデカ過ぎて、その出来事自体に、兎崎とやり直そうとするための気力を奪われてしまったのだ。


 そうして、一月の終わり頃。

 このままでは大学受験に差し障ると思った俺は、彼女に対する未練ごと関係を断ち切るために、ラインで彼女に『別れよう』と告げた。

 それを受けて兎崎は、どうやら一件だけ、俺が見る前に削除してしまったメッセージを残しつつも、『わかった』と返信してきた。

 こうして、俺達は互いに未練を残したまま、破局したのだった。


「…………浮気したなんて、言わなきゃよかった……」


 いまにも泣きそうな顔で、兎崎は一言、そう呟いた。

 涙は出ていない。けれど、彼女は潤んだ瞳で俺を見つめ、「ううっ……」と小さな嗚咽を漏らし、手のひらでごしごしと自身の目元をこする。それは、零れ落ちそうになっている涙を無理やり自分の手で押しとどめているような、そんな仕草だった。


 それから、兎崎は静かに瞼を閉じると、クッションの上で居住まいを正す。

 そのまま、心の底から謝罪するように、俺に頭を下げた。


「ごめんね、犬助……あんな嘘ついて、本当にごめん……」


「ふざけんなよ、マジで……お前に浮気されたと思った俺が、どんだけ傷ついたと思ってんだ……」

「…………ごめん……」

「……どうして、俺が別れを切り出した時、実は浮気なんかしてない、って言ってくれなかったんだよ……」


「言い出せなかったのよ……言い出したところで、あんたを繋ぎ止められると思わなかった。……自分で言うのもなんだけど、浮気してないのに『浮気した』って言う女、ちょっとめんどくさ過ぎでしょ……だから、本当のことを言おうとはしたんだけど、でも……それを言っても、あんたに愛想を尽かされるだけだと思ったから、言えなかったの……」


「…………」


『言おうとはしたんだけど』――兎崎のその言葉に、俺は少し引っ掛かる。 

 もしかしたら、俺がラインで『別れよう』と送った、あの日――削除されていたメッセージには何か、俺が彼女と別れるのをやめられるきっかけがあったんじゃないかと、そんなことを考えてしまった。


 今更、たらればの話に、意味なんかないっていうのに。


 俺がそう思っていたら、兎崎は再度目を擦ったのち、俺に向き直る。そうして、目も頬も赤らんだ顔で無理やり笑うと、彼女は儚げな声音で口にするのだった。


「これで、わかってくれた? 実はね、犬助――私はずっと、あんたのことしか愛してないの。あんたに恋をしたあの日から、ずっとあんたに片想いをし続けてる、一途でいじらしい女なのよ」


「……い、一途でいじらしいって……でも、そう言う割にはお前、大学一年の頃は俺に絡んでこなかったじゃねえか……」

「うん。だってあの頃の私は、大好きな元カレを忘れようと必死だったから」

「……忘れられなかったのか?」


「野暮なこと聞かないでよ。……忘れられなかったから今更、こんなことしてるんじゃない。勢い余ってあんたに、『まだ、あんたが好き』とか言っちゃったんじゃない……」


「…………」


 気まずくなって目を逸らす。火照った自分の顔が嫌に熱かった。

 ともかく、改めて整理してみる――結局のところ兎崎は、俺が彼女をちゃんと抱いたり、好きだよと言ってやらなかったせいで、付き合って半年の頃に不安になり、それがきっかけで『浮気をした』と嘘をついてしまったらしい。


 けど彼女は、そうして俺と別れたあとも、俺を好きでいてくれた。

 それは、浮気した元カノ、という印象が根底から覆るような、純粋無垢な感情で――そんなの、俺としては嬉しくならない訳がない。


 でも、じゃあ俺はいま、そんな彼女の思いに応えたいのか?

 どうにも素直じゃない、めちゃくちゃめんどくさい、でもそこが可愛らしい元カノをいまでも愛していて、だから……また、彼女と恋に落ちたいのだろうか。


「…………犬、助……」


 兎崎は俺を見つめながら、泣きそうな表情と共に、いじらしい声を出した。

 それを受け、彼女を好きだった頃の気持ちがフラッシュバックする――恋人繋ぎした手と手。嬉しそうに笑う彼女。最初は上手くできなかったキスも、いつの間にか普通にできるようになっていって……でも。


 あの頃は結局、それ以上は踏み込めなかった。

 けれど、大学生になったいまなら?

 あの頃より大人になった俺達なら、きっと――。


「と、ざき……」

「犬助……」


 兎崎がビーズクッションから立ち上がり、こちらに近づいてくる。俺はそんな彼女を、ただ静かに見つめていた。――心臓が早鐘を打つ。あの頃の俺が顔を出し、彼女が好きだと騒いでいた。


 そうして兎崎は、俺の隣……俺が座っているビーズクッションに、同じように腰かける。二人用ではない、けれど大きめのクッションに二人で腰かけているので、必然、肩と肩がぴったりとくっついた。こてんと、兎崎が甘えるように、俺の肩に頭をもたせかける。

 だから、俺は――。


『したよ、浮気。だって、あんたが構ってくんないのがいけないんじゃん』


 ――元カノとあまりにも密着しすぎていると感じて、そのクッションから立ち上がるのだった。


「え……犬助……?」

「……悪い。俺、もう帰るわ……」

「…………そ、そっか。じゃ、じゃあ……」

「ああ……」


 俺はいま、自分で自分の感情を正確に測り切れないでいた。

 その場の空気に流されても良かった。俺はまだ、兎崎に未練があるのだから。彼女を嫌いになんてなれていないんだから、彼女との関係を進ませてもよかったのに……それをしなかったのは、誠実なフリをしたかったからだろうか。


 それとも、火花のことがあったためか。

 あるいは――兎崎から、『浮気は嘘だった』という事実を聞いてもなお、あの時の傷が疼いたから、という理由もあるのかもしれない。


 もう、あんな致命傷を負いたくない。


 そんなダサい感情がいまでも、俺を恋愛から遠ざけているのかもしれなかった。

 そうして、俺が兎崎の部屋を出ようとした、その時……慌てて立ち上がった兎崎が、俺の服の袖を掴みながら、言った。


「ま、待って!」

「……なんだよ。まだなんか隠してることでもあるのか……?」

「そ、そうじゃなくて……ほら! この間、あたしとあんたでス〇バに行った時、犬助から誘ってきたくせに、途中で用事ができたからって、あんたは私を置いてったじゃん? あ、あの時の埋め合わせ、まだしてもらってないんだけど……」

「……ああ、あれに関しては俺も、申し訳なく思ってたから……どうする? また講義終わりに、茶でも――」


「こ、今週末、あたしとデートしなさい!」


「…………」


 確かこの間、同じようなことを誰かにも言われたな、なんて思いつつ、俺は兎崎を見やる。……彼女は何というか、俺の服の袖を必死に掴みながら、泣き出す寸前の子供みたいな、色々と限界そうな顔をしていた。そんな顔すんなよ……。

 ともかく、それくらいのお願いなら容易い。……それをして俺達の関係がどうなるのかは少し不安だったけど、断るという選択肢はなかった俺は、彼女に答えた。


「ああ、いいぞ。でも、今週末は無理だから、来週末な」

「……! う、うん! ちゃんとエスコートしなさいよ⁉」

「ん、出来る限りで頑張るわ……」


 俺はそう返事しつつ、ちら、と部屋の扉を見やる。……それを受けて兎崎が寂しそうな顔をしたけど、俺はそれに気づいていないフリをしつつ、彼女に言った。


「それじゃあ、またな」

「……うん、また……」


 またな、と俺は言ったのに、兎崎は俺に「それ、もう離せ」と言われたみたいに儚げな顔をして、掴んでいた服の袖口を放した。……泣きそうになりながら、それでも涙を零さずに無理やり笑みを浮かべる彼女を、心底美しいと思ってしまった。

 そうして俺は、静かに部屋の扉を開けて、その場をあとにする。


 そしたら、俺が扉を閉めた、その瞬間……「ううっ」と。


 遂に堪えきれなくなったみたいに、彼女が小さく嗚咽する声が聞こえたけど、俺はそれを無視して兎崎家の玄関へと向かう。……さっき彼女を受け入れなかった俺には、それ以外にできることはなかった。


「……どっちにしろ、このまま宙ぶらりんなのは、あり得ないよな……」


 いまでも俺のことが好きな元カノ兎崎は、浮気をしていなかった。

 その事実を知った俺はいま、その気持ちに応えたいのか。応えられないのか。


 それは、俺はまだ彼女のことが好きなのか、そうじゃないのか以前に……いつか失恋するという恐怖に耐えながら、また誰かと付き合うなんてしんどいことが、俺にできるのか、という問いも孕んでいて――結局、実際には浮気されてなかった訳だけど、『浮気した』と兎崎に言われて、あの時俺が負った傷の痛みは、紛れもなく本物だからな……。


 でもじゃあ、そんな嘘をついた兎崎が全部悪いのかと言われたら、そんな嘘をつかせた俺にも責任は大いにある訳で――つまるところ、俺と兎崎はそんな風に些細なボタンの掛け違いで別れただけなのだから、そんな俺達がヨリを戻したら……今度は上手くやれるのか? ほんとに?


「……いやほんと、恋ってダル過ぎでは……?」


 何がダルいって、こんな風に色々と頭で考えたところで結局は、理性じゃなくて感情が答えを出すのがほんとダルかった。

 いつか桃本さんも言ってたけど――ごちゃごちゃ考えるのはやめだ! やっぱ俺は兎崎が好きだ! って気持ちだけで元サヤに戻るとか、全然あるからな……! なんで人間の感情ってブレーキついてねえんだよ。車ならあり得ねえからなこれ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る