前日譚 兎崎③「な、なるほどな。俺のファーストキスはペペロンチーノ味か……」

「じゃあまたな、兎崎とざき。また、学校で」

「…………」

「……あの、兎崎? 家、入んねえの?」


 七月中旬のある日。

 気温の高かった日中から少し涼しくなった、午後八時過ぎ。


 高校三年生の私は、大好きな彼氏と付き合って初めてのデートを終え、彼に送ってもらう形で、自宅の前に立っていた。

 今日は楽しかった……彼氏彼女の関係になったからって、お互いの体をべたべた触ったりとか、そういうイチャイチャはあまりできなかったけど――大好きな人の彼女になれた事実を噛みしめながら、くだらないことを喋って、笑って……そんな時間が幸せだった。


 そ、それに、手は繋いだしね!

 私が催促するように「て、手とか、繋いだらどうなの……?」と言ったら、彼が「ん」とぶっきらぼうに、左手を差し出してくれて――あれはめちゃくちゃ恋人っぽかった! こんなこと本人には絶対言えないけど、もしかして私、こいつと手を繋ぐために産まれてきたのでは? とかそんな乙女なことを思うくらいには浮かれた。なんなら、あの時を思い出していまも浮かれてる。しあわせ!


 でも、今日のデートがめちゃくちゃ楽しかったからこそ、現在――私を自宅に送り届けてくれた凪町なぎまちくんが、家に帰ろうとしているのを見て、私は……酷く寂しい気持ちに苛まれていた。

 ……そりゃあ、いつかこのデートを終わりにしなきゃいけないのは、わかってるけど……でも、別にもうちょっとくらい、一緒にいたっていいじゃない……。


 内心でそう呟いた私はだから、これが彼の迷惑になることは、わかっていたけど――そっと。凪町くんの服の袖を、縋るように掴んでしまった。


「……兎崎……」

「か、勘違いしないでよね……あんたともっと、一緒にいたいだけなんだから……」

「いやそれ、ツンデレできてねえぞ……」


 少し顔を赤らめた凪町くんはそう言いながら、困ったように頬を掻いた。……彼氏の困った表情も可愛いとか、別に思ってないんだからね!

 次いで、彼は周囲をきょろきょろ見回すと、私に向き直って言った。


「じゃあ、まあ……もうちょっとだけ、公園で話でもするか?」

「……うん!」

「よし。それじゃあ行くか」

 

 凪町くんはそう言うと、彼の服の袖を掴んでいた私の右手をそっとはがし、それに自身の左手を絡ませ、手を繋いでくれた。……こういう行動の一つ一つに、大好き、と言ってしまいたくなるけど、あんまり言い過ぎても鬱陶しがられちゃうかな? じゃあ代わりに、心の中ではめっちゃ言ってやろ。好き好き大好き超愛してる!


 そうして私は、ほんのり頬を赤らめた凪町くんと手を繋いだまま、私の家近くの公園まで歩いた。それから、私達はベンチに腰掛け、どうでもいい話をする。期末テストの結果がどうだったとか、夏休みの宿題はいつやる予定だとか、そんな話。


 そんな風に一緒の時間を過ごして、どれくらいが経っただろうか……私はふいに、彼と付き合えた時に言ったことを思い出して、凪町くんに尋ねた。


「そ、そういえば、その……初めてのデートの時にちゅ、ちゅーするって話は……どうなったわけ?」

「…………ああ、そんな話あったよな。……えっと、お前からしてくれるんだっけ?」

「はあ!? なんで私から!? こういうのって、男の子の方からでしょ!? なに女の私にやらせようとしてんのよ!」

「いや、俺の記憶だと、お前が――『初めてのデートの時には絶対するからね! 覚悟してなさいよ!』って言ってたんだけど」


「そ、それは、その……記憶にございません」


「政治家の方かな?」

「と、ともかく! こういうのって、男の方からやってくれるもんでしょ!? だから、その……わ、私は、身を委ねるから……」

「…………」


 私の言葉に、微妙な表情をする凪町くん。彼女とキスしたくないのかこいつ、と思ったけど、そうじゃなくて――彼はいま、私とのキスに照れるあまり、わざとそんな顔をしているようだった。可愛いなちくしょう。


 そうして、凪町くんは一度顔を俯けたのち、深く深呼吸をする。

 次いで、彼は静かに顔を上げると、私の両肩に手を置いた。……真剣な表情の彼を前にして、私の心臓が破裂しそうなくらいドキドキする。

 う、うそ……私今日、凪町くんとキスしちゃうの……?


「いくぞ」

「お、おねがいしまひゅ!」


 カミカミでそう答えながら、私は目をぎゅっと瞑った。

 大丈夫、私の大好きな彼氏なら、スマートにやってくれるはず……そう思った私は、やかましい心臓の音を聞きながら、彼に優しくキスされるのを待ったけど――そうやって待つこと、数十秒後。


「あの、お願いしますって言ったんだけど……」

「い、いま行く。覚悟しろよ」

「は、はいっ!」


 なかなか覚悟の決まらなかったらしい凪町くんは、ぎゅっ、と私の両肩を痛いくらい握ったのち……ようやく、私の唇にちゅーをしてくれた――のだけれど。


「んんっ!?」


 ごちん! という音と共に、勢いよく重なる彼と私の唇。

 そこに、甘さや柔らかさは微塵もない。私はただ、自身の唇をいきなり殴りつけられたような衝撃に、つい涙目になって……大好きな彼とのファーストキスを無理やり中断したのち、こう叫ぶのだった。


「いっ、いったああああああ!?」

「わ、悪い兎崎! 大丈夫か!?」


 自身の唇の状態を、指で触って確かめる。……上唇の内側が切れ、軽く血が出ていた。どうやら凪町くんがあまりにも勢いよく私の唇にちゅーしてきたせいで、私は自身の前歯で唇を切ってしまったらしい。えええ、なにこれ……私が想像してたファーストキスと全然違うんですけど。


 せっかくのファーストキスが失敗に終わり、だから大好きな彼氏をつい恨みがましい目で見てしまうと……それを受けて凪町くんは、ばつが悪そうな顔でこう言った。


「……べ、別に、緊張とかしてなかったけどな……?」

「嘘つけええええええ!」


 私と同じで、素直になれない男の子だった。似た者カップルかよ。

 私のそんなツッコミに、「あははー」と空笑いをする凪町くん。彼は次いで、何かを気にするように自分の手に息を吐くと、その匂いを嗅ぎながら言った。


「つか、いまなんかすげえ美味そうな匂いがしたんだけど……そういやお前、お昼にペペロンチーノ食ってたよな?」

「…………あ」


「ってことはあれか。いまお前とキスした時にふわっと香ってきたあれは、ガーリックの匂いか。……な、なるほどな。俺のファーストキスはペペロンチーノ味か……」


「――――」


 恥ずかし過ぎて顔を両手で覆い隠す私。

 あああああああああやってしまったああああああああああ!? 何で私は今日、凪町くんと二人でお昼を食べる時に、そんな女の子らしい配慮すらできなかったのか! 食べたいものを食べてんじゃないわよ!


 脳内でそう叫んだ私は、顔から火が出そうになりつつ、大慌てでベンチから立ち上がる。そしたら「どこに行くんだ?」と凪町くんが尋ねてきたけど、そんなの決まっていた。


「コンビニにブレ〇ケア買いに行ってくる!」

「いや、いまさら遅えから。それを買ってきて口臭を消して仕切り直したところで、それはセカンドキスだから。もう意味ねえよ」


「で、でも……納得できないじゃない! こ、こんなに……こんなにもファーストキスが失敗することってあるの!? あんたは緊張し過ぎて、私の唇を切ちゃうし! 私は私で、ペペロンチーノ味のキスをしちゃうし! ……こ、こんなの、少女漫画でも見たことないわよ!? ファーストキスって普通、一生の思い出になるものでしょう!? こういうのはもっと、甘酸っぱいものじゃなくちゃいけないのに……ど、どうして、こうなっちゃうのよおおおおおおおおおおおお!」


「く、くふふっ……あははははっ!」

「な、何がおかしいのよ!?」

「いや、何つうか……お前が彼女でよかったって、改めて実感してな」

「な――」


 いきなり何を言い出すのか、私が大好きなこの男は!

 訳がわからず、私がただただ顔を赤くしていると、凪町くんもそれに同調するように頬を朱に染める。しかし、照れた私を見て照れた彼はそれでも、言葉を続けた。


「そりゃあ、ファーストキスを失敗したかった訳じゃないけどさ……でも、こうして失敗した時に、やばい気まずいって思うんじゃなくて、こんなにも愉快な気持ちになれるお前と付き合えて良かったって、そう思ったんだよ。……だってこんなの、一生忘れないだろ。彼女の唇を切って、しかもペペロンチーノ味なんて。これから一生、忘れらんねえよ」

「あ……」

「だから、お前でよかったって、そう思ったんだ」


 そこまで話し終えると、凪町くんは私を見ながら、笑みを浮かべてくれた。

 それを受けて、私は――私がいま抱えている、凪町くんが愛おしくてたまらない、という感情が、もう一回り大きくなったのを自覚する。


 お互いのせいで、無残にも失敗したファーストキス。目も当てられない黒歴史になる筈だったそれが、彼がそう言ってくれた途端、とても愛おしいものに感じられた。……彼が、そうしてくれた。失敗したからこそ、忘れられないものになった。


 私が夢見ていた、少女漫画のヒロインがするようなキスじゃなかったけど、構うもんか。

 ――これこそが、私が死ぬほどしたかった、大好きな彼とのキスなんだから。


 私がそう、凪町くんに惚れ直していると、彼は私の腕を引きながら、こう続けた。


「だからまあ、座れよ。ブレ〇ケアは買いに行く必要ない」

「……で、でも、あんたが嫌でしょ……?」

「嫌じゃない。むしろ美味かった」

「そ、それは感想としておかしいでしょ!」

「ふふっ、そうかもな」


 凪町くんはそんな風に笑ったのち、私をベンチに座らせた。それから、仕切り直すように私の両肩に手を置く。……私の口はガーリック臭いままなのに、それでも。凪町くんはガーリック臭い女を正面から見つめながら、囁いた。


「今度こそ上手くやる。任せとけ」

「う、うん……――んっ……!」


 優しく唇と唇が触れ合う。思わず声が漏れてしまった。は、恥ずかしい……。

 凪町くんの柔らかな唇の感触を受け、じわじわと全身を電流が走る。

 ――彼が好きだと、体中の細胞が騒いでいた。行為としては、大好きな彼と唇同士を触れさせているだけなのに、嬉しさと愛おしさがない交ぜになった感情がふつふつと、胸の内から絶えず湧き上がってくる――。

 大好きな彼とするキスは、私が想像していた十倍は気持ちが良かった。


 そのうち我慢できなくなって、少しだけ瞼を開ける。……凪町くんの顔がすぐそこにあるのを確認した私は、あまりにもドキドキしてしまい、すぐさま目を閉じた。柔らかな唇の感触がより愛おしく感じられて、このまま彼に抱きつきたくなった。


 そうして、数十秒が経った頃……少しだけ名残惜しむように、彼はそっと私の唇から顔を離すと、私を見つめて微笑んだ。それを受けて、私も少しだけ笑う。

 そうしているうちに、私達は「ふ、ふふっ。あははっ!」「あはははっ!」と、いま抱いた幸せな気持ちそのままに、笑い合うのだった――。


 こうして私は、彼氏との初デートの日に、凪町くんとキスをした。

 残念ながら、彼としたファーストキス自体は失敗に終わったけど、それも含めて、あの日のことは……いつまでも忘れられそうにない、愛おしい記憶になってくれたのでした。


「なんかペペロンチーノ食いたくなったわ」

「……うっさい。余計なこと言うな」


 でも大好き。

 そこまでは口にできずに、私は彼を見つめる。彼を見つめたら見つめたぶんだけ、彼が見つめ返してくれる関係になれたことが、凄く嬉しかった。

 ……ちなみに。これがあって以降、私が彼とデートをする際には、昼食に細心の注意を払うようになったのは、別に言わなくてもわかるでしょ。察しなさいよ。

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