前日譚 火花②「私はずっと、兄さんのそばにいますから」
「兄さん? 起きてますか、兄さん? ……入りますよ?」
私はそんな声掛けをしながら、お兄ちゃんの部屋のドアノブを捻り、中に入った。
そしたら、そこには――。
「……勝手に入ってくんなよ……」
暗い部屋の中、仰向けの状態でベッドに横たわりながら、灯りの漏れるスマホをぼんやりと見つめている、お兄ちゃんの姿があった。
ちなみに、着ているのはくたくたになった灰色の部屋着で、目の下には薄っすらとクマができており、見るからに元気がなかった。
「……兄さん。いい加減外に出た方が、心の健康にもいいと思いますけど……」
「いいから。一人にしてくれ」
私の言葉を無視して、それだけ言うお兄ちゃん。……でも、決して腹は立たない。それで私が抱く感情は、あの女に対する激しい怒りと、お兄ちゃんに対する憐憫だけだった。
私が中学三年生だった頃の、一月半ば。
当時高三だった私のお兄ちゃんは、付き合っていた彼女に浮気され、傍目にもわかるくらい落ち込んでいた。
ご飯を食べる量も減り、自由登校の時期に入ったからと、それまで通っていた高校にも行かず、部屋で勉強もあまりしてないみたいで……本人の口から聞かなくてもわかる程、彼女に浮気されたことがショックだったらしかった。
……正直、彼女に浮気をされて、こんなにもショックを受けているお兄ちゃんに、私はショックを受けてしまったけど――そんなに彼女のことが好きだったんだと、私も少しだけ泣いてしまったけど、現在。
何とか感情の整理をできた私は、落ち込んでいるお兄ちゃんを元気づけたくて、こうしてお兄ちゃんの部屋に……本人には嫌がられながらも、無理やり押し入ったのだった。
「兄さんこれ、夜食におにぎり作ったんです。食べませんか?」
「いい。腹へってねえ」
「そんなこと言わないで。ちょっとでいいですから」
私はそう言いつつ、ベッドの横にあるサイドテーブルに、私が作ったおにぎり二個が載った皿を置いた。中身はどちらもこんぶ。お兄ちゃんの好きな具だった。
私が部屋に入ってきたのを受けて、むくり、と起き上がるお兄ちゃん。スマホを傍らに置いたのち、お兄ちゃんはベッドから足を投げ出すように座ると、私の方を見ないまま、ぽつりと言った。
「ありがとな
「…………」
「……おい。俺は出てけって言ったんだぞ」
「兄さんがおにぎりをちゃんと食べるまで、ここで見てます」
お兄ちゃんが腰かけるベッドのすぐ隣に、私も腰かけた。半ば強引に居座ろうとする私を、お兄ちゃんが胡乱な目で見てくるけど、私は出て行ってあげない。
……私なんかじゃ、何もできないかもしれない。
それでも私は、お兄ちゃんに何かしてあげたくて、出てけ、というお兄ちゃんのお願いを無視するのだった。
「……食ったら出てけよ?」
「はい。わかってます」
そんな会話を交わしたのち、お兄ちゃんははおにぎりに手を伸ばす。そのまま、ぱくりと一口。数回咀嚼したのち、無理やり嚥下するように飲み込むと、しかし……お兄ちゃんは手にしていたおにぎりを、すぐに皿に戻してしまった。
「……美味しくなかったですか?」
「いや、美味かった。味覚は平気なんだよ。そうじゃなくて、食欲がどうにもな……」
「――――」
心がかき乱され、様々な感情がふつふつと沸き上がる。
私のお兄ちゃんをこんなにした、
けれど、そんな醜い激情よりも、私には優先したい感情があって――大好きなお兄ちゃんを、何とか励ましてあげたい。……改めてそう思った時にはもう、私はお兄ちゃんのことを、ぎゅっと抱き締めていた。
「な……お、おい、火花……」
「兄さん……」
それは奇しくも、運動会を終え、二人揃って家に帰ったあの日と、同じような構図だった。
私は、私より大きいお兄ちゃんの頭を、自分の胸に埋めるように抱きかかえる。……残念ながら、私の胸は未だふくよかではないけれど。私は、大好きなお兄ちゃんを慰めるために――お兄ちゃんの頭を、将来的には大きくなる筈の自分の胸に、優しくかき抱いた。
そうしながら、私は告げる。
少し恥ずかしくても、いま、お兄ちゃんに伝えおかなくてはいけないことを。
「私はずっと、兄さんのそばにいますから」
「……なんでそんなことが言えるんだよ。家族だからか? だからずっと一緒にいられるって?」
「違います、兄さん。――私が、兄さんを愛してるからです」
「――――」
私の胸の中にある頭が、ぴくっ、と少しだけ動いた。
それに構わず、私は続ける。大好きなお兄ちゃんに、異性として好き、とまではさすがに言えなかったけど……決して嘘ではない言葉を、オブラートに包んで続けた。
「私は、兄さんの妹だから、兄さんと一緒にいられる訳じゃありません。――私が、兄さんを愛しているから。だから一緒にいられるんです」
「……火花……」
「安心してください、兄さん。この気持ちは決して、いつか冷めてしまうものじゃありません。幼い頃から兄さんと一緒にいることで、育んできたものですから。浮気した兄さんの彼女が抱いていた思いとは、別の感情ですよ」
「……そ、それは、家族愛ってことだよな……?」
「…………」
それに対して私は、お兄ちゃんをよりぎゅっと抱き締めるだけで、何も答えない。
本当はそうじゃないけど、そうじゃないとまではさすがに言えなかった。
そうして、しばらくお兄ちゃんを抱き締めていたら、ふいに――。
「も、もういいから。十分、お前が俺を励まそうとしてくれてんのは、わかったから……」
お兄ちゃんはそう言って、お兄ちゃんを抱き締めていた私を、優しく押しのけた。
「兄さん……」
そうして拒絶されたことに、つい寂しい気持ちを抱いていると……お兄ちゃんは次いで、皿の上に残っているおにぎりに手を伸ばし――それをゆっくりと、でも決して手は止めずに、食べ始める。
そうして、しばしの時間が経ったのち……お兄ちゃんはおにぎりを二個とも完食すると、こう言ってくれたのだった。
「……ありがとな、火花。お前に慰められたら、ちょっとだけ食欲出たわ」
そう言いながら微笑むお兄ちゃんの顔は、何故か少しだけ赤らんでいて。
だから私は――照れてるお兄ちゃんも可愛いな、と。そんな場違いな感想を抱いてしまうのだった。
「いえ、少しでも兄さんが元気になったなら良かったです。――あ、そうだ兄さん。この間、友達とショッピングモールに行ったら、兄さんが好きって言ってた、あれ……ええと、何でしたっけ……も、桃〇郎電鉄? ってゲームが置いてあったので、買って来たんです。今度、一緒にやりませんか?」
「……ああ、気が向いたらな……」
それから時間は経過して、数日後。
私の慰めが功を奏したのか、どうにかして踏ん切りをつけたらしいお兄ちゃんは浮気した彼女とすっぱり別れ、それからは徐々にいつものお兄ちゃんに戻っていき――無事、大学受験も成功させたのでした。めでたし、めでたし。
……まあそもそもの話、お兄ちゃんがあんな女に引っ掛からなければ、こんな事態には陥らなかった訳だけど――ともかく。
こうして私は、お兄ちゃんにこんなにも辛い思いをさせた元カノを、いつか絶対何らかの方法でぶっ殺したいなあと、そんなことを思うのでした。
……え? 大好きな人を傷つけた女を殺したいと思うのは、女の子として普通の感情ですよね? いえ、もちろん思うだけで、実際にはそんなことしませんけど。ついついそう思ってしまうこと自体は普通ですよね? ――ね? 私のこの気持ち、一度でも誰かを本気で好きになったことがある人なら、わかってくれますよね? わからないなんて言わないですよね? ね?
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