前日譚 兎崎①「なんで俺が悪いみたいになってんのこれ」

 確かあれは、私がまだ高校一年生だった頃。

 時期としては、一月の初旬辺りだったと思う。

「くっ……これ、どうしたらいいのよ……」

 私はその日、いつものように学校へと登校している最中に、自転車のチェーンが外れてしまい、途方に暮れていた。


 すると、大通りの歩道で立ち止まっていたものだから、私と同じように登校していた男子生徒が、私のそばで自転車を停め、「大丈夫? 手伝おうか?」と声をかけてきた。それに対して、私は――。

「お気遣いなく。私一人でできるから」

「そ、そっか……」

 私のにべもない拒絶を受けて、男子生徒は気まずげにそう言うと、その場を立ち去る。そうして、彼の背中が遠くなるのを見つめながら、私は小さく零すのだった。


「なんで強がりだってわかってくんないのよ……」


 ……我ながら不器用な女だと、そう思う。

 まあ、私からしてみたら、私以外のみんなが器用すぎるという印象なんだけど……どうしてみんな、自分が助けて欲しい時に「助けて」って素直に言えるのよ。誰かに助けを求めるなんてそんなの、一番恥ずかしくて難しいことじゃない……。

「ううっ……遅刻しちゃうよお……」

 私は涙目になりながら、がちゃがちゃと自転車のチェーンをいじる。チェーンの油のせいで手が真っ黒に汚れてしまい、それが尚更私を惨めにさせた。まるで、お前は性格ができていないからこういうことになるんだぞ、と誰かに言われてるみたいだった。


 そうしてしばらく自転車のチェーンと格闘していると、ふいに――私のすぐ横をびゅん! と、自転車に乗った同級生が走り去っていった。……こんなにもあからさまに困っている女の子がいるのに、冷たい人間もいたものね。うちの学校の生徒はみんな、困ってる私を見て「手伝おうか?」ぐらいは言ってくれたわよ?


 まあ、そう言ってくれた人達はもれなく、私に拒絶されてこの場を去ったんだけどね! ……もうちょっとでいいから、素直な性格になりたいかも……。

 そう思いながら、走り去った背中をぼんやり見つめていると――突然、そいつは自転車に急ブレーキをかけ、私から少しばかり遠い位置で停まった。


 次いで、そいつは何秒間かだけそこに立ち尽くしたのち、進む方向を百八十度変え、私がいる方に戻ってくる。それから、そいつは私の目の前で自転車を停めると、自転車を降り、外れたチェーンをいじる私を見下ろしながら、こう言うのだった。


「手伝う」

「……いい。私一人でできるから」

「でもお前、手が真っ黒じゃん。――もう長いことやってるんだろ? 俺がやるよ」

「同情なんかいらないから」


 正直、助けて欲しい気持ちでいっぱいだった。

 それでも、私の口から出るのはそんな、強がりの言葉ばかりで……本当に、可愛げのない女よね。でも、同情されたくない、というのは私の確かな気持ちであり、もう既にかなり残念な感じになっている私だけど、誰かに哀れまれるのだけは死んでも嫌だった。

 そうして、私に冷たい言葉を浴びせかけられ、この場を去ると思われたそいつは、しかし――。


「同情なんかじゃない。こんなの、それこそ自己満足だ。……やっぱ手伝わないと俺の気分がもやもやするから、そうするだけ」

「…………」

「だからそこ、どいてくんない?」


 その言葉に、さっきのこいつの行動を思い出す。

 こいつは一度、困ってる私に対して、見て見ぬフリをしようとした。

 だから、冷たい人間なのかと思ったけど、そうじゃない……たぶんこいつも、私みたいに不器用な奴なんだ。


 誰かを助けたいと思った時、その感情のまま、すぐに行動できない人間。

 でもだからって、その誰かを捨て置けるほど、冷たくもなれない人間。

 何というか、こいつもこいつで、他人と関わるのが下手そうだな、と……自分のことを棚に上げて、私はそう思った。

 だからだろうか。


「……わかった」


 私は私らしからぬ素直さで、そいつに場所を譲った。するとそいつは、私の自転車の前にしゃがみ込み、チェーンを直し始める。

 意固地になっていた私を颯爽と助けてくれる、白馬の王子様……そんな少女漫画みたいな妄想をしていた訳じゃないけど、ちょっとだけこいついいかもって思った私が、でも、それが勘違いだったと気づいたのは、彼がチェーンを直し始めて十分が経った頃だった。


 いやこいつ、全然チェーン直せる気配ないんだけど!?


 私を助けるために現れた王子様は、手先がめたくそ不器用だった。なんならチェーンをいじりながら、「あ、無理かもこれ」とか呟きだしていた。おい、私の王子様おい。

「あははっ」

 必死になって私の自転車のチェーンを弄りまわす彼に、私はつい笑ってしまう。

 すると、彼はむすっと不機嫌そうな顔で振り返り、私に言うのだった。


「……他人が必死になって直してやろうとしてるのに、それを笑うなよな」

「だってあんた、手伝うって言っといて、その体たらくなんだもん。直せないなら声なんかかけないでよ」

「うっせ。直せる直せないは関係ねえんだよ。俺はただ、困ってるやつを見過ごせなかっただけなの」

「ふうん、そっか……」


 そこに嘘がないと信じれてしまうのは、どうしてなんだろうか。

 私はそんなことを考えながら、チェーンを直そうと躍起になっている彼の隣に、ゆっくりとしゃがみこんだ。――それを受けて、訝しむような目をこっちに向ける彼。それがなんだかおかしくて、私はまた笑ってしまいつつ、続けた。


「ほら、手が止まってるよ。早く直してってば」

「……なんで助けられてる側が偉そうなんだよ……」

「あーあ、このままじゃ絶対遅刻なんだけど。どう責任取ってくれんの?」

「なんで俺が悪いみたいになってんのこれ。……いや、俺が無能なのは自分でも認めるところだけどさ、だからって『責任取れ』は言い過ぎだろ」


「こういうのって普通、直せる自信があるから手伝ってくれるものじゃないの? なんで直せる自信もないくせに手伝ってくれたの? もしかしてあんた、めっちゃ良い奴だったりする? それともめっちゃアホ?」

「お前ほんと、善意で助けてくれてる人間に対して酷すぎねえ? たとえ結果が伴っていないとしても、この善意に関しては、もっと感謝されるべきなんだが?」

「これっぽっちも役に立ってないし、むしろあんたのせいで遅刻しそうだけど、助けてくれようとしたその気持ちだけは一応ありがとねっ!」

「こんなに感謝の気持ちが伝わらないありがとうもねえな」


 言いながら、全く直る気配がないのに、それでもがちゃがちゃと自転車のチェーンをいじくってくれる彼。……たぶん、彼がすっごいイケメンで、私の自転車を颯爽と直してくれていたら、彼の名前を知りたいとは思わなかったに違いない。

 でも私は、彼が……自転車のチェーンを直せるかもわからないのに、それでも、俺が直してやるんだと決意して、私に手を伸ばしてくれたことが、なんだか嬉しかった。


「ねえあんた、名前は?」

「……凪町なぎまち犬助けんすけ。一年A組」

「ふうん、凪町くんか……ちなみに、私の名前は兎崎とざき美々みみ。一年D組。よろしくね」

「いや、別に聞いてないんだけど……」

「よろしくね!」

「あ、ああ、うん。よろしく……」


 もちろん、握手なんかしない。こいつ――凪町くんの手は、既に私の手より汚れていたから、そんな彼の手を握りたいと思わなかった私は、彼に手を差し出さなかった。

 でも、素直じゃない私には珍しいことに、よろしく、と。

 この冴えない男に対しては感情そのままに、そんなことを言えていたのだった。


「どう? 直りそう?」

「……あのさあ、車を直してくれるJA〇って、自転車も直してくれるんだっけ?」

「大人に助けてもらうとすんな」


 という訳でその日、私と凪町くんは二人揃って、学校に遅刻した。

 ……こんな些細でつまらない出来事が、私にとっては大切な思い出だなんてことは、彼にだけは絶対に内緒だ。

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