第1話「私ね、あんたに好かれてる自分が大好きなのよ」

 未だ春の麗らかさが大学のキャンパス内に蟠っている、五月初旬。

「ふわぁ~あ……」

 俺は一人大きく欠伸をしながら、中庭で優雅にバドミントンなんかをやってる連中を尻目に、東棟二階にある教室へと足を向けていた。

 昼食を終えた三コマ目。現代文化論の講義。

 こんな寝てくださいと言わんばかりの春の陽気が大学内に充満していたら、睡魔に抗うなんて無理だろうなと諦観しつつ、俺は東棟の階段を上り、目的の教室に入った。


 するとそこには既に、ぱらぱらと生徒が座っており……でも大学で特に友達のいないぼっちの俺は、誰を探すこともなく、いつもの位置――窓側の、後ろから三番目の席に座るため、そっちに近づいていった。

 けれど。

「……はぁー……」

 俺がいつも座っている席のすぐ隣に、むすっとした顔の女が座っていたので、俺は一つ嘆息してしまう。


 しかし、ここで彼女を意識して、わざわざ遠い席に座った前回は、「なに私のことをあからさまに避けてんのよ。意識し過ぎでしょ。まだ私達の間に何かあると思ってんの?」と言われてしまったので、俺はしぶしぶ、いつもの席に……彼女の隣に、腰を下ろした。

「あっ……」

 そしたら、一瞬だけ嬉しそうな顔をする彼女。

 次いで、彼女はわざとらしく不機嫌そうな顔になると、俺を睨みつけながら言った。


「ちょっと。なに私の隣に座ってんのよ。私のこと意識し過ぎでしょ」

「お前のことを避けなくてもそう言われんのかよ……」

「やめてよね。確かに私はあんたの元カノだけど、それは元カノってだけなんだから」

 そう言って勝ち誇ったように笑うこの女の名前は、兎崎とざき美々みみ

 いま彼女が言った通り、俺の元カノである。


 少し目じりの垂れた目元がチャームポイントの、端整な顔立ち。ミディアムの明るすぎない金髪を、ぴょこん、と片側だけ縛ったワンサイドアップの髪型。健康的に膨らんだ胸元(本人申告でEだけど、たぶんDくらい)。身長は普通ながら、くるぶしから腰まですらりと伸びた体躯――キャンパスを歩けば自然と人が振り向く程に、可愛らしい女の子。

 そんな彼女が、高校時代、なんやかんやあって俺と付き合い、なんやかんやあって別れた、俺の元カノ様だった。


 そして、そんな俺の元恋人が、別れて一年以上も経ったいま――お互いに大学二年生になった現在、なんでまたこうして俺に絡んできてるのかというと、それは……俺もよくわからん。

 正直、後味の良い終わり方じゃなかったし、そもそも彼女が先に俺への愛想をつかした訳で、だから付き合ってた当時に決めた進路通り、俺と同じ大学に来てしまった彼女にとって、いまの俺は大学で絡みたくない男ナンバーワンだと思うんだけど……いや、そういうのって女の子の方が、過去のことなんかすっぱり忘れて、また平気で絡めたりするんだろうか。


 ちなみに、俺の方は――もう随分前のことだというのに、未だ、こうして元カノと一緒にいるという状況に、複雑な思いを抱いてしまうんだけど……。


「え、なに……? さっきから私の顔、めっちゃ見てるけど……また私のこと好きになっちゃったの? 元カノに未練たらたら?」

「ないない。そういうのないから」

「ないないって何よ! ふざけんな!」

「……そこで怒るってことは、お前、俺に未練たらたらでいて欲しいのか?」

「うん。当たり前じゃん」

「…………」


 平然とそんなことを言う兎崎に、つい黙り込んでしまう俺。

 そんな俺を見て彼女は少し笑ったのち、いたずらっぽい声音で続けた。


「私はもうあんたに未練とかないけど、あんたみたいなもう好きでもない男でも、自分のことを好きでい続けてくれたら気持ちいいもん!」

「最低か。最低の女かお前」

「私、犬助けんすけにとって最初で最後の女になりたいのよ。――もちろん、私にとっては、あんたなんかどうでもいいけど」

「どういう感情なんだそれ……俺の元カノの性格が悪過ぎるんだけど?」


 俺がそうツッコむと、兎崎はくふふっ、と堪えるように笑ったのち、告げる。

 彼女は俺の耳元に口を近づけてから、甘く囁くように言うのだった。


「ねえ、犬助……私ね、あんたに好かれてる自分が大好きなのよ」

「……一瞬ドキっとしたけど、こいつ、自分が好きとしか言ってねえ!」

「でもこれってたぶん、女の子なら誰もが持ってる感情なんじゃない? みんなこんな性格が悪いこと、他人には口外しないだけで。――こ、こんな性格が悪いこと言うの、あんたみたいな、もうどうでもいい元カレだけなんだからねっ」

「さっきから何なのお前。俺を不快にさせる選手権でもやってんの?」

「優勝は誰にも渡さないから」

「まずお前以外エントリーしてねえよ」


 そこまで会話をし終えたところで、兎崎はふいに「ふふっ」と可愛らしく笑った。……何というか、あんまりいい笑顔で笑わねえでくんねえかな。色々と思い出すんだよ。

 そんなことを思っていると、ふいに先生が教室に入ってきて、授業開始のベルが鳴った。どうやら講義の時間が始まったらしい。


 それを受けて自然と会話を打ち切る俺と兎崎。というか、元カノと未だにこういうくだらない会話をしてるのって、関係としては正しいんだろうか……なんて思いつつ、俺はルーズリーフにペンを走らせる。そうして、黒板の板書をルーズリーフに写していると、強烈な睡魔に襲われた。


 やば、もう眠いわ……朦朧とする意識の中、ポケットからスマホを机の上に出し、時間を確認してみると、授業が始まってから十分しか経っていなかった。親の金で大学行ってるくせに、なんだよこの体たらくは……大学生って人生舐め過ぎでは……?

 思った俺はシャーペンの先で自分の手の甲をつんつんやる。痛みを受ける度に、少しだけ浮上する意識。そんな俺を見かねて、隣の女が小声で言ってきた。


「ねえねえ……それ、私なら、あんたの手の甲になんの気兼ねもなくそのシャーペンをぶっ刺せるから、手伝ってあげよっか?」

「他人の痛みがわからない女すぎるだろお前……いいよ、やめてくれ。お前を傷害事件の犯人にしたくねえから」

「……ふふっ。なんでそんな言い方すんのよ。普通に『痛いからヤダ』でいいじゃない」

「じゃあ痛いからやだ」

「そっか。じゃあ、ちょっとだけ寝ちゃえば?」

「ん……そうする……」


 何故か優しい声で兎崎が囁くので、俺はそう返事をして瞼を閉じる。

 ゆっくりと手放されていく意識。その中で、ふいに――。


「……やっぱ、寝顔かわいいなあ……」


 彼女らしからぬ発言を聞いた気がしたけど、それは気のせいかもしれなかった。


     ◆◆◆


 数分、いや数十分は寝てしまったかもしれない。

 俺が目を覚ますと、黒板は先生の板書でびっしり埋め尽くされていたし、俺の隣にいる彼女は何故か、俺のスマホを片手に、何事かを呟いていた。


「くっ……どうしてスマホの暗証番号、私の誕生日じゃないのよ……昔はそうしてくれてたじゃん……」


 彼女と別れてからすぐ、暗証番号を変更しておいてよかったと、心からそう思った。

「……おい。他人のスマホいじって、何してんだお前……」

「ひゃあっ!?」

 いきなり俺に喋りかけられたことに驚き、大きな声を上げる兎崎。講義を聞いていた周りの面々、ひいては先生が、ちら、とこっちを見てきたので、俺は肩身が狭くなった。

 それから、ぎぎぎ、と錆びたロボットのような動きで、兎崎は顔をこちらに向ける。そして、ゆっくりとスマホを俺の方に押し返しながら、言い訳を口にした。


「や、べ、別に? あんたがどんな人とどんなラインをしてるのか気になって、あんたのスマホを見ようとか? してないし?」

「…………」

「だ、だいたい! だいたいよ! 私とあんたはもう、付き合ってない訳だし! だから、あんたがどんな女とどんなラインをしてようが、私には関係ないし! もし元カレが股の緩そうな女と、下ネタを言い合うようなやり取りをしてても? それで幻滅とか、全然しないし? そもそも、もうあんたに対して幻想を抱いてないのに、幻滅とかしようがなくない? ――やば、いま私、めっちゃ哲学的なこと言わなかった?」

「…………」

「う、うううっ……ご、ごめんってばあ……ちょっと色々思うところがあって、だからあんたのスマホを見ようとしちゃったのお……も、桃本先輩のこととか……? あったし? だから、見ようとしちゃったけど……結局、暗証番号がわかんなかったから、何も見れなくて……だから、何も見てないから……ごめん……」

「さっきから俺なんも言ってねえのに、だいたい白状したなお前」


 ともかく。どういう訳かは知らないが、どうやら何か俺に対して『思うところ』があったらしい彼女は、だから俺のスマホを盗み見ようとしたけど、暗証番号を解読できなかったせいで、それは失敗に終わったようだった。

 ……別にもう、俺に対して恋愛感情を抱いていない筈の彼女が、俺のスマホを見たいというのは、あんまり意味がわかんないけど……あれか? 普通に好奇心というか、ただ単に他人のスマホを覗きたかっただけか? だとしたら俺の元カノ、ヤベエ女じゃねえか。


 俺がそう思案しつつ、兎崎を胡乱な目で見つめていたら、彼女は良心の呵責に耐え兼ねたのか、自分のバッグからスマホを取り出すと、俺に差し出してきた。


「は、はい、これ! 私のスマホ! 暗証番号は教えらんないけど、触っていいよ! これでおあいこでしょ!?」

「おあいこの概念がわかんねえな、それ……つか、別にいいよ。お前のスマホとか、いじる意味もねえし」

「はあ!? な、なんで……触りたいでしょ、私のスマホ! あんたまだ私に未練たらたらなんだから、私がどんな男とどんなラインしてるのかとか、気になるでしょ!?」

「いや、別に……」

「ななな、なんでよお!」

「なんでよお、って、それがなんでだよ……別れた女のスマホとか、今更気になる訳ないだろ」


 まあ正直な話、ちょっとだけ気にはなるけどな! だからいまの俺の感情を厳密に言えば、別れた女のスマホを気にするべきではないと思っている、というのが正しかった。

 俺がそんなことを考えていると、兎崎はふいに涙目になって、なおも俺に自分のスマホを押し付けようとしてくる。彼女は何故か必死だった。


「ほら! 触んなって、私のスマホ! 触ってよお!」

「な、なんでそんな躍起になってんだよお前……そもそもこれって、罪滅ぼしなんだろ? それなのに、嫌がってる俺に無理やりスマホを押しつけたら、趣旨が変わってきちゃうじゃねえか」

「い、いいから! もうそんなんどうでもいいから! あんたが少しでもいじったら、絶対、暗証番号はすぐに解けるし――それで、あんたはきゅんする筈だから!」

「は? きゅんするって、意味がわからんのだけど……」

「と、とにかく、ほら! 私のスマホのパスワード、解読してみてって!」


 そう言って無理やり俺の手にスマホを握らせてくる兎崎。なので俺はしぶしぶ、彼女のスマホを手に、きっとこれであろうという暗証番号を入力する――。


 えーっと、1919……イクイク、っと。


「あんた馬鹿じゃないの!? いますっごい大事なとこなのに、なんでそんなくっだらないパスワード入れてんのよ!? ふざけんな!」

「ふざけてるのは貴方達でしょう! 私語は慎みなさい!」

「…………すみません……」


 勢い余って立ち上がった兎崎は、講義をしていた先生にガチギレされ、しゅんとなって座り直す。それを見ながら俺は、一つ嘆息すると……彼女にバレないように、少しだけ笑みを零したのち、頭の中で一人ごちる。


 ……やっぱ俺の元カノは、いまでも可愛らしいな。

 それは、もう口には出せない、出すべきじゃない思い。

 口に出して、それでよしんば、もう一度ヨリを戻せたところで、どうなるものでもないと――そう諦めてしまっている、そんな古びた感情だった。


 ともかく、俺は兎崎が先生に怒られしゅんとしている隙に、本当は第一候補だった、とある暗証番号を入力する。……それでするりとロックが外れたことに、どういう感情を抱いたらいいのか迷っていると、兎崎が俺を睨みながら言った。


「もう返せそれ」

「……はいよ」

「まったく……なんで私があんたなんかに、こんなに振り回されなきゃいけないのよ……元カレのくせに生意気なのよ……」


 彼女がぶつぶつ言いながら手を差し出してきたので、俺は――いちどロックを解除したことが彼女にバレないように、それとなくスマホを暗転させたのち、彼女の手にスマホを握らせた。……そうして自分のスマホが手元に帰ってくると、兎崎は不満そうな顔をして、独り言のように呟いた。


「せっかく、私にしては、勇気出したのに……」

「…………」


 その言葉に対して、俺は聞こえなかったフリをする。

 それを聞いたところで、どういうリアクションを取ればいいのか――そもそも、どういうリアクションを取りたいのかがわからなかった俺はだから、聞こえていないフリをするしかないのだった。


 ――ちなみに、彼女のスマホの、本当の暗証番号は……0128。

 付き合っていた頃に彼女が教えてくれた、俺の誕生日のままだった。

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