3章 記憶の中②

  ジェルア・ウラルとユナイスが出会ったときの話をしよう。……若き天才小説家・ユナイスはその夜を待っていた。


 秋の日だった。夏の暑さはもう身を潜め、色を奪う冬へゆっくり向かっている。夏と冬の間の季節、銀杏や紅葉の絨毯を思い出しながら、ユナイスは眠れない夜を過ごしていた。ココアを淹れてひと息つく。この秘密の部屋には誰も入れない、入ってこない。部屋の明かりを消して、憎らしいほど輝く満月のやわらかく、されど冷たい光を浴びていた。どうせ誰もいないのだ、踊ってみようか。

 ワン、ツー。ステップもターンもリズムも適当な、滑稽な舞踊。月光のスポットライト。嗚呼、玩具のバレリーナはきっとこんな気持ちであるのだ。それを、ふとやめた。

「……ココアが冷めきってしまうな。わたし、猫舌だから熱すぎると飲めないけれど、そろそろいい温度になったかな」

 大きな独り言。午前2時のひとりぼっち。平和な街、マリオネイティスの異分子たるユナイスは、このときは客人が来るなんて微塵も考えていなかった。もちろん、それが招かれざる客であったということも。


 自分以外開けない扉が開いていた。風が夜の空気を運んでくる。いつもの空想癖で、今夜は良い月だ、死ぬには丁度いいかもしれないと思った。満月の夜は死の気配がする。そんなことを考えながら振り向くと、黒いパーカーに黒いマスク姿の少年とばっちり目が合った。同い年くらいだろうか。少年はひどく驚いていて、それから、しまったという顔をした。目は口ほどに物を言う。あまりに分かりやすかったものだから、ユナイスはつい笑ってしまった。そして、動けないでいる少年に、仰々しい身振り手振りと言葉遣いで声をかけた。

「おやおや……まあとりあえず掛けたまえ。ようこそ、お客人! こんな夜更けに、と思わないでもないが、今日のような奇妙な出逢いこそ、ある種の運命と呼べるのではないだろうか! わたしは今とてつもなく穏やかな気持ち、いや胸の高鳴りを感じているから逆であるのかもしれないな、うん、わたしはいま高揚している! 素晴らしいことだね!」

 少年は呆気に取られたようだった。それから長く長くため息を吐くと、小声で呟く。

「物書きってのはあれか? 語らないと生きていけないのか? ……だから苦手なんだ」

 ユナイスは聞こえないふりをして続ける。ソファーに少年を座らせて、自分は手際よく紅茶と菓子の準備をした。

「紅茶と菓子を出そう、少年。今晩はわたしと一緒に夜を明かさないかい? 面白そうだろう、こんな数奇なことは、そうそうないだろうからね! キミの偶然開けてしまった我が家の扉と、わたし達を引き合わせた運命に乾杯!」

 紅茶を受け取って訝しげに眉を顰める少年にユナイスは微笑みを崩さなかった。軽く紅茶と菓子の説明をする。少年にとってはどうでも良い話かもしれない。どうでも良いついでに、とユナイスは語り始めた。自分がなぜこの少年に語りたいと思ったのかはわからないが、きっと満月のせいだ。月明かりの中、浮いたふたりは向かい合っていた。

「ずっと独りだったから、それはそれで気楽で……でも寂しかった。だから、キミが来てくれたことを、わたしは嬉しく思ってるんだ。ふふ、こんな夜更けに、秘密の扉を開けてしまって……わたしが起きていたことも、こうやってキミに紅茶や菓子を出すことも、偶然にしては出来すぎなくらいだ」

 運命の悪戯か、必然なのかわからないけれど、これきっと良い出逢いだと思った。チリチリと胸の奥で火花が散る。親しい人間など作って良いのか。それで決心が鈍ったりはしないだろうか。幸福に身を浸すことに後ろめたさを感じてしまうのを隠して、ユナイスは滔々と語る。今執筆している本の話、世界情勢の話、紅茶の話、好きなお菓子の話、洋服の話……少年が黙っていることを良いことに、話題をコロコロ変えながら、延々。気づけば夜が明けていた。

 さすがに引き留めすぎたね、と苦笑して、少年を外の世界に返した。……その少年が、自分を殺しに来た暗殺者だとは知らないまま。


 次の日も、また少年は現れた。今度こそ、このユナイスという少女を殺すために。

「やぁ、こんばんは。今日は迷い込んだわけではなさそうだけれど、わたしに会いに来てくれたのかい?」

 時計は午前2時を回っていた。少年が苦虫を噛み潰したような顔をするから、ユナイスは面白くてたまらなかった。

「ふふ、冗談だよ、そんな顔をしないでおくれ。わたしはキミにそんな顔をさせたいわけではないのだから。ああ、でもそんな顔をするキミも素敵だよ! 創作意欲が湧く表情だ」

 知らないとはいえ、自分を2度も殺しに来た少年を饗す人間がほかにいるだろうか。開くはずのない扉を開けてきた身元不明な他人に、レモンティーを差し出した。

「…………"会いに来た"のは、あながち間違いではない……かもな。」

 少年の呟きにユナイスが弾かれたように顔を上げる。そこに貼り付けたような微笑みはなく、純粋に驚いた少女の表情。

「……そうか……それは嬉しい、な。……ところでキミの名前を教えてはくれないか? いつまでも『キミ』ではあまりに不躾だろう?」

 まだ出逢って2日目の少年に。しかし少年の方もゆっくりそれに応えた。

「……ジェルア。ジェルア・ウラルだ」

「ありがとう、これからは『キミ』ではなく、ジェルアと呼ばせてもらうことにするね。わたしはユナイス・ミッドナイツ。ユナイスと呼んでくれ」

 長く付き合うとも限らないのに、お互いに名前を明かした。早々に帰ると言って部屋を出ていくジェルアに、ユナイスは今度は明るいうちにおいでと朗らかに笑った。


 それから、彼はこの部屋に来なかった。


 運命は一瞬で、やはり友という存在なんてとユナイスは乾いた笑いを顔に貼り付けた。本が友。辞書が先生。羊皮紙が家族。文字を書いて消してまた書いて、囚われた心を無視して、そうやってしか生きられないのだと思った。作業用机に資料が散乱しているが、なんだか片付ける気も起きなかった。

 新たな出会い、何かが変わりそうだと感じたあの少年は、もしかしたらユナイスの夢だったのかもしれない。それなら、小説に起こして、実態のないジェルアという架空を友にしてしまっても…………。

「やあ、3日も来ないから、もう姿を現してくれないのかと寂しがっていたところだよ、ジェルア。わたしの夢とか妄想とかだったらどうしようなんて心配になったくらいさ!」

「そうか、俺は別に寂しくはなかったな、ユナイス。あと俺は実在してるから勝手に妄想の産物にするな」

「ふふ、それはすまなかったね! ……さて、紅茶は何にする?」

 くだらない話に、くだらないふたり。秘密の扉なかで穏やかなひとときが流れる。


 そしてあるときユナイスは言った。


 人生は美しい。

 それは後悔があるから、

 それはやり直しができないから、

 それは戻らない瞬間に

 自分のすべてを賭けて生きているから。


 だから命は輝く。

 輝く命の人生は美しい。


 過ぎ去った瞬間の『もしも』をやり直すのは、命への、人生への冒涜だ。望むのは構わないしその手の小説など幾万も存在する。ただ、それを実行してはならない。『もしも』なんて言っている暇があるのなら次の瞬間を生きることを考えろ。それに、命のやり直しができるのなら、ヒトは全力で生きることをやめてしまうだろう。そしたら命の輝きなんてプラスチックにも劣る。


 起こり得ないとは思うけれど、もし私が間違った道を歩んだときにはわたしを殺してほしい。


 流されるように生きてきて、ヒトの命を奪う仕事をしているジェルアにはイマイチそれが分からなかった。もちろん、人間が過去に戻ることなんてできやしないから、余計にくだらない話に思えた。けれどそれは空想を生きるユナイスが現実に持ち越す信念のようなものだった。

 

 さて、暗殺者と小説家の奇妙な出逢いに、もうひとりの運命が絡むのはそれから数ヶ月以上もあとの話。

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