3章 記憶の中①
痛い、暗い、怖い、寒い、逃げたい、お腹が空いた、どうしようもない、怖い。街は焼けた死肉と血の臭い、集る蝿の音、悲鳴、哭き声で溢れかえっていた。
当時は「おい」とか「お前」とか呼ばれていたから、少女は自分の名前を知らなかった。街の人間は捕まるか殺されるかしていたから、少女は瓦礫の小さな隙間に隠れて、耳をふさいで震えていた。見つかれば酷い目に合うに違いなかったから、月明かりにさえ怯え、呼吸の音にも細心の注意を払っていた。
捕まれない、捕まるわけにはいかない。この歴史を知っているのは自分ひとりなのだから、と少女は飢えや恐怖に耐え、そうしてやっと生きてきたのだ。
ーー彼らにはいつか言わねばならない。
ふっと目を覚ます。海の底のような悪夢からようやく浮き上がってきて、ユナイスは、ほっと息をついた。ぐっと唇を噛む。冷や汗でじっとり濡れた寝間着が気持ち悪い。
「……必ず話すから、あと少しだけ……」
話さなければいけないこと、話したいことがたくさんあるのに、どうしても言葉にできない。ふらつく足をやっと立たせて、シャワーを浴び、着替えを済ませる。それからベッドの汗の始末をした。
朝食のパンを紅茶で流し込むようにして食べ、片付けると、ユナイスはペンを取った。
「……さて、何から書けばいいのか」
ユナイスは自身の"計画"のために手記を製作していた。なかなか進まず、資料を捲ったり、また全く関係ない本を取り出したりして右往左往している。
……向き合うのが怖いのだ。自分の過去に、歴史に、悪夢に、そして友人に。マリオネイティスが作り上げてきた平和こそが、今の日常を担っている。向き合えばその日常を壊すことになる。だから、ユナイスはまだ迷っていた。このまま、なにもしなければ壊れることはない。誰も望んではいない"戦争"。
「……はは、いつの間にこんなに弱くなってしまったんだろう。大事なものなんて紙とペンしかなかったはずなのに」
決心が揺らぐ。きっと友人たちを愛しく思えばこその迷いなのだ、これは。日差しの緩やかな午前の窓に、曇った表情のユナイスが映る。
――なんて似合わない空模様。
ユナイスには家族が無い。"戦争"ですべて亡くしたのだ。10年も昔のことであったが、ユナイスはその時のことを鮮明に覚えている。眠ればいつでもそれを悪夢に見た。死んだ家族が生き残ったユナイスを責めたり、兵士が追いかけてきたり、殺される夢だって見るものだから、毎夜毎夜冷や汗をかいて、息を切らして目を覚ますのだ。
「ユナイス〜! あそびにきたよ!」
ひょこっと現れたのは、サキァルだ。ユナイスは先程の曇りを一切払って、笑顔を作る。サキァルに続いてジェルアもやってきた。ユナイスは彼らの存在にいつも救われている。……この前のこともなかったかのように、3人は仲よさげに"友人"を続けた。
「いらっしゃい、サキァル、ジェルア。そうだ、この前サキァルに似合いそうだと思って買ったものがいくつかあってね。貰ってくれるかい?」
「えー、なになに? わぁぁ、ピアスとハンドクリーム! あっすごい良い匂いがする!ピアスも可愛い!! ありがとー! 嬉しいな! 付けていい?」
「ふふ、もちろん。……ピアス、わたしが付けてあげよう、ちょっと髪を上げてもらえる?」
「はーい」
サキァルの髪より少し暗めの緑で、大きめの飾りがチャリっと揺れた。
「うん、可愛い。飾りが大きいから、小さい顔がより小さく見えるね、似合ってるよ」
「ほんとー? やった!」
笑い合う二人の向かいに座るジェルアが、読んでいた本からちらっと顔を上げて複雑な顔をした。
「お前、この前はヘアピンで、その前はネイルチップに」
「はいはい、わかったわかった。別に私はサキァルに貢いでなんかないよ?」
そこで一旦言葉を切ったユナイス。ふっと口角を上げて堂々と言葉を発する。
「先行投資さ!」
「それを!!貢いでるって言うんだよ!!!」
はぁぁぁぁ、と大きな溜め息をついて、眉間を抑えた。ユナイスとサキァルが顔を見合わせてくすくす笑う。居心地悪そうにちょっと体を揺らすジェルアに、年相応さを見て、それがなんだかおかしかった。
「さて、わたしはまだ執筆するけど……お昼はどうする? ここで食べるならパンはそっちの棚だし、足りなければキッチンで何か作っても構わないよ」
「…………ユナイス、お前体調悪いんじゃないのか。朝来たときから思ってたけど」
「……まさか、大丈夫だよ。最近ちょっと眠りが浅くて……」
「お嬢。……顔、青いよ。スープくらいなら作れるし! 寝室行っておいでよ」
見抜かれると思っていなかっただけに、ユナイスは大きく目を見開いた。よく見ているなと感心すると同時に、大事に思われていることに少しだけ後ろめたさを感じながら、ユナイスは眉を下げて力なく微笑んだ。
「………うん、ごめん…」
「そういうときはごめんじゃなくて、ありがとうって言うんだよ。お前はまったく…」
「………そう、だね。ありがとう、ふたりとも」
「うん! スープ作って持ってくね、ジェルアもほら手伝って!」
「おー」
ジェルアとサキァルがキッチンに立つ。穏やかな空間。愛おしさが、涙となって溢れそうになって、ユナイスはそっとその場を離れ、寝室へ向かった。
瞳を閉じて、ゆっくり息を吐く。
マリオネイティスはもともとヴィオラという街だった。当時の王が断頭され、新しい王、新しい街が建った。ユナイスという名前は落ち着いた頃に彼女が勝手に名乗ったペンネームのようなものだ。本当の名前はすでに記憶の奥底へ葬り去られてしまっていた。
「私が幸せになるには……マリオネイティスの闇を……ヴィオラの真の歴史を……暴かなければならない……」
身体が震えた。
平和な街、高い青空、囀る小鳥、賑やかな人々の声、たしかにここは理想都市なのだ。風すら幸せを運んでいるように思えるほど。
こんな、街が。
「………私は憎い」
それと同じくらいこの街を……ジェルアやサキァルがいるこの街を、愛したくなってしまった。いつの間にか変わっていくことを恐れ、日常の裏に復讐心を隠してしまった。
「お嬢ー、寝ちゃった?」
「………いや、まだ起きてるよ」
「スープ持ってきたけど……食べれそう?」
「うん、ありがとう」
コーンスープとパンを盆にのせて、サキァルが静かに入ってきた。いつも元気そうな彼女が目を伏せる。
「………お嬢はさ……何、考えてる? 難しいこと、考えてるんだよね、きっと」
「そう……だね。でも、この街に来る前から決めていたことで……うん、少し、揺らいでるんだ。……今の幸せを失うのが怖い」
「……怖いなら、やめちゃえば良いんだよ。眠れなくなるくらい怖いなら、倒れるくらいつらいなら、そんなに悩むなら!」
「サキァル。………いいんだ。さっきも言ったとおり、決めていたことだから。もう少ししたら、ちゃんと話すよ」
今ならまだ計画を白紙に戻して、知らなかったことにして、今まで通り生きていくことができる。まだ引き返せる。
――それでも、少女は復讐の剣をとる。
「……おいしい。ジェルアにもありがとうと伝えておいてくれるかな」
「……………うん」
サキァルが持ってきてくれたスープとパンを腹に収めて、ユナイスは静かに眠った。不思議とそのあとは魘されることはなかった。意識が沈む中、これでいいのだと思った。これがユナイスが思い描いた世界。
そういえば出会ったのはいつだったか。ジェルアとユナイスが出会ったのはやけに明るい満月の夜で、サキァルとユナイスが出会ったのは日の高い真っ昼間。出会い方も正反対で、それでも彼らは仲良くなれたように思う。友情、という言葉は浮きすぎている気はするが、うん、友情だった。出会い方なんでどうでも良かったのかもしれない。この縁が続くなら、老いて死ぬまで……もしかしたら、来世も、友人として出会えたら、なんて夢を見過ぎかもしれない。
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