2章 カクシゴト②

 ヒトを殺した。犯罪に問われたことはない。きっかけがなんだったかも覚えていない。悪いことだとはわかっている。しかし好奇心や恨みなどで殺しているわけでもなく、かといって悪人への制裁などという正義を掲げているわけでもなかった。ただ、“仕事”だったから殺した。何の感情も湧かない。

 ジェルアは、仕事とプライベートは分ける主義だ。その、ヒトを殺す仕事に名前をつけるなら“暗殺業”だ。影のように闇に溶け、ターゲットを殺す。人の命より金なのかといわれれば別にそういうわけではないのだろうけど、ジェルアはどうしてかこの職から足を洗おうとは考えなかった。依頼人から金を受け取り、自分は殺すだけ殺してあとは解体屋に任せた。依頼してくる大半が金と権力を持っているからか、それらのことが世に出回る事はなかった。理想とされるこの街の平和が、どれほど嘘に塗れ、裏側に闇が蔓延っているのかを、ジェルアは知っていた。

 もちろんジェルアも、仕事は選ぶし、場合によっては依頼主側を殺すこともある。家族や、ユナイス、サキァルには仕事のことを打ち明ける気もないし、把握される気もなかった。


 さて、それはそれとして、自分の目の前に座るユナイスがいつになく話を聞かない。此処を訪ねた時、肝を潰した。ジェルアの表情を見ればなんと言いたいのかすぐわかるはずであったにも関わらず、ユナイスはそれを無視して、いつも通りに振る舞った。

「————は、——であり、つまりそれが何を意味して」

「ユナイス」

「誰にもわからな」

「ユナイス! ……話を聞け」

小説の話をしていたユナイスの言葉を遮る。少しだけ荒げられたジェルアの声にもユナイスは動じない。至って静かだ。

「……どうしたんだい? そんなに声を荒げて。珍しいね」

小さく首を傾げるユナイスを思わず睨む。視線を手首と、首元にやった。服の裾から覗く手首には少し血の滲んだ包帯が巻かれている。首元にも、包帯。

「……自傷かい? いつものことだろう」

「手首は知ってる。……その首は、何だ」

「やっぱり包帯なんて大袈裟かな? 血が出てるわけでもないし。気になるようならハイネックの服に着替えてくるよ?」

「そういうことじゃない! ……何をしたんだ。切ったのか」

ユナイスは困ったように眉を下げた。それから下を向いて、紅茶を一口啜った。

「おい」

「……わたしが自傷を日常的にするとはいえ、首だよ? 首を切ったなんて、恐ろしいことを考えるねぇ、キミ」

 ユナイスが茶化す。彼女の自傷癖も知っていたが、暗殺者であるからこその発想でもあった。ヒトを殺す時、よく喉元や首を狙う。

「茶化すな。……いいから答えろ」

「……吊った。吊ったんだよ。紐の結び方を調べて、本当に吊れるのか、試した。紐とか、縄とかの代わりにリボンを使った。リボンをハサミで切った時にはもうこの有り様さ。首に食い込んだり、皮膚が擦れて剥けたり、跡が付いたり。それだけさ」

 なにも返す言葉が浮かばない。ユナイスは死にたがっているのだろうか。ジェルアが黙っていると、ユナイスは気を取り直すように声を掛けた。

「……さて! サキァルは、まだ治らないみたいだね。長引いてるのかな」

「…………さぁ、な……」

ジェルアの表情はまだ硬い。ユナイスが小さく苦笑した。

「ふふ、もうやらないよ。吊った時は苦しかったし、力を抜いてもわたしの体重でほら、リボンが下がるじゃないか。それを考慮しなかったからリボンが思いの外長くて、数分くらいで爪先が崩した本の上についてしまったし。記憶が飛んだのは少しの間のことだよ。スカートのポケットの中に入れていたハサミでリボンを切ったらもちろん落ちて痛かったし、資料も本も滅茶苦茶だ」

 わざとらしく肩をすくめて見せた。ジェルアはしばらくユナイスのほうをじっと見つめていたが、諦め半分に、少し声を低めた。

「……なにを考えてるのかは知らないが、死ぬなよ」

「死なないよ、わたしは」

ユナイスはどこか遠くを見ていた。思考の読めない表情でぽつりと言葉を零す。

「わたしには、為すべきことがある」



「じゃあ、今日は帰るからな」

「うん、気をつけてね」

 ユナイスは死なない、と言った。それがどこまで本当なのかはわからない。為すべきこと、というのもイマイチよくわからない。為すべきこと……それを為すまでは死ねないのか、それを為したら死ぬのかもわからない。ユナイスの考えはいくら読もうとしても読めなかった。

「……説明書でもあればいいのにな」

 足元に転がっていた小石を蹴飛ばす。今日の仕事は、依頼主に会って来ることだ。それから話を聞いて、相手の情報を貰う。リスクも考えた上で報酬の話をする。交渉がうまくいけばいいが、決裂することもある。だから、人と会って話をするのは苦手だった。憂鬱な気分になる。

「あー……面倒くさい」

 淀んだ空を上げた。そのうちにぽつぽつ大粒の雨が降り出した。あ、傘をユナイスのところに置いてきた。ついてねぇな、とジェルアが小走りになりながら呟く。

 しばらく走ると、依頼主の家につく。赤いレンガ造りの家だ。ノックをすると中から女の返事が聞こえた。中に入ると、まだ若い女が椅子に座って外を眺めていた。スカートの袖や裾から包帯が覗く。ユナイスのことが頭をよぎったが、目の前の女性はユナイスとは全く違う。とても弱々しく、食事をちゃんとしているのか疑うほど細身だ。しかしその腹は膨らんでいる。彼女は妊娠中らしい。

「……依頼の件だが」

「はい……その、私の夫を……殺してほしいのです。……あの人の、基本的な情報は、こちらにあります。報酬も……」

 大きめの紙封筒には確かに男、つまり彼女の夫の情報と、札の束が入っていた。

「……確かに請け負った」

 それだけ言って、帰ることにした。居心地が悪くて、何より彼女の目があまりに悲痛な訴えをしていて、それから逃げたかった。自分は、誰かを救える人間ではないし、善人でもない。縋るようなあの目……。

「俺は、面倒ごとは嫌いなんだよ」

 外ではまだ雨が降り続けている。明日、ユナイスのところに取りに行かないといけない。強くなった雨の中を足早に進む。悪い視界の中、やけに明るく感じる照明に照らされたショーウィンドウの前を走り抜けたとき、黒い服、黒い傘の少女の影を見た気がした。


 ——キミは、そうして“何”になるんだい?


 足が止まる。後ろを振り向く。視界には雨の激しさと照明の明るさ、影の暗さしか映らない。服はすでに大量の雨水を吸い込んで重くなっている。ああ、早く帰ろう。あの影も話しかけてくるのも幻だ。疲れていて、だからそんなものを見る。冷たくなってきたな、早く体を温めよう。ジェルアはまた駆け出し、帰路に着いた。家まであと少し。

 走り出したその瞬間、聞こえた言葉は一音一音切れて聞こえた。


——ひ と ご ろ し


 ……はやく風呂に入って眠ろう。




 「人殺し」

 そう言ったユナイスは笑っていた。ジェルアは、昨日忘れた傘を、午前中のうちに取りに来たのだ。

「……なんだ、いきなり」

 内心はヒヤリとしていたが、マスクのおかげで、そうそう表情を悟られることはない。普段通りにソファーに座る。

「いや、特に何かはないんだけどね」

「通り魔があったんだよ!」

 ひょこっと向かいのソファーの後ろから最近見なかった顔が飛び出してきた。サキァルだ。

「通り魔? ……ソファーの後ろでなにしてたんだ……」

「なんだ、あんまり驚かないね。おれは通り魔だって聞いた時びっくりしたのに! 此処、治安すごーくいいのに珍しいよね」

 自分の答えたいところだけ答えて、サキァルはジェルアのむかいのソファーに座った。ユナイスはサキァルの隣に座る。紅茶とココアと菓子がテーブルの上に置かれた。

「……風邪は治ったのか」

「ふぁふぉっふぁ! ふぁーんふぇふぃ、ふぉふぇふふぉふぃふぁふぁ!!」

 口にお菓子を頬張ったままもごもごと口を動かしているが何を言っているのかわからない。

「『治った! カーンペキ、だっておれつよいから!!』……だってさ」

 ユナイスがさらっと訳す。ジェルアはなんでこいつ訳せるんだという顔をしつつ、サキァルの回復は素直に嬉しい。

「治ったならいいが。偏食ばっかりしてるから風邪を引くんだ」

 サキァルが口の中のものをゴクンっと飲み込んだ。ジェルアに抗議するように頬を膨らませる。

「そんなことないー! おれは健康体だもん!」

「風邪を引いたのはどこのどいつだよ」

「ここのおれですけど!! なにか文句あるんですか!!」

 様子を見ていたユナイスが声を立てて笑った。可笑しそうに腹を抱えて、肩を震わせた。そんなに面白いことはなかったように思う。ただ、仲のいい二人がくだらないほど小さな事で軽い言い争いをしただけだ。

「ふふふっ、今後しばらくは手洗いうがいの徹底だねぇ。ジェルアも気をつけるといいよ」

「……そうだな」

 ジェルアの思考は、すでに今夜の仕事の話に移っていた。夫を殺してほしいという、あの婦人は、これで解放されるのだろうか。

「……通り魔かぁ。私のところに来てくれないかなぁ。話を聴きたいね、是非」

 ユナイスが微笑みながら言った。ジェルアは呆れ半分に言葉を返す。

「それは通り魔じゃないだろ……だいたい、こんな仕掛けのところ、来れるとは思わん。それに」

「それに?」

「……お前なんかと出会った奴は、殺人犯だろうが強盗だろうが、逃げ出したくなるだろうよ」

 ジェルアが真面目な顔をして言うものだから、ユナイスもサキァルも妙に可笑しくなって顔を見合わせて笑い出した。

「あっははは、キミ、そいつぁ失礼な話だ、わたしは只の少女だっていうのに!」

「お嬢なら大丈夫だよ、はははっ、みんな逃げ出すって、あはは」

「サキァルまでなんだいなんだい、もう、失礼だなぁ、あははっ」

 二人が揃うとやっぱり喧しいな、とジェルアは呆れた。だが、その口元はゆるりと弧を描いている。サキァルがいなかったから、ようやく三人がそろって、嬉しかったのかもしれない。


 やがて時間が過ぎると、各々が帰り支度を始めた。ユナイスが見送りをする。片手をあげるジェルアと、手を振るサキァル。扉が閉まり、手を振り返すユナイスが見えなくなってから、ふたりもそれぞれの帰路につく。

 ジェルアはサキァルと反対方向だった。一旦帰り、資料を確認する。しかし、雨で濡れたせいでインクが滲んでいて読めない。顔写真は確認できたし、あの婦人と同じ家で生活しているようだったから問題ないだろう。黒いナイフをパーカーのポケットに入れ、マスクをする。


 ——ひ と ご ろ し 


 無事、依頼を完遂すると、また少女の声が聞こえた。家に帰った後だった。声に、ジェルアは表情を動かすこともなく、そうだなと心の中で返した。シャワーを浴びて、着替えて、ベッドに腰を下ろす。人を殺して金をもらう仕事。暗殺者。ナイフで、何人も何人も殺している。手馴れるくらいには。


 ——わたしは殺してくれないんだね。


 「殺せるか、馬鹿」

 今度は口に出した。薄い唇が少しだけ震えた。自殺を仄かされたから、こんな幻に襲われているんだろうか。

「俺にお前は殺せない」

 過去、何回か仕事で殺そうとしたことがある。しかし、どれも失敗に終わった。友人という関係になる前でさえ、殺せなかった。どうしてだったかは今もわからない。

 ジェルアにとって少女——ユナイスは、受けた仕事で唯一殺せなかった人物だった。

 ベッドに横になると、もう少女の声も聞こえなくなっていた。まぶたが重い。瞳を閉じた。

「……誰にもお前は殺せねぇよ」

 そこまで口に出して、あとは眠りに落ちる。


 ユナイス、お前はきっと寿命で死ぬさ。歳をとっても小説を書いて、死ぬ間際もきっと本を読んだり、文字を書いたりしてるに違いない。それが一番いいと思っている。


 遠い未来の話だが、想像に難くないんだ。


 いつか訪れるはずの未来は、想像より遥かに遠く、しかし手の届きそうなところにある。誰が望んでも望まなくても時間は進み、季節は巡る。

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