2章 カクシゴト①

 ジェルアは妙な胸騒ぎを感じていた。ユナイスは時折、何かを隠すような笑みを浮かべる。奇妙に歪んで見える。先日、ユナイスは何を言いかけたのだろう。

 もちろん、誰だって秘密のひとつやふたつを抱えているものだ。友人や、親にも言えない、自分だけの秘密を。だから、深入りはしない事にした。向こうのタイミングに任せる。

 ジェルアにも秘密はある。彼にとっては自分の仕事こそが、まさにその秘密であった。

「ジェルアの仕事は基本夜だよね? 日中はよくわたしのところに居るし……ちゃんと寝てるかい?」

 ユナイスが首を傾げる。……いつも通りだ。歪んだあの繕った笑みは欠片も見えない。

「……そんなに難しい仕事じゃないし親の手伝いだからな。しっかり寝てるし、俺は健康体だよ」

「そう? ならいいのだけどね」

 今日はサキァルがいない。どうやら風邪をこじらせて、寝込んでいるらしい。

「前から少し体調悪そうだったからね。こうなるとは……少しは思っていたけど。心配だなぁ」

 ユナイスがミルクティーをふたつ淹れてきた。ひとつをジェルアの前に置き、もうひとつはジェルアの向かいの自分の側に置いた。

「ミルクティーで良かった? レモンティーが良ければ淹れ変えるよ?」

「いや、いい。頂きます」

 甘さ控えめのジンジャークッキーがテーブルの上に置かれた。

「風邪は、外では流行ってるのかい?」

「まぁ、少しな。咳をしてる奴らも、マスクをしてる奴らも増えてきたようには思う。……やっぱりマスクは欠かせないな」

「ふふっ、マスク星人がキミ以外にたくさん増えてるって考えるとなんだが面白いね」

「なんだよマスク星人って……」

 ジェルアが顔を顰める。

「さぁ? さっき考えた。ふふっ、キミの方がわかってそうな気がするけどねぇ」

 茶化すように笑った。相手にするのもバカらしい、とジェルアは無言で返す。

「……はぁぁ。文才ほしい……。……上手くいかない……数枚、紙を無駄にした」

 先程の様子とはガラッと変わり、忌々しげにため息を吐くユナイス。確かに作業用のテーブルの上には薄くバツが引かれた紙が何枚か無造作に散らかされている。

「今はどんなやつを書いてるんだ?」

 ユナイスがチラリとジェルアを見る。小さく唸ってからため息をついた。

「この前、キミと話しただろう? 悪人を殺す怪物の話」

「あったな」

「……彼が“そう”なったきっかけを考えていてね。あぁ、そういえば、この話の殺人が起こるのも“地下街”だけど、“あの噂”は鎮火したんだろうか?」

「さぁな……サキァルが元気になったら聞けばいいだろ」

「そうだね。……ねぇ、もしもさ。もしも、今の平和が壊れるとしたら……そして大きな不幸が街を、キミを、襲うとしたら、その元凶は滅ぶべきだと思うかい?」

「……なんの、話だ」

 ユナイスは目を合わせない。その問いが何を意味するのか、どんなことを想定しているのかはその表情からは読めなかった。ユナイスはこの街で何か大きなことをする気なんだろうか。ジェルアは何でもないフリをして言葉を紡ぐ。

「…………はぁ……その不幸の内容にも依るだろ。程度にも依る。“大きな不幸”って漠然としすぎてるんだよ」

 わざとらしいため息と、それに合わせた身振り手振り。焦ってるのがバレたのではと少しヒヤッとしたがユナイスに変化はなかった。

「……そうか。そうだよなぁ……不幸の基準も人それぞれであるしなぁ。うん! 実のところわたしも、漠然としたところしか考えていなかった!」

「お前なぁ……」

「あはは。まぁまだしっかり土台が固まってないからね、頑張らないと」

 ユナイスはそう言って、ぐーっと伸びをした。小さく節の鳴る音がした。

「……お前も、無理はするなよ」

「しないよ、大丈夫。わたしはいつでも自分主義。自分の気に入るようにやるさ」

「そうか。なら、いいんだが」

 それからしばらく、ユナイスの小説の話をした。章の構成や、話自体に矛盾した点はないかの確認や活かしたい人物がいるが動かしづらいとか、そんな話だ。たまに脱線するものの、その中で使えそうな事があればメモをして、うまく取り入れられないかなあとユナイスがぼやく。そこから更に話を深掘りしたり、盛り込んでいったりして、土台を固めていく。

「……今日は少し早いがもう帰る」

 気づけば時刻は午後4時。ジェルアが席を立つ。

「何か用事かい?」

「まぁな。……それじゃ、またな」

「うん、またね。気をつけて」

 ユナイスは微笑んだ。扉が閉まり、ジェルアの姿が見えなくなると、その表情がスッと消えた。そのあと、作業用のテーブルの隣に置かれた電話機で、何処かに連絡をとる。

「……もしもし。例の件だけど————」


 ポケットから一枚の写真を取り出す。小さく息をついた。フードを目深に被る。午後10時半だと言うのに、人の足は絶えず、街の明かりもまだ賑やかだ。“それ”は雑踏に紛れて進む。人が多いと言うのはなかなか苦手だ、と肩を竦めたくなる。浮かない顔のまま

 道を逸れ、しばらく歩くと、古い屋敷が見えた。陽はもう落ちていて、森に囲まれたこのあたりは鬱蒼としている。遠くに、雲に霞む月が見えた。時刻は午後11時50分。一見すると廃墟にも思えたが、二階の一室に灯りが灯っている。“それ”は歩みを緩めて、大きな扉を押し開ける。普通なら軋む音がしそうなものだが、上手く音を立てずに中に入る。よほど手慣れているのか足音のひとつもしない。

 階段をゆっくり上がっていく。光が漏れている一室に近づく。隙間から中の様子を伺う。ひとりの男が窓際で絵を描いている。男はそこそこ有名な画家だ。鮮烈な色をキャンバスに散らかしていく。何を思って描いているのかはわからないが、本人曰く心象らしい。部屋に侵入する前に、一度だけ、静かに目を閉じた。


 しばらくして“それ”が屋敷を去ったあと、人影がひとつ。前者の姿が完全に見えなくなったのを確認すると、白い手袋をはめ、屋敷の扉を開ける。軋む音が鳴った。

「っ……!」

小さく息を呑んだ。誰かが降りてくる気配はない。様子を確認しながら、階段をのぼる。掃除がしっかりなされているらしく、埃っぽさはない。

 一室から明かりが漏れている。ゆっくり部屋の中へ足を踏み入れる。床に散らばった絵具は、既に乾いていたが、踏まないように気をつけて歩く。

 部屋の窓側。大きなキャンバスに描かれた抽象画は未完成だ。乾ききっていない大きな赤が散らばっている。乾けばきっと、赤は黒ずむだろう。そして、そのキャンバスの前に、椅子に座る男。足元には赤黒くぬるっとした水溜まりができている。その液体は男の喉元と心臓部から溢れ、服の裾から滴っている。座ったまま、物云わぬ肉塊と化した男を静かに見つめる。確か少し名の知れた画家ではなかったか、と記憶の中に男を見つけた。何か言おうとするが、言葉が出ない。死んでしまったこの男に、例え声をかけたとしても、届きはしないだろうに。開かれた窓から夜風が舞い込んだ。鉄臭い風だった。


 真夜中、時計は午前2時を少し過ぎた。ユナイスがひたすら文字を書いている。なにか、資料をまとめているようだ。万年筆の音がカリカリ鳴っている。40〜50歳くらいの小太りの男の写真の隣には、自宅・深夜・刃物と日付など小さいメモがされ、その男の名前、職業や誕生日、血液型、人間関係などが記されている。そのほかにも何人、いや、何十人かの人間の情報が男女問わず同じようにまとめられている。


 ——60代男性、古い屋敷、深夜0時前。


 新しく追加されたらしい情報には、少し名の知れた画家の写真が貼られている。

「……彼の作品、なかなか好きであったのだけどなぁ。……勿体ないことをしたものだ」

資料をファイリングし、資料用の本棚に仕舞う。そこでようやく息をついた。

 部屋に戻ると、天窓から月明かりが差し込んでいた。ユナイスはつけていた電気の明かりを消して、青白い光を浴びた。太陽とは違う静かな冷たい光。ユナイスは静かに目を閉じる。今は静かな夜だ。昼間と違って犬の鳴き声も車の音も馬の走る音も聞こえない。人の声も、聞こえない。誰もが眠りにつく深夜の、凍りつくような青白い冷たい月光。客人用の2人掛けソファーに横になった。そのまま月に手を伸ばすが、遠くの月はそれを嘲笑うように時折り雲に隠れ、また姿を現す。

「……怪物は————」

 刻々と時間は過ぎる。気がついた時には朝が近い。月はもう天窓から見えなくなっていて、代わりに明るみ始めて色を変えた空がまだいくつかの星を残したまま見えた。

 ユナイスは起き上がり、刃渡り10センチほどのナイフを作業用テーブルの引き出しから取り出す。綺麗な刺繍のハンカチに包まれていた。赤い汚れがついている。少し錆びたようではあるが、刃はまだ鋭い。手首にそれを這わせて皮膚を裂く。つぅ、と血が滴る。

「…あはは……もう、痛くはないんだね。わたしはどうしたらいいんだろう。キミたちに話したいけど、話したくないことがあるんだ。隠し事が。……成し遂げなきゃ、いけないことが。どうしても、なんだ。まだ、まだ言えないけれど、協力してくれたら嬉しい」

 血がテーブルに垂れる。独り言を呟きながら、ユナイスが何本も何本も手首に線を増やしていく。次第に深くなっていく傷。幾重にもなって、見れば顔をしかめたくなるほどのものになっていた。これは跡が残るなぁとユナイスが小さくぼやく。

「わたしは、知ってしまったから。自分のことも、キミのことも」

血を流したまま、少し上を見上げ、どこか悲しげに眉を下げた。口元には歪んだ笑みが浮かんでいる。

「ヒトは誰かが云うほど強くない。脆さ故の強靭さもあるけれど、死は皆平等だ。それが他人の手によって早められたとしても、“死”という結末は変わらない」

 天窓の下に移動する。ユナイスはそこから見える明るみかけた空を見上げ、よく知る少年の名前を口にした。

「なぁそうだろう? ————ジェルア」

開けない夜も沈まぬ太陽もありはしない。ユナイスもジェルアもサキァルも、誰も知らないところで、どこか狂った歯車が動き出す。

 ユナイスはすこし愉しげに、作業用のテーブルに上った。本を数冊積み上げて足を乗せる。それから赤いリボンの端を首に巻いて、天井近いところのフックにもう片方を結びつけた。


 ——顔を歪ませ、足場の本を崩した。


 宙に浮いた足が力なくふらふらと揺れていた。

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