1章 くだらない日常④
ユナイスが新聞をめくっている。それはサキァルの持って来たものである。
あの雨の日から幾週か経った日の穏やかな午後だ。天窓から柔らかな光が差し込んでいる。ジェルアもサキァルも、もう何度となくこの部屋を訪れている。暇で、出かける気力があって、やることもないような時になんとなくで来てしまうのだ。この部屋の主人のユナイスは基本的に外出をしないために、急に訪ねてきてもだいたい室内にいる。ジェルアもサキァルも門前払いされたことはない。それこそ、いつでもと言っていいほど、ユナイスはふたりを快く部屋に招いた。
「新聞というのはある一種の小噺のようで面白いよね。いろんなことが載ってるね、また。毎日は気が滅入るけどたまに読むのはいいかもね。新聞は本当に面白い。この文の中に詰まっている情報量と言ったら! 世間のあることないことが書いてあるし楽しいね」
「いや、ないことは書けないだろ」
ジェルアが思わずツッコミを入れる。
「なんだ、ないことは書いてないのか……。私、外に出ないから、外の出来事は物語のように思えてしまってね。遠い世界のあることもないこともわたしにとってはフィクション同然なのさ」
「……俺が言うのもなんだが、お前もう少し外に出たほうがいいぞ。あと近場で起こってることだからな? 遠い世界の話じゃねぇしフィクションじゃないからな?」
ジェルアが少し呆れて言っても、ユナイスへの効果は薄い。1ヶ月に1回外に出ればいい方だという。ジェルアの注意も彼女は笑って受け流す。新聞をたたんで、作業用のテーブルから移動し、サキァルの隣に腰を下ろした。今日もテーブルの上には紅茶とココア、それからお菓子が置かれている。甘いものから塩気のあるものまでたくさんあった。ユナイスの飲んでいる紅茶からは普段と違うの匂いがした。ジェルアにはいつも通り、レモンティーを出している。
「今日はカモミールティーなんだ。匂いが苦手って人もいるから、嫌なら言っておくれ」
ユナイスがひとくち大のアイシングクッキーをひとつ手にとり、ぽいっと口の中に放り込む。ジェルアもサキァルも、別に匂いは嫌いではなかったから、何も言わなかった。
「あ、そうだそうだ。ねぇねぇ、お嬢もジェルアも“噂”知ってる?」
ふと、サキァルが言った。
「噂?」
ユナイスがジェルアに視線を移したが首を横に振られた。サキァルに視線を戻し、小さく首を傾げるユナイス。
「どんな噂なんだい?」
サキァルは少し困ったようである。うーん、と少し唸って眉を下げる。
「それがさどうにもこうにも分からないんだよね。おれも人から聞いた話だし」
その、サキァルが聞いた話によると、噂の全容はおおよそ、このようなものであった。
この街、マリオネイティスには誰も知らない地下街というのがあり、そこで何人もの人が殺されているらしい。殺されているのは老若男女関係ないらしく、しかし殺しの犯人がどのような人物かはわからない。さらに、地下でなく、この地上で起こった殺人も、表社会に出ないように、地下にその死体の多くが投げ捨てられているのだとか。
「ずいぶん曖昧だな……」
「そりゃ、噂だからね。でもさ、この噂、なんか広がってるみたいだよ? この前は武器商とか、薬品商も言ってたし……今日は果物の卸売商が……」
「ふむ……何人もの人が、ね。殺人鬼でも潜んでいるのかなぁ、あるはずのない“地下街”には。まったく、恐ろしいことだね」
ユナイスは、どこか愉快そうだった。
「そんなに多くの殺人を起こすだなんて、ほんとに恐ろしいよ。人殺しであるなら、表にだって証拠が少しくらい出てきたっていいだろうにねぇ。性別も年齢も不明……噂にしたって、素晴らしいことじゃないか」
「…………殺人犯を褒めるなよ。下手したらお前が疑われるかもしれないんだぞ? ……もっとも、俺も聞いたことがなかったし、表にも出てない、証拠も上がってない“噂”だが」
「おや、心配してくれるのかい? それはどうも! でも私はここからほとんど出ないからね、裏も表も外もまったく関係ないのさ! 話は聞いて想像するだけで充分楽しめる! 噺を創り上げるのは、いつだって現実をちょっと混ぜ込んだ想像と法螺話だよ!」
まったくどうしてユナイスはいつもこうなのか。こちらが心配してもそれすら飄々と受け流して、他人の言うことなど聞ききやない。ジェルアの呆れ気味の心配も、彼女にとってはどうでもいいことなのだろう。彼女は彼女の世界の中で生きている。サキァルはユナイスの話に特に関心を示すわけでもなく、
「このお菓子美味しい!」
とまったく関係ないことを口走っていた。マイペースというか、なんというか。
「気に入ったかい? ならそのお菓子買い足しておこうかな」
「……サキァル、お前も表側の仕事だけ受けるようにしたらどうだ? 裏は、危ないだろ。噂が落ち着くまででも……」
「危ないのは確かに嫌だけど! 死ぬようなこと起こるかなぁ。ただの運び屋に。違法物とか運んでるけど。ま、大丈夫でしょ!」
こいつらを見てると頭痛がしてくる、と頭を抱えるジェルアをよそに騒いでる張本人たちはいまだ笑みを浮かべている。
「まあたかが“噂”だし」
「されど“噂”とも言うかもよ? サキァル、一応気をつけようね、事故とか起こさないようにするんだよ?」
「うん、わかってる〜。事故は怖いもんね」
「…………本当に大丈夫なんだろうな」
不安しかない、とジェルアの眉間にしわが寄る。サキァルはカラコロと笑い、ひとくち大のチョコレートを口に放る。咀嚼したあとジェルアに大丈夫だよと言った。
「だぁってさ、おれあんまりリスク高いのには手を出さない主義だし。ローリスクハイリターンなら喜んでやるけどそんな都合のいい仕事あるわけないしねー。ちゃんとやる仕事は選んでるよ! 上手にやってるからだいじょーぶ! へーきへーき」
「ジェルアは優しいよね。仲間思いというか、身内に甘そう。わたし達にもなんだかんだ甘いしさ」
「……んなことねぇよ」
基本的に、ジェルアは誰に関しても、何に関しても、自分に被害が及ばなければ無関心というスタンスだ。下手に関わって面倒なことになるのはごめんだし、ふたりのことだって、あまり関心があって一緒にいるわけでもなかった。なんとなく、なのかもしれない。だからジェルアは、自分には優しいとか甘いとかの類は縁遠い言葉だと思っている。
「そうかな? キミは甘いよ。さっきも言った通り、キミはわたし達に関しては特別甘い気がするなぁ。他の人のことは知らないけど、キミの性格からするに、他人との接触を避けたがる、関わりを持ちたくないようには思うけどさ。だからこそかな、身内や、仲良くなった人へは甘い」
ユナイスが微笑む。彼女にしては随分と穏やかな笑みで、“大切なもの”を愛でるような、そんな表情だった。嫌ではないが、むず痒いような居心地の悪さにジェルアが少し顔を顰めて身動ぐ。それは、一般的にいう照れのようなものだったのかもしれない。
「私はあまり外に出ないから、危険が及ぶなんてことはないに等しいけれど、サキァルだけじゃなくて、ジェルア、キミも気をつけるんだよ? 殺人鬼なんて、いつ、どんな理由で現れて、殺しに来るのかわからないのだから。キミたちが殺されて“地下街”に消えてしまうのはわたし、嫌だよ?」
「物騒なこと言うんじゃねぇよ……俺だって殺されるのは御免だ。……そうだな、まあ気をつけとくよ」
「うん、是非、そうしておくれ」
そう言いながら微笑み、ティーポットを手に取るユナイス。ジェルアのカップに紅茶が新しく注がれる。紅い水面が揺れた。
その後、しばらくまたくだらない話や仕事の話をしたり、読書や執筆、小さな落書きなど各々好きなことをした。飲んだり食べたりしながら、心地いい空間の中でその日を過ごす。ユナイスも、ジェルアも、サキァルも、この時間が好きだった。ゆっくりなような、しかしすぐに過ぎてしまうような。昼間は、ユナイスが昼食を準備し、ジェルアとサキァルがその手伝いをした。午後はまた好きなことをしたり、気づけば3人とも転寝していたりして過ごした。
「ん……あぁ、寝てたのか。時間……午後4時半か。ジェルアとサキァルは……寝てるや。起こさないとなぁ」
軽く伸びをし、目をしっかり覚ましたユナイスは、作業用のテーブルで枕の代わりにしていた資料を片付けた。ジェルアはテーブルの上に突っ伏し、サキァルは2人掛けのソファーに横になってまだ眠っていた。サキァルはまだしもジェルアは夜が仕事の時間らしいから、起こすのは心苦しいが起こさないと、とジェルアの肩を軽く叩く。
「ジェルア、起きたまえよ。キミ、今日も仕事だろう? ほら、もう夕刻だ。帰らないと、仕事に支障が……」
「ん…………」
「ジェルア!」
声を掛けても起きないジェルアに、ユナイスは少し声を大きくした。
「っおぅ!? ユナイス……? びっくりした……今何時だ? 夕方……?」
「今は午後4時半を過ぎたくらいだよ。最近眠れてないのかい?」
「いや、普通に寝れてる。そろそろ帰らねぇといけない時間だな。起こさせちまって悪いな」
「いや、それは構わないのだけどね。キミも仕事に遅れては大変だろうから。……サキァルいつ起こそう」
「ついでだ、今でいいだろ」
「ふぁ……おはよー」
声をかける前にサキァルが目を覚ました。おはよう、と返すユナイスと、もう夕方だぞと呆れるジェルア。サキァルは、ふたりのことは気にせず、ぐーっと伸びをした。
「そろそろおれも帰る〜」
「そうだな、俺も仕事だ。帰んねぇと」
「ふたりとも気をつけてね」
「うん!」
「おう」
ユナイスが先ほどとは違った様子で、部屋を出ようとしていたジェルアに話しかけた。
「……あのさ、ジェルア、キミは…………。いや、やっぱりなんでもないよ。仕事、頑張ってね」
ユナイスは少し逡巡したが話題を打ち切るように首を振ってそう言った。無理やりに作ったような笑みはどこか歪で、奇妙だった。訝しげな顔をしたジェルアだったが、頷いただけで、それ以上深入りはせずサキァルの後に続いて部屋を出る。ユナイスの瞳に昏い影が宿ったのを誰も知らないままでいた。誰も、何も知らないまま、時間は過ぎていく。
「嗚呼…………憂鬱だなぁ」
ユナイスの吐いた言葉は、不穏さを孕んで、空気に溶けて消えた。
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