1章 くだらない日常③

 夜。あたりは静けさに包まれている。ユナイスはシャワーを浴びながら自らの身体に手を這わせた。二の腕や手首に幾つかの切り傷がある。彼女には自傷癖があった。しかし止まらないほどの血を流したことは一度もない。軽く刃を滑らせ血が滲む程度でよかった。多少深く切っても細胞が頑張ってくれているおかげですぐに血は止まってしまう。シャワーのお湯が傷に沁みるが、顔をしかめるほどでもない。ユナイスは無表情だった。

「…………はぁ。楽しかった分寂しさを感じるよ。まったく困ったものだね、ははは」

 乾いた笑いが漏れた。普段のユナイスからは想像もできないような笑い。さらさらしてすぐこぼれていく砂漠の砂のようだ。3人の関係に一番依存しているのはユナイスかもしれない。

 シャワーのお湯を出しっぱなしのまま、ユナイスは座り込む。薄桃色の髪は濡れ、水を吸って重そうだ。ラベンダー色の瞳はどこか虚ろで硝子であるとか人形の瞳であるとかを思わせる。しばらくそのまま動かないでいたが、ふと正気に戻ったような顔をした。

「あぁ……いけない。もうそろそろ上がろう。うん、身体も綺麗にしたことだし、夜も遅い。眠ろう」

 ふらりと立ち上がってシャワーのお湯を止める。覚束ない足取りのまま浴室を出て行った。ぽたぽたと水滴が落ちて小さな水溜りの足跡を作る。ユナイスはバスタオルで軽く身体を拭いてベビードールランジェリーに着替えた。それから床の水滴を拭き取り、洗濯カゴに放る。髪の水滴をランジェリーが吸い込み、しみをつくる。髪を乾かす気力はなかった。寝室のベッドに倒れこむとそのまま動かない人形のように静かに眠った。深く深く眠る。夜、1人の時には自分の価値について答えなく考えてしまう。深海に沈んでいく宝石(使い道・使い手のない紙幣がただの紙であるのと同様に、ある意味ではガラクタともいえる存在。)のような気分だった。


 朝になると、自然と目が覚めた。肌寒さを感じてカーディガンを羽織る。朝の6時半だ。ザァァァ、と雨の降る音がする。結構な雨量だ。さて今日はどんな服がいいかな、とユナイスが笑みを浮かべる。ジェルアはもう起きただろうか、サキァルはまだ夢の中かな、などと考える。服を着替え、軽食を済ませると、作業テーブルに着く。資料を見ながら街並みや世界観をより深く設定していく。細かく練るが文章にするときの表記は少し簡素で、読者の想像力を削らないように。この話を読む誰かを想像して、口元に弧を描く。

「……あー、文才が欲しいなぁ」

 万年筆を置き、代わりに自分の作った本を手に取る。もう世に出てしまったユナイスの作品。パラパラとページをめくると嗅ぎ慣れた紙とインクの匂い。自然と頬が緩む。

「あぁ、愛しいわたしの作品たち。いろんな人たちの手に渡り、広がり、大事にされていることだろう」

 どの作品もユナイスにとっては思い入れがある。出来上がった作品は、一番最初にジェルアに読んでもらう。もちろん作品の好き嫌いはあるから、読みたいと思ったものだけを最後まで読んでもらうのだ。

「……あっ!今日は彼女と出かけの約束をしていたのだった!早く出ないと!遅刻はあまりよろしくないよね!」

 大雨の日、街はどうだろうか。人々の往来は少ないだろうか。よく中央の公園や大きな道で芸を披露しているピエロたちは今日はお休みかもしれない。時刻はいつの間にか午前10時を回っていた。ユナイスは荷物を持って部屋を飛び出して行った。


 ジェルアが起きた時、すでに大粒の雨が空から降り注いでいた。太陽の光を遮る分厚い黒い雲。仕事は夜だ。時間はまだまだある。時刻は11時を回った。

「……外にでも行ってみるか」

 ただ単に気分だった。雨はあまり好きではない。でも晴れも嫌いだ。一番好きな天気は曇り、だろうか。暑くも寒くもないくらいが1番いい。軽く出かける準備をして、外に出る。雨の匂いがする。少し大きめのビニール傘をさして、街へと繰り出した。

 雨の街は随分大人しかった。晴れの時とは違う街の鬱屈とした雰囲気と、ショーウィンドウの明かりが漏れている様子は、別の街にいるような錯覚に落ちそうになる。雨の中に見知った顔を見つけてジェルアは立ち止まった。

「…………雨の中何してるんだ、あいつ」

訝しげに呟く。独り言だ。傘が雨を弾く音にその声はかき消される。……が、まるでその声が聞こえたかのように、少女が振り向く。少女の空間だけ、どこか浮いているように見えた。ラベンダー色と目が合う。

「やぁ、こんなところで、こんな雨の日に出会うだなんて……偶然、いや、必然かな?」

「…………ユナイス」

「雨の街はずっと静かだ。雨の音というのはヒトの騒がしさよりは幾分音が少ないね。嫌いじゃないよ、こういうのも。雨は好きだなぁ。特に理由はないけどね」

 大きめの黒い傘にはフリルがついている。今日の服装も黒で統一されている。フリルやペチコートも黒かった。ゴシック系というのだろうか、ああいう服は。

「……日差しが強くないしあんまり騒がしくもないから、晴天よりはいいかもな」

 適当にそう返す。

「…………まぁ雨は好きじゃないけどな。濡れるの嫌なんだよ。水溜りがはねるとか。」

 ユナイスは特に気にしたふうでもなく、そうかいと微笑んだ。


 ——天使の微笑か、悪魔の哄笑か。


 ふとそんな言葉が浮かんだ。天使も悪魔も神も幽霊も信じていないけれど、ユナイスに毒されたのかもしれない。誰かの小説の一節にありそうだ。

「……ユナイス、お前は禄でもない奴だから、きっと悪魔のほうだろうな」

「? なんだい、急に。わたしはキミたちと同じで、歴とした人間だよ。というか禄でもないって言ったかい、今。キミってたまにものすごく失礼だよねぇ……あ、そうだ言い忘れていたのだけれど、実は……」

「お嬢、おまたせ!……ってジェルア? なんでいるの?」

 店の中からサキァルが小走りで駆けてきた。暗い緑の折り畳み傘をさして、小さな袋を持っている。その袋には店のロゴが入っていた。何か買ったらしい。ある程度距離が近くなると歩みを止め、ジェルアを不思議そうに見る。

「なになに、一緒に遊ぶの?って言っても買い物とかそんなだけどさ!お嬢も、呼ぶなら最初から言ってよ、びっくりした〜」

 ユナイスは苦笑して少し肩を竦めた。遊びの約束なんてもちろんしていない。ここで別れようかとも思ったがユナイスがジェルアに向き直る。

「……ということでサキァルもいるのさ。わたしがこんな頻度で外に出るというのもなかなか珍しいよね。サキァル、おかえり。さっき偶々彼と会ったんだよ」

「へぇ〜偶々? めっずらしい! ねー、ジェルアも来るの?」

「いや、俺は……」

「せっかくだし一緒に行かないかい?キミ、予定なくふらっと出てきたんでしょう?」

 ジェルアが少し口籠る。どうしようか迷っているのだ。こんな雨の日までこいつらと一緒かよ、と思うと既に若干の疲れが浮かんでくる。

「まぁ、予定なく出てきたけど」

「本当に偶然なんだね!」

 サキァルが驚く。それにユナイスがうなずく。

「もう運命感じちゃうよね、これは!」

冗談めかしてそのように続けた。

「感じたくねぇよそんなの。……そんな運命、あってたまるか!」

 些かぶっきらぼうであるが、それがジェルアらしくあったのでふたりは顔を見合わせて笑った。いつも通り過ぎて、返ってくる言葉の予想なんてものができるようになったらしい。予想は大当たりだ。サキァルは肩を震わせて、ユナイスに至っては、声を立てて大笑いだ。それはもう過呼吸を起こす勢いで。

「……笑すぎだぞお前ら!」

 ジェルアが顔を顰めるが、そんなことはお構いなしだ。ユナイスは笑いが止まらない。サキァルはもう興味が移っていてふらっと何処かへ行った。行く前にユナイスに何か言っていた気がする。なにか気になるものでもあったのだろう。

「ふっ、ふふっ、あはは、すまない、ほんと、キミのそういうところ、ふふふ、好きなんだよなぁ、あははっ!!」

「馬鹿にされてる気しかしないし微塵も嬉しくねぇ……」

「あははっ、バカにしてる気はないんだ!あはははっ、まぁ、そりゃあ嬉しくはないだろうさ、ふふっ」

「お嬢、ジェルア!あっちでお菓子売ってた!行こ行こ!あれ、絶対お嬢好きだと思うんだよね。紅茶も置いてたよ!」

 今日もマイペースなサキァルが戻ってきた。ユナイスは笑いを一旦落ち着けて、どれどれとサキァルのあとをついて行った。悪魔の哄笑でもなく、天使の微笑でもなく、ただの少女らしい微笑みがユナイスの表情に浮かんでいる。二十歳に満たない少女の純粋な笑み。

「ジェルアも早くー!」

「置いていかれてしまうよ、少年!」

 少し離れたところでふたりが手を振り呼んでいる。いつのまにか雨は小降りになっていた。呆れと、ため息と、いつも通り。普段より薄暗い平和な街を、ジェルアたちが歩く。

あと何回、何十回でも、3人でくだらない日々を過ごせるものだと思っていた。


——それこそ気が遠くなるほど。


 永遠など、この世界には存在しないのに。

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