1章 くだらない日常②

 男は逃げていた。何から逃げているのかは本人もよくわかっていない。とにかくそれは男を追っている。明かりが何一つなかった。月や星、街灯さえ見当たらない。あたりは闇に包まれていた。男はいかにも高級そうなスーツを着ているが、小太りなせいか腹のあたりがキツそうである。男は違法業務を行い、若い女を騙しては売りに出していた。風俗に売り飛ばすこともあれば、臓器売買をしたこともあった。薄汚れたその金で男はギャンブルをしていた。妻も居たが、暴力を振るい何度か病院にかかるほどの怪我を負わせたこともある。男が追われているのも自業自得かもしれない。たくさんの人間に対して、恨まれるようなことをしてきたのだから。

 男は真っ暗闇の中をただただ走る。追いつかれたらおしまいだ。息はもう切れ切れで、思うように動かない体は足を縺れさせた。震えが止まらない。歯がカチカチと鳴って噛み合わない。


——すぐそこに迫っている。


「っ!!」

 男が立ち止まる。目の前には、壁。いつのまにか追い込まれていた。細い路地の行き止まり。逃げ場はない。

「はぁっ、はぁっ」

 背中を壁に付け、ズルズルとへたり込んでしまった。男は怯えながら闇に向かって叫んだ。

「た、頼む!! お、俺はなんにも悪いこたぁしてないんだ!! 金のある奴はだいたい俺と似たようなことをしてる!! 誰かに頼まれたんだろ? 金を積まれたんだろ? なぁ、いくらだ、いくら積まれたんだ! その何倍だって出してやるから!! 地位も名誉もくれてやるから!」

 男の声は暗闇に吸い込まれ、少しの反響を残して消えていく。……なんの返事もない。それどころか、男の呼吸音以外に何の音もしないのである。沈黙が続く。

「は、ははは、た、助かっ————」

助かった。そう言いかけた男の顔から血の気が引いていく。ゴポッという音を立てて男の口から液体が溢れ出した。それは唾液と混じってどろっとしたものになっている。男が自分の腹部に触れるとぬるりとした感触に触れた。そして次には声を出せなくなっていた。

肺や喉を裂かれていた。呻き声を出そうにも声帯は振動せず、それどころか息も吸えない。恐怖のせいか痛みはさほど感じなかった。一瞬の出来事だった。闇は去っていなかった。男の全身から力が抜ける。ぐったりした男を一瞥し、絶命したのを見届けると、闇は去っていった。



 「——なんて話はどうだろう?」

「……なんでお前が書く話は誰かしら死ぬんだ?」

 ジェルアはユナイスに創作話を聞かされていた。内容は善良なる闇の怪物が邪悪な人間を殺し死罰を与えるのだが、そのうちに自分が悪になっていたことに気づき絶望するという、勧善懲悪とは言えない殺人ストーリーだ。明るい話ではない。回転椅子に座り、くるりと一回転したユナイスはジェルアの半分呆れたように吐き出された問いに微笑んだ。

「さあね、わたしにはなかなか明るい話というものが書けないのさ。しかしわたしはハッピーエンドが好きでね。きっとわたしに創られた闇の怪物を救う“何か”があるよ。それは出来事かもしれないし、人物かもしれない。まぁその辺もストーリーを練りながら進めていこうかな」

「……舞台はこの街なんだろ? 創作だとしてもこんな平和な街でそんな事件起こせるのか? 無理があるんじゃないか?」

 ジェルアの知ったことではなかったがなんとなくでその疑問を口にした。ユナイスは苦笑して少年、となにか子どもに言い聞かせるような、柔らかく歌うような声で言った。

「いいかい、これは小説の中の話で現実のすべてを引きずる必要はないんだ。街の裏側で起こった話にするのさ。現実には存在しない“地下街”とかね。この街は謂わば光の集合体だ。光があるならばもちろん闇も存在する。表があるなら裏もあるようにね。まぁマリオネイティスの街は治安もいいから殺人事件なんて滅多に起こらないのだけれど」

ユナイスが筆を取る。登場人物の設定や世界観を練り上げるのだ。

「……“ヒトを殺す怪物”なんかが善良、ね」

 ユナイスの様子を横目に見ながらジェルアが小さく呟いた。どこかいつもと違い、憂いを帯びている。

 目敏くジェルアの呟きを聞き留めたユナイスは筆を置いた。愉快そうに、笑みを浮かべている。

「おやおや、不満かい?」

「……別に。ただピンとこなかっただけだ」

「ふぅむ……“善良”とはいえないかい?……怪物からしたら悪人を“死を以て”正している、つまり怪物は善だろう?悪を切り裂く善だ。悪人による被害者からすればそれこそ、ね。どうだろう?」

「…………さぁな」

 ジェルアの憂いは拭われない。光のない瞳にさらに昏い影が落とされている。ユナイスは話を続けた。

「まぁあれかな、悪を正すのは善ではなく悪より強い悪、とも言うね。しかし悪に罰を与える存在を神とも言うじゃないか。ほら“天罰”だよ。それを下すのは神様だろう?神の為すことは悪だろうとなんだろう是——善という捉え方もある。“彼”は怪物か神か、人間か……善か悪かで、もがくことになるんだろうね」

 自論を語り出す。“彼”というのは主人公のことだろう。ジェルアは目線をページから外し、ユナイスを見る。しかしまた直ぐに手元に視線を戻した。

「...多分、お前の小説のそいつはヒトだよ。悪に堕ちた事を後悔出来んなら、な。もしそいつが神なら……後悔なんざしないだろうし、そもそも自分を悪だなんて思いやしねぇ。もしそいつが怪物なら、自分が悪に堕ちたかどうかも気付けないんだろうし、もし気付けたとしても、きっと後悔すら出来ないんだろうな……」

 ユナイスはひどく驚いたようだった。目を大きく開き、何か言葉をかけようとするも言葉が出ない。普段のジェルアであれば、ユナイスの長話になど付き合わず、それ以上続けようともしない。彼は、極度の面倒くさがりなのだから。

「……柄にもなく気取った語り方しちまった。お前の仰々しさが移ったか?まぁいいや、忘れてくれ」

「……忘れてくれと言われても無理な話だろう、キミ。いや、なかなか興味深い話だったよ!それより、まさかキミがねぇ……わたしの話に乗ってくれるとは……本当に、うん、本当に驚いたなぁ……」

 ユナイスがゆっくり言葉を口にした。そのあとにはまた冗談めかして言う。

「キミ、変なものでも食べたかい?」

「うるさい、食ってないし、忘れろって」

「あはは、柄にもないことをしたから気恥ずかしくなったのかい?いやぁ、キミとこういう話をするのもなかなかに楽しい!うんうん、良いねぇ、わたしは嬉しいよ!自分の知見を広げられるし、キミの話はなかなか素敵だ!」

「……はぁ。真面目に返したのが馬鹿馬鹿しくなってきた。もうこの話はやめだ、やめ」

ひらっとジェルアが手を振る。読書に戻るようだ。憂いはすでに彼を去っていた。いつも通りの無気力そうな、面倒くさがりなだけの少年の表情に戻っている。

「キミと話した事も含めて、設定をいろいろと深められそうだ」

そう言ってユナイスは改めて筆を取った。より深い世界を、羊皮紙に綴り、生み出していく。たまに小さく唸って斜線を引いて書き直したり、意味なくペンを回したりしていた。しばらく悩んでいたようだが、また書き始める。物書きという職をちゃんと営んでいるのだなとジェルアはその様子を眺めて思う。作業がひと段落するまでの間、ユナイスの書庫にあった本を拝借して読んだ。ユナイスが筆を滑らせる音を聞きながら、ジェルアは本のページをめくる。静かな時間だった。互いにひと言も発さなかったが穏やかな空間であった。

 2時間もした頃、ユナイスがやっと筆を置いた。ジェルアも読んでいたハードカバーの本を閉じる。

「……キミのおかげもあって設定はだいぶ練れたよ。おや、2時間も経っていたのか……もうお昼時だね」

「2時間か。すごい集中力だな。昼飯はどうするんだ?」

 時計の針が13時を少し過ぎている。ユナイスは少し考えた後、外に出ようと言った。

「今の時間ならたぶんサキァルがようやく仕事がひと段落した頃だろうし。愛馬を家に置いてきて、そうだな、もう20分もすれば中央公園の近くを通るかもしれない。行けるなら3人で食事に行こう」

 ユナイスの口元に笑みが浮かぶ。ジェルアはわかったと頷き外に出る準備を始めた。本を書庫に戻し、所持金を確かめる。ユナイスもある程度金を用意し、財布に入れる。1人分にしては少し用意した金額は高い。

「……お前また」

「あはは、ついつい甘くなってしまうんだよ。ほら、行こう」

 ジェルアが不服そうというか、呆れ半分の顔をしてため息をついた。扉が開き、外へ出る。2人が出た後扉は閉じる。そこにあるのはやはり物言わぬ壁であった。

 ユナイスはサキァルに物を奢る“癖”があった。だから、いつも外に出る時は少し金を多めに持っていく。ジェルアは奢るのも奢られるのも大概にしておけよと注意するのだが、あまり意味をなしていない。

「さて、中央公園に来たものの……来るかな。予想が外れてしまっては困る」

「来るだろ、そのうち」

 サキァルを噴水近くで待っていると予想通りの影が見えた。

「あれ、お嬢とジェルアじゃーん。なにしてるの、あっ、それより聞いて聞いて!おなかすいた!!! ご飯おごってー」

 声を掛けておきながらこちらの話を一切聞かないサキァルにユナイスは微笑み、ジェルアは呆れた。

「もちろん。そのためにサキァルを待っていたんだから。食事に行こう、わたしが奢る」

「やったー!」

「サキァルはかわいいなぁ」

 上機嫌にサキァルを抱きしめるユナイス。純粋にはしゃぐただの少女の姿だ。これが有名な物書きか、とぼやくジェルアなど気にもせずに2人は笑っていた。

「さて、食事だけれど近場に美味しいレストランができたんだよね。行ってみる?」

「行くー!」

「俺はどこでもいい」

 ユナイスが先を進み、その隣をサキァルが歩き、その後ろからジェルアが歩く。

「今日も街は騒がしいねぇ。いや、賑やかというべきかな。ところで今日はご飯食べたあと、ふたりはなにかあるのかい?」

「俺はまた夜仕事」

「キミ、仕事は夜が多いよね。……夜かぁ、夜は夜で大変そうだよね。体壊さないようにね」

「おう」

「サキァルはどうなんだい?」

「おれはあと終わり〜」

「キミたちが暇なら買い物に付き合ってもらおうかな。ウィンドウショッピングも兼ねてさ」

 楽しくなってきたのか、ユナイスがステップを踏んだ。ふわっとペチコートが空気を含んで揺れる。ユナイスは外が久々であるためか、テンションが高い。人々が行き交うこの通りは音だけでなく視界も賑やかだ。

「まぁいいが……はしゃぎすぎるなよ」

 ジェルアが静かに言った。

「おれも見たいとこあるからいいよー」

 サキァルはユナイスに買い物でも奢ってもらうんだろうか。ジェルアはふたりにもう一度注意をする。

「奢るのも奢られるのも大概に、な。第一ユナイスはサキァルに甘すぎる」

「だぁってお嬢が奢ってくれるって言うんだもん、ご厚意に甘えなきゃ」

「いやぁ、つい、ね?」

「…………はぁ……」

 そんな話をしながら、レストランに入っていく。彼らの存在も平和な煌びやかなこの街の一部となって溶け込んでいくのだった。

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