1章 くだらない日常①

 少年は面倒くさがりであった。淡々と生きている。風船のような生き方だとも言えなくもない。彼は目的なく生きていた。しかし死ぬ気もない。そんな性格もあってか、怠惰な人生を送っている。自分の選択など面倒すぎてしなかった彼は、なるようになれと流されるようにして生きてきた。人生という膨大なものを考える気は起きない。将来やりたいこともなければ、自分探しなどはもってのほかだ。家に閉じこもっていたほうが幾分楽だった。まぁ、それでも家族に養われる気はないようでなにかしらの仕事には就いたようだ。

「………………」

 無言で一枚の写真を手に取る。40〜50歳くらいか……小太りの男が写っている。少年とはなんの関係もない男の写真だ。顔を合わせたことも、街中ですれ違ったことすらない。なぜ少年がそんな男の写真を持っているのか……。少年は無表情のままそれを四つ折りにして、ズボンのポケットに突っ込んだ。時刻は昼間を過ぎた頃。少年は出かける準備をする。少し深めのフードのついた服を少年は好んで着ていた。それからマスクも着ける。以前からこのスタイルで出歩いていたためか、もう癖になっているようで、マスクがないと落ち着かない時もあるほどだった。別に周囲の視線などを気にしているわけでもないのに。少年は財布を持って外に出た。

 外に一歩踏み出せば視界が賑やかになる。人々の活気もさることながら、ショーケースに飾られたさまざまな商品たちが生き生きとしている。それは洋服であったり、ジュエリー、アクセサリーであったり、装飾のなされた分厚い本であったりした。午前中は雨が降っていたが、それが嘘のように晴れていた。晴天に光る太陽がなおこの街を輝かせているようにも感じた。石のタイルが敷かれた地面には水たまりがいくつもできている。路面電車が通り過ぎる音を遠くに聞きながら、少年は歩みを進める。

「……はぁ」

 少年はため息をついた。賑やかなのは苦手だ。静かな平穏さえあれば満足なのにそれがなかなか難しいのである。

 中央公園の大きな噴水を横目に荷物を運ぶ馬車が横を通り過ぎる。手品師がピエロのような格好で芸を披露していた。人々はそれを楽しむ。余興が終われば盛大な拍手と歓声と、そして、もう一回とねだる声もあった。不思議な形の帽子の中に紙幣やコインが投げ込まれていく。中央の公園から2本ほど離れた通りの、狭い路地。レンガが積み上げられた高い壁の間を通る。この奥は行き止まり。壁の向こう側は見えない。少年は、行き止まり付近の壁を3回ほど軽く蹴った。その足元には落書きのように「××××」という文字が刻まれている。数秒程して、ガガガ、という音とともに壁が開いた。


 ——隠し扉。


 少年は慣れたように自然な足取りでそこに踏み入る。少年が入った後、扉は閉じ、また物言わぬ壁に戻った。

 「やぁジェルア、おはよう!」

「……もう“おはよう”の時間じゃないけどな。昼過ぎてんぞ」

 少年——ジェルア・ウラルは呆れたようにため息をついた。東洋の血が入っているらしく、彼は髪も瞳も黒い。おはようとジェルアに声をかけたのはユナイス・ミッドナイツである。薄桃色の髪はゆるめのウェーブがかかっている。いわゆるロリータファッションに身を包む彼女は、フレームの細い薄紫色の丸眼鏡をかけていた。ユナイスは軽く伸びをして仕事用のテーブルから離れる。ユナイスの動きに乗ってインクの匂いがした。

「細かいことは気にしない!さぁ、そんなところに突っ立っていないで、いつも通りそこのソファーに掛けてくれ。ゆっくりしてくれて構わないよ。わたしも一息入れようと思っていたところだから」

 ユナイスは紅茶と菓子を出してくると手際よくテーブルの上に置いた。レモン入りの紅茶が入ったカップをひとつ、ジェルアに渡した。それから角砂糖とミルクも出してくると、ようやく自分もソファーに座った。

「レモンティー好きだよね、キミ。ミルクティーも好きだろう? 一杯目はレモンティー、二杯目はお好みでミルクと、それから砂糖も。自分の好きなタイミングでレモンは取り除いたって構わないからね。お皿はそこ。まぁくつろいで、どうぞ」

 好みを把握されるほど此処に入り浸っているつもりはないのだが、ユナイスはそういうところをよく見ている。

「はぁ……今日は筆が進まないよ。進むときはあんなにスラスラと綴ることができるのに……」

「そうか」

 ユナイスは物書きだった。そこそこ有名になってきたようで、街中で彼女の本を見かけることも多くなった。しかしユナイス自身は文才が欲しいとよく嘆いている。ジェルアは物書きではないからその辺についてはよく分からなかった。ジェルアからしてみれば、一冊の本を仕上げられるだけ才能があるのでは、という感じである。ユナイスも自分のカップに紅茶を淹れた。アールグレイの香り。

「そういうのはアイツに言え」

「言いたいところではあるのだけどね、少年。残念ながら彼女はまだ今日は来ていないのだよ。だからこうしてキミに愚痴っているんじゃないか」

「…………はぁ」

 ジェルアがずいぶんと大きなため息をついた時、扉の開く音と陽気な声がした。噂をすればなんとやら、である。

「お菓子があると聞いて!!!」

「此処にお菓子があるのはいつもじゃない?それより、随分上機嫌なようだけどなにか良いことでもあった?」

「お菓子!!なんかちょうだい!」

「ねぇ、少しは話聞こう??」

ユナイスの話を一切聞かず、勝手に話を進めた“もうひとり”。中性的な顔立ち、黒のフレームに銀色の装飾が細かに施された眼鏡をかけ、左目は長い前髪のせいで隠れている。

「それがねー! お嬢! 聞いてー!!」

「うんうん、どうしたのサキァル?」

「なんでもなーーい!」

「あっ、なんでもないのね!?」

 もうひとり——サキァル・スクウィルは口調もテンションも安定しない。あとマイペースといっていいものか、大概人の話は聞かない。本人曰く、心の中で返事をしてから次の話題に移っている、のだそうだ。巻き込まれるのは御免だというように知らん顔をしながらジェルアは紅茶を飲む。サキァルはジェルアの向かい、ユナイスの隣に座った。ユナイスがサキァルにも菓子を出しながら尋ねる。

「サキァル、今日の仕事は?」

「ん、ああ今日はもう終わり終わり。疲れたし。大変だったんだよ〜。大きい荷物が多くてさ、力仕事って感じ!はぁ〜」

 サキァルの仕事は“運び屋”と呼ばれるもので、違法も合法も大小も関係なく、金さえ払えば大抵のものはなんでも運んでくれる。しかし、サキァルはどこかに属しているわけではなく自営業的で、受ける仕事を選んでいるらしい。収入は結構悪くないようで節約も浪費もせず、普通の生活を送っているようだった。そのわりに食事はおろそかにしがちで、ユナイスが食事に呼んだり、外に誘ったりすることが多々あった。

「わたしも今日はやめようかなぁ。筆も乗らないし、気も乗らない……そんな時に書いたっていい文章なんて書けないからね」

「そうそう、今日はやめちゃいな!あ、そうだジェルアは? そういえばジェルアの仕事ってなんだっけ」

「……仕事はこれから。親の手伝い」

 ジェルアが端的に答える。

「これからかぁ、ジェルアは大変だね!」

 そう言うわりにサキァルはにこにことしていて、あまり大変だと思ってはいないようである。めんどくさい、とぼやくジェルアに、ユナイスはがんばりたまえよ、と空のカップに紅茶を注ぎ足した。それからサキァルにも注ごうとしていたが、サキァルが紅茶があまり好きでないことを思い出し、紅茶の代わりにミルクココアを出した。そして3人は飲み食いしながらしばらくの間くだらない話をするのだ。今気になっている作家は誰だとか、人気の商品がどうだとか。ジェルアは大抵聞く側にまわっている。そうやって時間は過ぎていくのだ。それが3人のいつも通りであった。陽が落ちてきて辺りが暗くなってくると、ユナイスが部屋の明かりを灯す。薄暗がりにあった部屋がパッと明るくなった。天窓から覗く空を見上げれば、もう夜が近い。

「……もう時間か。そろそろ帰る」

「仕事かい?」

 壁に掛けられた時計を見上げ、ジェルアが立ち上がる。短針が6を指していた。

「おう、仕事だ。……んじゃ行くわ。紅茶と菓子、ごちそうさん。またな」

「うん、いってらっしゃい、またね。いつでもおいで」

「いってらっしゃーい」

「…………ああ」

 片手を軽く上げ、外に出る。扉が閉まる直前、「お仕事大変だねぇ」「そうだねぇ」というふたりの呑気な声が聞こえて、ジェルアはまたため息をついた。夕焼けから夜空に変わる空を見上げると遠くに天窓からは見えなかった三日月が見えた。

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