金魚と猫

小紫-こむらさきー

ゆうぐれ

「そっちはニンゲンの庭だぞ」


「ああ、知ってるよ」


 背後から声をかけて来たキジ猫を振り返らないで、俺はそのまま狭い穴に頭を突っ込んだ。

 あいつはこっちには滅多に来ない。どうも少し前によっぽど酷い目に遭ったらしい。

 確かに、ここはニンゲンの庭らしいが、花壇を掘り返したり、あいつらが見ている間に池に前足をいれたりしなければどうってことはない。

 キジ猫のことだ。きっとなにか悪さをしようとして、ニンゲンにとっちめられたんだろう。

 

 生け垣の下をくぐり抜けて、お日様の光がきらきら落ちる池がよく見える石の上へ飛び乗った。

 ここは、もう冬が近いけど温かいからすごく気に入っている。おまけに、ニンゲンの庭だからか他の猫はほとんどこない。

 バカだなぁあいつらは。寝そべっているだけなら、あいつらニンゲンも俺たちに酷いこと何てしないのに……。

 最初は、良い昼寝場所が見つかったくらいに思っていた。でも、ある日、池に浮かんでいるすいれんの下にちらちら見える夕暮れの空に似た色をした魚を見つけた。最初はニンゲンの目を盗んで一匹くらい食べてやろうと思ったけど、この魚はとってもとろくさくて、おれが前足を水の中に入れたって全然逃げる気配がない。

 他の魚はパッと逃げるのに、こいつだけがずっと間抜けな顔をしてこっちを見ていた。

 いつでも食える。でも、夕暮れ色の尻尾をひらひらと揺らす魚は、なんだか眺めていると胸の辺りがもやもやして、鼻も勝手にぴすぴす音が鳴るし、尻尾もひとりでにピンと伸びてしまう。

 食べてしまったら、今感じているなんだか嫌じゃない気持ちが消えてしまう気がして、この夕暮れ色をした魚をしばらくは食べないでおこうと思ったんだ。


「夕暮れ……ゆうぐれって名前で呼ぼう」


 俺たちは体の色や、体の特徴でお互いを呼び合うから……なんとなく、この魚もそう呼びたくなった。

 ゆうぐれ、そうやって名前を呼ぶとなんだか腹の中がむずむずして、体の内側が温かくなる気がする。何度も、何度も水面に向かって「ゆうぐれ」と呼んだけど、あいつは俺の名前なんて呼び返してくれない。

 それでも、日だまりで昼寝をしてるみたいな心地になって、俺はここに通う度にゆうぐれの名を呼んで、ゆうぐれを眺めていた。


 空がもこもこした雲に覆われてお日様が見えなくなった。ゆうぐれが池の水と一緒に凍ってないか心配になって見に行ったけれど、あいつはまたどんくさい動きでゆらゆら尻尾をふりながらこっちに近付いて来た。なんだよ、本当に間抜けだなぁ。


「そーんなに近付いて来たら食っちまうぞ」


 そう伝えてみたけれど、こいつに言葉は通じない。と思う。

 ゆっくりと尾を振りながら、俺の近くを泳いでいた。


「食っちまうぞなんて言ったけど、お前を見てると、こんなに寒いのに、お日様の下にいるみたいに温かい。だから、ゆうぐれ、お前のことを食べたりしないよ」


 伝わるわけが無いけど、そう言ってみたりした。

 ゆうぐれは、水面に向かって口をぱくぱく開閉した。あいつも、俺に何か言ってくれてたら良いな……なんて考えながら俺は池から離れた。


「こんなに寒いのに出掛けるなんて珍しいな」


 生け垣の下をくぐり抜けて、小道に出ると、ちょうど前を通りかかったキジ猫が俺に話しかけてきた。

 こいつは何かとつっかかってくる腐れ縁で、小さな頃から顔見知りだ。

 生傷が絶えなくて、よく他のやつらと喧嘩している癖に、なんでか俺には捕れたねずみをわけてくれたり、良い餌場を教えてくれる。

 理由を聞いても教えてくれないけど、まあ腕っ節が強いキジ猫に喧嘩をふっかけられないのはありがたい。

 からかってきたり、どんくさいと馬鹿にされるのにいい気はしないけど、悪い奴ではない……と思う。

「最近うまく飯にありつけなくてさ。散歩しながら餌をさがしてたんだよ」

 赤くてきれいな魚が心配で見に来たなんて言ったら、いつもみたいに馬鹿にされるかもしれない。

 だから、それっぽい理由をパッと告げた。そうしたらキジ猫は俺が来た方向を見てスッと目を細めた。


「池の赤い魚、気になってるのか?」


「な、なんだよ。関係ないだろ?」


「あの池にいる魚、ニンゲンに見張られてるから簡単には捕れないだろ?」


「捕るつもりなんてない。池の岩で昼寝するのが好きなんだ」


「捕るのにコツがいるから、どんくさいアンタには無理だろうなぁ」


「だから、そんなつもりないって言ってるだろ」


「はいはい、そういうことにしておくよ」


 ふわあと大きく口を開きながら、キジ猫は前足を二本とも前に投げ出して大きな欠伸をした。

 俺があいつを食べると思われるのは普通のことのはずなのに、なんでか頭の中がカッとして、ついキツい言い方になった。でも、そんなことキジ猫は気にしていないようだった。

 ゆったりと尻尾を左右に振りながら、どこかへ去って行くキジ猫から逃げるように俺は自分の巣へ帰ることにした。


「なあ、黒猫、起きろよ」


 生臭い美味そうな匂いが鼻をくすぐる。

 魚の匂いだ。

 ぴちゃりと水の滴る音が鼻先から響いて、キジ猫の興奮したような声が聞こえてくる。

 まだ外はほの暗い。朝になる直前の一番寒い時間だ。

 べちゃりと音がして薄目を開けた俺の前に血の色をしたなにかが落とされる。

 血の匂いがあまり漂ってこないのに、血の色が広がってる……なんでだ?

 寝起きのぼやぼやした頭で考えて、それからあることに気が付いてばっと体を起こす。


「あ……」


「アンタが気になってた魚、捕ってきてやったぜ」


 目の前には、腹と二本の牙で貫かれて力なく口を開閉させている見慣れた色の魚がいた。

 ひらひらした尾、長いひれと頭から背中に掛けてきれいな夕暮れ色に染まった体……。


 俺が見間違えるはずがない。これはゆうぐれだ。


「なんで」


 俺の言葉に、キジ猫は首を傾げるだけだった。

 思わず前足が勝手に出る。爪を立てて、キジ猫の鼻っ面を引掻くと、驚いたように目を見開いたあいつが、瞳孔を松の葉みたいに細くして黙ってこっちを見ていた。


「な、なんだよせっかく捕ってきてやったのに」


 噛みつかれると思ったけど、キジ猫はそれだけ言ってすごすごと俺の巣を後にした。

 逆立った毛を舐めるよりも先にゆうぐれをそっと咥えた。これ以上、ゆうぐれを傷つけないように。

 なんでこんなことをしてるかわからない。ただ頭の中が氷みたいに冷たくなってるのに鼻先はちりちりと熱い。

 どうすればこいつを助けられるだろう。

 がむしゃらにこいつがいた池に向かった。

 水にそっとゆうぐれを浮かべてみる。でも、力なく浮かぶだけでいつもみたいに長い尻尾を揺らして泳いでくれない。

 きれいに水の中で靡いていた尾も、よく見るとずたずたに切り裂かれていた。


「ごめんな……ゆうぐれ……ごめんな」


 どうしていいのかわからなかった。ただ、こいつがここで死んだら他の猫に食われるかもしれない。そう思って俺はもう一度ゆうぐれを口に咥えた。

 なあ、一緒に水の中で死ねば、お前と一緒になれるかな。


 後ろの方からキジ猫の声が聞こえた気がした。

 それでも、振り向かない。

 冷たくて肉球や体の節々が痛くなるけれど、ゆうぐれはきっともっと痛かった。

 だから、俺は止まることなく蓮をかきわけて、池の中心へ向かって泳ぎ続ける。


「ゆうぐれ……ごめんな」


 体が冷たくなってくる。毛皮に水が染みこんで重くなる。

 池の中心で力を抜いて、そっとゆうぐれを咥えている頭を水中に突っ込んだ。

 なあ、ゆうぐれ……お前が住んでいた池の中はどんなところなんだ?

 水に浮かんだゆうぐれが、俺の隣で動かなくなる。自分の体がどんどんゆうぐれが暮らしていた場所へ沈んでいくのを感じながら、俺は目を閉じた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

金魚と猫 小紫-こむらさきー @violetsnake206

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ