第4話 冬


 体が熱い。

 外気は冷え切っているのにも関わらず、私の体が熱いのは――

「……熱何て、何時振りだろう?」

 現在時刻は午前の十時を回った所。

 普通なら今頃、学校に出て授業ないしは自主登校に伴う自主学習に努めていた頃だろう。額に貼った冷えピタを私は触った。

「……もう、乾いてる」

 頭がボーっとする。

 体温計で熱を測ると三十八度七分。三十八度を超えてくるとこんなにも辛いものなのかと、体の気怠さが辛さを知らせてくれた。久しぶり過ぎて物凄く怠く感じる。

 こういう時はと、私は布団に潜った。体調が悪いときは兎に角寝る。これに尽きると思う。腰が仄かに痛みを感じていたが、立つのも辛いから横になるしかない。

 私の体温で温まったはずの布団にくるまっても全身が温まらない。全身まで熱が届かないのはどうしてだろう。

「にゃー! 春花、大丈夫?」

「うわぁっ!」

 ポスっと弾力のある布団に飛び乗ってきたナツキは、そのまま私の顔の方に近づいて顔を覗いてきた。ピタッと額を当てると驚いた様子を浮かべた。

「うーん、いつもより高いねぇ」

「……猫の方が平熱高いのに、わかるの?」

「うんにゃ、なんとなく」

「……もう」

 傍目から見たら人懐っこい猫が主人の顔に自分の顔を擦りつけているように見えるだろうが、本人はこれで一応前時代的にも熱を測ろうとしているのだから面白い。

 私からしたらその気持ちだけでも本当に嬉しい。

「春花が熱なのは、親知ってる?」

「……言ってないから、知らないよ」

「……そう」

 ナツキはやれやれといった様子で再び自身の顔を擦り付けてきた。

 スンスンと鈍った鼻で臭いを嗅ぐと仄かに香ばしい香りがした。洗わなきゃなんて考えているうちに眠気が襲って来る。

「……っ」

 犬の様にお手をするかの如く、ナツキは私の額にポンっと手を置いた。冷えピタのせいで肉球の感触が判らないのが残念だ。

 それでも、今の私にとってその行為は何よりも強く優しいおまじないの様に思えた。

「春花、ゆっくり休みな」

 その言葉が呪文のように私を夢へと誘った。必要な言葉を必要な時に。それが橘夏樹という人間だった。


「パパ! ママ!」

 小さな両手で二人の手を引く。

 パパとママが私に向けるまなざしは温かくて、そして何よりも優しかった。

「あれ、あれ! 食べたい!」

 私が指差したソフトクリームを見てママは心底呆れ顔だったが、一方のパパはというとそんな呆れ顔のママを優しく宥めていた。厳しめのママ、そして甘々のパパ。この塩梅が私は好きだった。

 お目当てのミックスソフトは真冬にも関わら、冷たくて美味しかった。甘いだけのバニラも、ちょっと苦みあるチョコレートも、どっちも有るから美味しくてどちらかが欠けたらこのような風味にはならない。

 そうか、ミックスソフトはパパとママの関係に似ているのだ。

 ソフトクリームを手に私は二人の間を軽快なステップを踏みながら歩く。空いた手をパパが優しく握っている。

 パパは冷え性だからほんのり手先が冷たい。でも嫌な冷たさじゃない。

「風邪ひいたらどうするの?」

「……まあまあ、その時は、その時じゃないか?」

 パパの心配を余所に、パパが柔和な笑顔を向ける。当の本人はあっけらかんとソフトクリームに集中する。

――風邪なんか引かないもんねー!

 翌日、私はしっかり風邪を引いて寝込むことになりました。


「……か、春花」

「……ナツキ」

 布団の上から心配そうに私を見下ろす一匹の猫。人間だった頃よりも、もうすっかり猫になったナツキの表情の変化は読み取れるようになった。

 今は本当に心配そうな顔をしている。

「うなされてたよ……? 大丈夫?」

「……大丈夫。少し、昔の事を思い出しちゃった」

「昔? 前のお父さん?」

「……うん」

 私は布団の中から左手を出す。

 赤らんだ左手を優しく温めてくれた存在に想いを馳せ、離してしまった右手の上に重ねる。

「でも、もう遅い。あの時は二度と帰ってこないから。眩しくて明るかった過去は、鈍くて暗い未来で霞むの」

「……ポエマーだね、春花」

「だからこそ、今度は」

 私は気怠い身体に鞭打って、彼女と再び向き直る。ビー玉の様な瞳で私を見つめるナツキ。真剣な面持ちで私の次の言葉を待っていた。

 口の中に微かに残る唾を飲み込んで私は言った。

「今度は手を離したくないから。ナツキ、私と一緒に東京に来てよ」

「……」

 彼女はしばらく何も答えなかった。

 チッチッチと秒針は時を進める。

 左手で彼女の額に手を置いてそっと撫でていく。所々絡まる毛ですら愛おしく思えてしまう。

「……そだね」

 にゃーと一鳴き。

 ナツキの何とも言えない表情に口の中で苦みが走った。


 それから数か月後の卒業式。猫になった橘夏樹は、私の前から姿を消した。

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