第3話 秋
「食欲の秋だね、春花」
目の前の黒猫が言った。
まあその通りではあるのだが如何せん、香箱座りの猫が言っているのだから聞いてるこっちの脳みそは毎回バグりそうになる。もう深く考えないようにしよう。
食欲の秋。
彼女が言った言葉を反芻する。食欲の秋、スポーツの秋、読書の秋など秋は色々と捗るので好きだ。春なんて字が付いてはいるが私としては秋推しだった。
そんなことを考えていると、ふと思いついたことがあって、私は元人間の黒猫に訊ねてみる事にした。
「猫になったからやっぱり魚が好きになったの?」
私の質問に彼女はうーんと唸った。
猫と言えば魚。肉というより魚のイメージが強すぎてどうしても訊いてみたくなってしまった。秋の味覚の中にはサンマも有るぐらいだし。
「うーん、どうだろう。人間だった頃は嫌いだった訳で、人間だった前日に嫌いだった物が猫になった翌日に大好物になるかと言われればそれも違う気がして。ようは分からないというのが答えです」
「えーっと、なるほど?」
「とは言え散歩をしている時に、おこぼれでおじさんに貰う魚の白身は美味しく感じちゃうわけで。体はちゃんと魚が好きになってるんだと思う。脳は嫌だって言ってるのにね。不思議だよ」
にゃーと一鳴き。ナツキは尚も考え込んでいた。
私としては人間から猫になったナツキの方が不思議だよと、喉の手前まで出かかったがそれを奥へと流し込む。
猫になった理由は私もそれとなく訊いてみたことがあった。しかし決まって「朝、目を覚ましたら体が縮んで猫になってたの。心は人間なのにね」と、聞いたことのあるフレーズに載せて答えたきり、あれよあれよと躱されてしまっていた。
知らないのか言いたくないのか、それ以上私も追及出来ずにいた。
前述の通り季節はすっかり秋だった。涼しい風が吹く度に季節の変わり目を感じながら、残った暑さに耐え凌ぐ日々を過ごしている。目の前の黒猫も猫歴が半年になり、それなりの歴を重ねていた。
私の進路はというと、指定校推薦にて行きたい大学の推薦枠をもらっていたこともあり、試験日まではひたすら面接と小論文の練習。今はその休憩時間。私はぼんやりとスマホを弄っていた。
画面は大学近辺の賃貸物件のホームページで、ナツキも気になっていたのか画面を覗き込んで来た。
「駅付近だとやっぱり高いなぁ」
「どれどれ……って、たっか!」
思わずナツキは画面をタップする。
もちろん肉球が反応するはずも無いので、それに合わせて私の指でタップしていく。
「春花、私はここがいいと思うよ」
「……って、ここ高くない!?」
「いいや、絶対ここが良いと思うよ、私は」
「……その心は?」
「ここ、オートロック付きだから」
「えっと……それ、だけ?」
「それだけって、変な男が来たらどうするの?」
「それは……戸締りとか気を付けながら」
「ううん、ダメだよそんなんじゃ。これぐらいしないと、だって」
「……だって?」
「春花、可愛いから」
「……っ!」
うっと変な声が出かかってむせ返る。大丈夫? といった様子で私の顔を覗き込むナツキを余所に、私は机に置いてあった冷めたコーヒーを啜る。
こういうところは昔と全然変わらないな。
思っている事、考えている事をまっすぐ言葉にして伝えてくれるところ。私が一番見習わなければならないところでもあり、彼女に惹かれた一番の理由でもある彼女のこの性格。
一見サバサバしているように見えるが本人曰く「伝えたい言葉って、タイミングってあるんだと思うんだよね。後から思ってましたなんていうたらればな事を伝えるぐらいなら私は、その時思った事を伝えようと思ってる」と言ったように、彼女なりの揺るぎない決意のもと成されていると知ったときは、やはり同い年でも尊敬の念を抱かざるを得なかった。
だから彼女は絶対にお世辞は言わない。だからこそ今の彼女の言葉には嘘偽りがないと理解してしまう。そして、そう頭で理解してしまうと急激に頭の中が沸々と音を立てながら沸騰していった。
「ん? 春花、どうしたの? 顔、赤いけど」
「な、なんでもない」
誤魔化し混じりに、私は彼女の頭を撫でた。
顔を少し上に向けて撫でやすい体制を作っていたナツキは、どうやら気持ちよかったようでゴロゴロと喉を鳴らしていた。部屋が静かなこともあり、彼女の喉を鳴らす音だけが響いていた。
でも、なんだろう。
私は猫になった彼女と過ごすようになって考えるようになったことがある。
今の何気ない会話もそうだけれど、私と、そして彼女との関係は確実に良いものになっていることに。深い話もするようになったし、私も彼女に安らぎを求めるようになっている。今みたいに体を撫でることみたいに。
でも、少し寂しい。
だって私は真剣に貴女の事を想っていたのに。こんな形に変化して発展する様な関係だったと思うと胸が苦しい。
「ねぇ、春花?」
私の考えている事が判っているかのように落ち着いた声音で私の名前を呼んだナツキ。ああ、やっぱり貴女は私の事を良く理解しているな。
「私達って、なんかちゃんとカップルみたいだね」
照れ臭そうに言った夏樹のその顔には、一切の冗談は無かった。
――それなのに、どうして猫になんかなっちゃったの?
その言葉だけが喉から滑り落ちていく。きっとこの質問の答えは自分で解かないといけないようだった。
HRが始まる前の静寂。夏休み明けとは比べものにならない程の質の違いに息を飲む。
勿論理由は分かっていたから、私は気が付かれないように周りの様子をそっと盗み見ていく。
隣の席の元野球部の彼は相も変わらず英語の単語帳を開き、暗記に集中していた。いつもなら前の席の子とじゃれ合っていたのだが、そんな前の席の彼も耳にイヤホンを付けて数学の問題集に向き合っている。
この通り大半の生徒は勉強モードに移行しており、遊んでいる人の姿は殆ど見受けられなかった。
しかしこうなると私の様な推薦組は肩身が狭い思いをすることになる。今もこうしてシャーペンを握って勉強のフリをしなければならない。なんと息苦しい環境になってしまったことか。
『隣のクラスの橘さんさぁ』
突然耳なじみのある名前が出てきて、私は耳をそばたてた。一応ノートに視線を落とし訊いていないフリをしておく。
『未だに行方不明なんでしょ? やばくない?』
『手がかりも無いらしいよ?』
『え? マジ? じゃあ、今頃橘さん……』
『止めなよ、滅多な事言うのは』
彼女が行方不明扱いになっていると知ったのは五月の初旬。
家庭環境がお世辞にも良いとは言えなかった彼女の母親が、流石に一カ月も帰ってこない事に心配になったようで警察に届け出があったようだった。一応彼女に伝えると「警察の概念知ってたんだ」なんてドライに返ってくるぐらいどうでも良さそうで、あれやこれやとしているうちにここまで来てしまっていたという流れだ。
彼女たちの想像もごもっともで、流石に半年以上行方不明になってしまっていると、生死に関わる問題に直結してしまうのが世の常。だからきっと皆はもう、彼女を死んだと思っているんだろうなと改めて理解した。
『あー、でもさ。橘さんって、正直、取っ付き難かったよね』
『わかる。親しい人とかいたのかな?』
『んー、どうだろう。いつも一人だったような気がするけど』
『孤高って感じの存在だったよね』
「……寂しいって思ったこと、ないのかな?」
最後の言葉だけが耳に残った。確かに私といる時も、いつも寂しそうな顔を見せていたような気がする。
――寂しい、か
心の中で私は、そう独り言ちた。
学校が終わるとすぐに私は近所のスーパーに立ち寄った。夕飯時の値引き商品を目当てに総菜コーナーに向かうと、シール貼りたての私の大好物ポテトサラダが置いてあったので迷わずカゴに入れる。それともう一つ。私の目に飛び込んで来た物を買い物かごに入れてレジに向かう。
そして私は、買ってきたそれをナツキに食べてもらう想像をしながら帰宅した。
「ただいまぁ」
人間にではなく特定の存在に伝えるために一応帰宅を知らせる。
「おかえふぃー」
眠そうなナツキが欠伸をしながら出迎える。ファイト一発ではないけれど、私は彼女の為に買ったとあるものを取り出す。
「サンマ、買ってきたよ」
「……っ! 春花、大好き」
抱っこのポーズを取っている彼女をくいっと持ち上げ、そのままキッチンへと向かった。
買って来たものを取り合えず冷蔵庫にしまい、夕飯の支度を始める。ナツキは近くの手ごろな台に乗せておいた。
インスタントの味噌汁を器に開け、パックのご飯を一つ取り出す。ポテトサラダは面倒くさいからそのままに、サンマは器に載せてレンジでチンしてしまう。
にゃーとスンスン臭いを嗅いでいるように、一瞬にして秋の味覚の香りが漂ってくる。こういうのも悪くないな。
「さあ、食べよっか」
私が配膳している時には既に物伝いで定位置の椅子へと向かっていたナツキ。
いただきますと私が言う前に、目の前に置かれたサンマにがっつくナツキ。破顔しているがこういう所も可愛くなってしまうのは、動物はずるいと思う。不細工なのに可愛いって、最強じゃん。
租借音が響くリビングに一人と一匹。
歪な関係へと昇華した私たち。私は自信に問いかけてみる。
――寂しい?
ううん。そんなことないよ。
私は既に食べ終わっていた彼女を見やる。二人の時には構築出来なかった関係が、一人と一匹になったことで、少なくともいい方向に向かっている。
闇に支配された世界に一人で居ても、今なら全然寂しくはなかった。
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