第2話 夏
「春花の夏服、やっぱ好きだ」
突然の告白に僅かにドキッと揺らいだがほんとそれだけ。もっと甘酸っぱく感じたかったのだけれど、そうはいかなかった。
その要因となっている声の主、黒猫になった橘夏樹を見る。
人間様から晴れて黒い毛糸球にジョブチェンジした彼女は、香箱座りのままクーラーの真下でウトウトしていた。
猫の香箱座りってどうして指を挟みたくなるのだろうか。
誰しもがあのフォルムになった猫の腕の間、どのように折りたたまれているかわからない楽園に指を入れてみたいと思った事があるだろう。
そして私は今、無条件にその機会に恵まれている。ここで逃していつするというのだろうか。
私は何の断りを入れることなく彼女の腕の間にスポッと指を入れた。
少し遅れて気が付いたナツキは私の事を訝しんで見ていた。
「ん? どしたの?」
「……いや、なんとなく」
ただただポカンとしていた彼女に虚しさを感じたので、私はその楽園から指を出す。きっと夏樹は衝動に駆られなかった人種、いや猫種のようだった。
「それ、大学のパンフ?」
にゃーと鳴き声で私の視線を手許に戻す。
『A大学 キャンパスライフ』
私の手許にあったそれはカラフルな装飾が施され、中身が確認したくなるようなデザインになっていた。普段毎回毎回こんなにオシャレではないのだろうが、このような鮮やかな生活が待っているのだろうと思うと胸躍った。
高校三年生の夏。
誰もが新たな進路に向けて本格体に舵を取り始めた頃、勉強の文字が当てはまらない野球部の男子学生が、隣で単語帳を開いているのを見た時、私はそういう時期に自分も居るのだなとしみじみしてしまった。
それだけに進路というのは大切なものであやふやにしてはいけないのだということを、改めて知らされた。
「春花はさ、東京の大学に行くの?」
黒猫になったナツキが私をじっと見つめる。透き通ったビー玉の様な瞳が微かに揺れた。
「今のところは、ね」
「ふーん、そっか」
「……夏樹は?」
私は一番将来をあやふやにしている代表の様な存在に訊ねてみた。彼女が私に訊ねたようにさらっと。
ばつの悪そうに彼女は猫の手であちこちを掻いていた。仕草は一丁前に猫そのものだった。
彼女は立ち上がって伸びをした。ポキポキと骨の音が鳴るのは生き物共通の様で、鳴り終わった後どこかすっきりとした表情を浮かべた。
「にゃー」
それだけ言って体制を変えて再び寝る体制に入るナツキ。ごまかしかたも猫の鳴き声も上手くなってしまったと胸が痛んだ。
大学のパンフレットに一通り目を通すと情報量の多さに脳が麻痺して、机にバサッと突っ伏した。ベットから器用に私の机に伝って来たナツキも、机の上で丸まっていた。
カーテンの隙間から西日が差す。
オレンジ色に染まる自室を何も考えることなくぼんやりと眺めるのが私は好きだった。今日の一日の残りの時間を知らしてくれるようで、いつものんびりとしてしまう。
視界に入った卓上時計を見ると午後の五時を指し示していた。夕飯の準備をしないといけない。それなのに体がまったりすることを望んでしまう。
机に並ぶ教科書たちを眺めていると、ふと香ばしい香りが私の鼻腔をくすぐった。
家の夕食の臭いではない、ましてや他所の家の食卓の香りでもない。もっと単純明快で、そう生き物、獣の様な。
私は同じく机の上でダラダラするナツキの臭いを思いっきり嗅いだ。
これだ。
「あのさ、ナツキ。一応なんだけど、体洗ってる?」
「え? 勿論洗ってないよ」
「……えっと、いつから?」
「猫になってから?」
私は急いでスマホで猫の洗い方を調べる。
一応動物だし念入りに手入れしなくとも大丈夫なのだろうが、今は私の家にいる以上不衛生な状態にさせておくわけにもいかない。それで今までベットの上に乗っていたのかと一瞬脳裏を過ったが、今は兎に角情報収集に努めよう。
「猫用のシャンプーなんてあるの?」
「ふっふっふー、ペット達もとうとう人間と同じ地位まで上り詰めたという事かー。猫として鼻が高いよー」
「猫界で、アンタ何もしてないでしょ」
一人?で悦に浸る猫はそっちのけに、暫く調べてみたはいいが今からシャンプーを買いに行くのは現実的ではない事がわかる。とは言え洗わないのはもっと良くはない。
思い立った私は猫権を得たナツキをガッチリと掴み持ち上げた。
「にゃ、にゃーっ!」
話の流れから察したナツキは私の腕の中で一丁前に暴れて見せる。なので私も思いっきり掴んでお風呂場まで運んでいく。
――私が抱きかかえているのって、一応元同級生だったんだよね……?
そんな有り得ない疑問が過りながら、お湯を人肌程度に温めて桶に溜めていく。洗われる当の本人は毛が逆立っていた。
「やめろ、やめるんだ!」
「ダメ。観念しなさい」
「水に入ると、入ると……うっ、持病の発作が」
「持病がある人はタバコは吸いません。それに――」
私の目線までナツキを抱き上げ、鋭い眼光で睨んで見せた。
「臭いよ、ナツキ」
豆鉄砲でも喰らったかの様に、ビー玉の様な瞳が忽ち見開かれていく。
効果は抜群だった。
私の一言が想像以上に効いたのか、ナツキは洗い終えるまで、それこそ借り猫のように静かだった。臭いというのが大分響いたのか落ち込んでいるようにも見えた。心は未だにJKということか。
「痒い所は無い? と言ってもお湯で流しただけだけど」
「……無い」
シャンプーが無かったのでお湯だけになってしまったが、一応絡まった部分を手櫛で溶かし、汚れていた部分は念入りに洗った。
ちゃんと洗えているかはさておき、衛生的には大分マシにはなったと思う。
ぶるぶると体から水分を飛ばし、一人、いや一匹決意を固めたような瞳で前を見据えていたナツキ。
「これからは洗おう……春花が」
「……ですよね」
決意の眼差しは一点、浴室のドアだけを見ていた。言い過ぎたかななんていう私の反省を払しょくするかのような様子に、思わず肩を落とす。
しっかりと拭き終えた私がドアを開けると、ナツキは一目散にその場を後にした。
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