旅館

 これ、僕が旅館で働いていた時の話なんですけどね。

 あ、今はもうそこで働いてないですよ。大学を卒業したと同時にそこも辞めました。

 僕の働いていた旅館はまあまあの高級旅館でして。

 部屋が全部で7つしかなかったり、食事も全て部屋に運んだりするような、まあ、お客さん本位の旅館だったんです。

 バイトをし始めた時こそ多くのことに手間取ってました。お皿の位置から布団の敷き方まで。

 ただ、少なくとも1か月ほどやると徐々に慣れてくるわけで。なんというか、こう、視野が広がるんですよ。

 今までは目の前の仕事にしか向かなかった意識が、ふと別の気になるモノに移る。

 そう。ちょうどバイトを始めて4カ月ほどの頃でした。

 旅館って、度重なる改修や老朽化で使用禁止の部屋、というのがどうしても出てきてしまうんですね。

 それで、最初は気づかなかったんですけど、その旅館にも使われていない部屋というものが存在しまして。

 つまり、僕が最初に言った『部屋が全部で7つしかない』というのは、実は8つだったわけです。

 なんだかいやに気になって、女将さんに尋ねたんです。

「この部屋って、使われてないんですか?」

「ええ、使ってないです。古くなって雨漏りしたり、床の間の木が傷んだりしてますので」

「なるほど」

「だからあそこには入らない方がいいですよ。下手したら床が抜けますからね」

 確かこんな感じの会話をしたはずです。

 まあその時は納得しました。今となっては明らかに変だと思います。

 普通に考えてこの旅館が使用不可のまま放置なんてありえないんです。修理する余裕は時間的にも金銭的にもありましたから。

 とある日の朝のシフトの時です。

 お客さんが全員チェックアウトして、僕たちはお客さんが利用した茶葉や浴衣の補充をしていました。

 何の気なしに、例の部屋の前を通ったんです。

 扉が開いてました。

 僕は周りに誰も来てないことを確認すると、隙間から中を覗きました。

 パッと見た感じ、女将さんの話ほど木が腐っているような感じではなかったんですよね。

 僕は小さな好奇心に背中を押されて、その部屋の扉を押しました。

 ギィーッと、嫌な木の軋む音がして扉は開きました。

 僕は、今でもあれが何だったのかよく分かってないのです。

 なんであの部屋にあるのかも分からない。

 だって変でしょう。


 箸の刺さったご飯と、線香と、奇麗な布団が敷かれているのは。

 それを見た時、僕はすぐに部屋を出ました。

 まるで人が死んでいるかのような、そんな様相でした。

 何より僕が嫌だなと思ったのは。

 その布団に誰もいなかったことです。

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