第7走

 遠くに人影が見えたが多分まだこちらに気がついていない。これ以上この傾斜を登ってもその先は崖で後がない。


 ここが見つかると思わなくってどん詰まりの隠れ家を選んでしまった。

 失敗した。木を伝って傾斜下に降りるか。そんなことを木の影で考えていたら。


「殿下!危ない!」


 その声で反射的に身を翻した。僕が先ほどまで身を潜めていた木の上から人が降ってきた。ポニテだ。

 僕が避けたことに驚いて、さらにテトラが蔦の間に立っているのを見てさらに目を剥いていた。


 頭上から来るとは思わなかった。こいつらどんだけだよ?暗殺者か?!


「いたよ!こっち!」


 ポニテの声を聞いたカチューシャが駆け上がってくる。その背後にリボン。うっわ。ボスが揃う!


 テトラが僕の手を取って走り出した。正確には歩く速度なんだが逃げようとしている。確かに走っている風なんだがなんでこんなに遅いんだろう?

 だからカチューシャにすぐ追いつかれた。飛んでくる手刀を腕で受ける。


 もう横穴にも戻れない。テトラを背に庇いながら必死に考える。残り時間はあとどのくらい?できればテトラに見られたくなかったのに。

 追いついたリボンの蹴りが飛んでくる。足場が悪い傾斜地でもぐらつかないのはすごい体幹だ。僕の護衛にスカウトしたいくらいだ。


「テトラ!逃げて!僕もすぐ行く!」


 リボンの怒涛の蹴りを受け流しながらそう叫ぶ。リボンが楽しそうに笑っている。なんか熱くなりすぎだ。これは戦闘狂の顔だろう。


 背後でテトラがよたよたと傾斜を駆け上がる気配がする。そこではっとして背後を振り返る。



 そっちじゃない!



 この傾斜の先は崖。この時点で相当傾斜を登ってしまっている。テトラはそれを知らない。

 血の気が引いた。逃げる方角を言わなかった僕の失態。致命的だ。

 よそ見を許さないとばかりにリボンの拳が飛んでくる。テトラを止めないと!攻撃が邪魔だ!


「ごめん!」


 身を翻しリボンに後ろ蹴りを入れる。これだけの猛者だ。腕で防御できるだろうと踏んでの後ろ蹴りだ。

 リボンが両手で僕の蹴りを受けたが傾斜の下側にいたから勢いで背後に倒れ尻餅をついた。目を瞠り驚いた顔をしていた。

 鬼には攻撃してはいけないルールだが仕方がない。急いでテトラを追った。


 アドレナリンが出る。恐怖を上回る何かが体を駆け巡る。


「テトラ!ダメだ!止まって!そっちは—— 」


 テトラが振り返るがその体がガクンと崩れた。歯を食いしばり傾斜を駆け上がり手を伸ばす。


 間に合え!!


 景色がゆっくり動く。驚いたテトラの顔、仰向けに倒れるも手を僕に伸ばそうとしている。

 普段ではありえない加速、それに助けられテトラの伸ばした手を必死で掴んで、手繰り寄せて、ぎゅっと引き寄せる。華奢なテトラを身の内に抱き寄せ一瞬安堵したが



 —— 間に合わなかった



 落ちる!!


 テトラを抱き寄せたと同時に体が崖から飛び出した。風が耳を切る。どこかで甲高い悲鳴が聞こえる。


 腕の中のテトラをただ必死に抱きしめて衝撃から庇う。落下のはずなのになぜか浮遊感。こんなに高かっただろうか。でも接近する風景が見える。身を強張らせ目を閉じる。


 崖に生える木に突っ込んだ。木の枝が顔を掠め血が飛ぶ。バキバキと木を突き抜けて。


 その後にざぶんと冷たい衝撃が襲ってきた。

 




 テトラの濡れた体を支えて浅瀬までたどり着いた。


 落ちた場所がちょうど湖の深みだったから酷いことにはなかった。ならなかったが。

 崖から湖に落ちた時点でダメだろう。木がなかったらもっと酷いことになっていた。


 今は夏の終わりかけ、この間もこの湖で泳いだから水温は冷たくない。でも服のまま泳げは体は消耗する。なんだかとんでもなく疲れた。


 心が折れて浅瀬に座り込んでしまった。驚いたテトラが気遣うように手を握った。テトラが泳げて本当によかった。


「大丈夫ですか?どこか痛めて?」

「僕は平気。テトラは?」

「私も大丈夫です。殿下が庇ってくださいましたから。」

「‥‥よかった‥」


 本当によかった。今更ながらに体が震えてきた。

 テトラが悲しげに俯く。


「殿下‥‥ごめんなさい、私のせいで。」

「違う!君は悪くない!僕が悪い。全部僕のせいだ。」


 テトラがハンカチで僕の頬の傷を気遣うように拭ってくれた。テトラの慰るような、囁くような声に打ちのめされる。その慰りがとても痛い。


「‥‥‥ごめん‥」


 そう呟いて俯き傷を拭うテトラの手を握った。


 なにが守るだ。全然じゃないか。致命的なミスだ。

 隠れ家の選定も逃げる指示も。テトラに怖い思いをさせて湖に落ちて。下手したら僕が彼女を傷つけていた。


 俯く視界がぼやける。頬を雫が伝う。髪からか目からかわからない。多分髪からだろう。だが怖くて悔しくて止まらなかった。


 顔を拭うフリして目元を拭い遠くを見やれば湖畔に人の集まる気配がする。

 うろうろするスタッフと、駆けつけたボスの三人。それにあれはルッツか?

 こちらに駆けつけようとしているスタッフをなぜか制止している。もう残り時間もないだろうに?まだ鬼ごっこを続ける気か?


 多分タイムアウトに入ったと思うがもうこれ以上走れない。走る気力もない。完全に折れた。


「ごめんねテトラ、どうか棄権を。もう僕は君を守れない。」


 そして残り時間で僕は捕まるから。


 テトラが頭を振って僕を立たせようとする。彼女から悲壮感が溢れている。まだ諦めていないんだ。


「いやです、一緒に‥‥」

「ごめん、もう無理だ。走れないんだよ。怖い思いをさせてごめんね。これ以上君が怖い思いをするのは嫌だ。君が怪我するのはもっと耐えられない‥‥」


 僕を覗き込むテトラの顔を震えて見上げた。

 言葉にすればまたあの凍るような恐怖が体をめぐり心臓が痛い。また雫が頬を伝った。


 見上げたテトラは濡れていた。

 濡れても可愛いなんてズルくないか?


 ああ、そういえば。彼女は人魚姫だった。



「僕は君のことが好きなんだ‥」



 するりと言葉が出た。

 伝えたくて。でも意気地がなくて出来なくて。

 三ヶ月も。あんなに心が痛くて苦しんだのに。


 心が折れて。燃え尽きて。もう何も考えられない。

 ただ君をこの世から失ったかもしれなかったという恐怖に支配される。


 照れ臭い?

 振られるのが怖い?

 嫌われて避けられたらどうしよう?


 そんな些細なことさえその恐怖で振り切れてしまった。


 言ってから視線を水面に落とした。足元のぬるい水にまた雫が落ちる。辺りに沈黙が落ちた。


「殿下」


 テトラの掠れた囁きと、僕の両頬を包む柔らかい手に視線をあげれば目の前にテトラの顔があった。

 唇に柔らかい感触。すぐに離れたからキスだと気がつくのに一瞬遅れてしまった。

 鼻が触れ合いそうなほど間近のテトラが微笑んで囁いた。



「本当は殿下にキスいただきたかったんですよ?」



 その言葉に目を瞠ったその時。



 ピィィィィというジルケの笛の音。それに黄色い歓声と拍手。そしてあいつの声がした。


「はいゲーム終了!皆さんお疲れ様でした!」


 その一連に二人でキョトンと湖畔を見つめてしまった。


 そこには鬼役の令嬢が多分全員、皆嬉しそうにしている。そして疲れたような安堵したような苦笑のルッツ。笛を手にジルケは遠目でわかるほどに笑顔だ。

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