第14話 負けたくない⑤
「失礼します」
金曜日の放課後、私は原稿用紙の束を携え進路指導室を尋ねた。
ドアを開けると、窓際のデスクに
「針谷先生」
「……ん、」
「これを」
デスクの傍らに立って呼びかけると、針谷先生もノートパソコンを閉じて、私と向き合ってくれる。そうして私が差し出した原稿用紙を見て、「ああ、反省文」と頷く。
「ご確認ください」
「……わかった」
中心で半分に折られた原稿用紙の束。苦み走った顔つきの針谷先生が丁寧に受け取る。
中身を開いて、きょとんと間抜けに目を見開いたまま停止した。
白紙の原稿用紙は中心に折れた跡がついている以外は、真っ白になにも書き込まれていない。受け取った時とまったく同じ状態だ。
「針谷先生ですか?」
短く、あまりにも言葉の足りない問いかけ。けれど十分だった。
針谷先生がゆったりと顔を上げる。
レンズの奥で弓なりの瞳が細められる。白い唇が淫靡に歪められた。
「好きだよ金森。早く俺のものになって」
一瞬にして背筋を怖気が駆け抜ける。脚が竦み、膝が崩れそうになって、なんとか堪えた。
奥歯を噛み締めて深く息を吸い込む。
……負けるな。
「どうして、私を」
震える声で問うと、針谷先生がふふっと微笑を漏らす。そうして恍惚とした眼差しで私をうっとりと見上げた。
「どうしてって、決まってるじゃないか」
恋に溺れる乙女の微笑が、一瞬にしてごっそりと削ぎ落される。
「相模なんかに手を出すから」
ぞっとするほど冷たい声だった。
針谷先生がゆったりと腰を持ち上げる。反射的に一歩退いて距離を取った。
これ以上続きを喋らせてはいけない。私は声を張り上げる。
「どうしてこんな真似をしたんですか……っ!」
天文部の部室で相模に事情を打ち明けたあの日以来、私はずっと、手段の面から疑わしい人物を探っていた。すなわち、誰が犯行可能なのか。
私がひなの無実を信じることができたのには明確な理由がある。
一年前、二学期の中間テスト。国語総合の試験中にひなが座っていた席は、普段の席順で私が座っている席だった。
あの日あの席が空であったことを私は知っている。だから、机の中からカンニングペーパーが出てきたなんて、誰かが仕掛けた悪質な悪戯か、なにかの間違いだと思っていた。
けれど今回私の席からそれが見つかったことで、すべての点が鮮やかな線となって浮かび上がる。
もし、一年前の事件が、私を狙ったものなら。
背筋が凍る。針谷先生は芝居がかった仕草で肩を竦めてみせた。
「そんなに怒らないでくれよ。俺はただ、金森に頼ってほしくて。こうでもしないと、金森は頼ってくれないだろ?」
納得できてしまう部分があるのがまた腹立たしい。
ああそうだ。私は今回の事件ではじめて、針谷先生を頼もしいと思った。あの日応接室の外で「信じてる」と告げられて、この人を受け入れてみようかと一瞬でも思考に過ぎらせた。
そうして今、すべて裏切られた。
深く息を吐き出して、頭を冴え渡らせていく。
冷静になれ。ここからが勝負だ。
「……このことは、他の先生たちに報告します」
「ははっ」針谷先生が歪な笑い声を上げた。「無意味だよ。誰も子供の言うことなんて信じない。俺だけが信じてあげられる。たった一人、俺だけだ。だからおいで、金森」
吐き気がする。
怒りに身を任せて殴ってやれば多少はこの胸の蟠りも解消されそうだ。だけど、今ここで私が成すべきことはそうではない。
だから私は不敵に微笑んで、胸を張り、針谷先生を見上げた。
「ケツに火点いてるわよ。先生」
ぽかんと口を開いて固まる。訝しむように瞳を細めて、その視線を私の全身へ滑らせた。やがてそれは胸元で止まる。
ブレザーの胸ポケットから覗くスマホ。カメラは針谷先生へと向けられている。
息を呑む。同時、針谷先生が両手を広げてぐわりと襲い掛かってくる。
覆い被さるように体当たりをされて、背後にあった棚に背中を強く打ち付けた。
がしゃん!
派手な音を立てて書類やらファイルやらが足元に散らばる。
私は先生に奪われないように胸元からスマホを抜き取って両手で抱え込んだ。その上から針谷先生が両手を被せ、渾身の力で私の拳を開かせようと試みる。
男女間における力の差は圧倒的だ。きつく閉じ込んでいた拳の中に針谷先生の指が入り込む。見る見るうちに隙間がこじ開けられていく。
胸骨を圧迫するように拳を抑えつけられて、息が詰まる。うまく呼吸ができない。段々と暗くなる視界に火花が散る。自然と拳から力が抜けていった。
針谷先生が勝ち誇ったかのように笑う。
すべてを諦めかけたその瞬間、派手な音を立てて進路指導室の扉が豪快に開け放たれた。
「そこまでよ、針谷先生」
私も針谷先生も同時に入口を見遣る。
シニヨンにまとめられた黒髪。
赤いフレームの鮮やかな眼鏡。
そのレンズの奥で鋭い光を放つ理知的な瞳。
「──か、」
声を発しようとして、肺を圧迫されていたことを思い出す。
げほげほと咳き込む私のもとへ、鹿島さんが一直線に駆けてくる。そうして華奢な体で針谷先生に体当たりをかまし、その体を吹き飛ばした。
「かっ、がは、……っはあ、はっ、」
「落ち着いて、ゆっくり息を吸うのよ」私の肩を支えて、背中をさすってくれる。そうして一転、傍らに倒れ込んだ針谷先生に獰猛な眼差しを向けた。「やりすぎたわね、先生」
「鹿島……っ、なんでお前が来るんだ!」
「当然、あなたを止めるためよ」
冷静に呟いた鹿島さんが、手のひらに握りしめたスマホを掲げる。
鹿島さんの胸に抱かれた私には、その画面がよく見えた──全部録画していたのか。
一瞬にして針谷先生の顔が青ざめる。
スマホを奪い取ろうと手を伸ばすよりも早く、鹿島さんは鍵を一瞬で開錠する。そうして荒々しく窓を開け放った。
冷えた風が吹き込み、床に散らばった書類が舞い上がる。
大きく揺れるカーテンの奥で、鹿島さんは握っていたスマホを一切の躊躇なく階下へと投げ捨てた。
「はあ!?」
針谷先生が素っ頓狂に叫ぶ。私も同じ気持ちだった。
直後、階下から野太い悲鳴が上がる。
「鹿島ァー! スマホが落ちてきたぞーーーッ!!」
「ナイスキャッチよ、先生!」
窓から身を乗り出して、鹿島さんは階下に向かって叫んだ。
私もよろめきながら窓辺に寄り、彼女と同じ景色を見下ろす。
進路指導室の真下に、野球用のグローブを装着した体育教師がこちらを見上げている。
どうして、あんなところに先生が。
呆然とする私を振り返り、鹿島さんは顔の隣に横ピースを添えるとひと言、平坦な声で言い放った。
「優等生特権よ。いえい」
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