春が来るまえに
@yama_tsuki
物語はただ、絵師と少年の邂逅
目の前でつむじ風が舞い上がって、僕は「わっ」と声を上げた。咄嗟に口を押えたけれど、一人赤くなっている僕を誰も見てはいない。
それでも何となくその場にいたくなくて、ただでさえ小さい身体をすぼませながら、すぅっと道のわきに身を移した。身を預けた木の壁、視線の先でイモムシが這っていたが、そのままぼんやりと伸縮する身体を眺めていた。
彼の進む先に視線をやると脇道から茜色の光が差し込んでいて、僕は惹かれるがまま身を起こして壁沿いに歩いた。
賑やかな道から一歩脇に入ると、急に視界から人が少なくなり、代わりに真っすぐこちらを照らす夕日と対峙することになった。頭上は、既に夜を手招きするように少しずつ藤色に染まり、さらにその後ろにはずっしりとした濃紺が広がっていた。
どれくらいそうしていたのだろう。不意にどこかから、「おい、おい」という声がして僕は身体を起こした。頭がくらくらして、方向感覚がない。ゆっくりとあたりを見回すと、僕の視線を確認するように、ひらひらと手を振っている人がいることに気がついた。夕陽の影になっていて、しかも建物の奥にいるものだから、背格好すら分からない。
「おーい…、そんなに見上げてると頭に血が昇るぞー」
僕が気づいたことに気づいたのだろうか、探るような声が、ぽーんと耳に響いてきた。その声に引かれるように、不思議となんの警戒心も抱かぬままふらりと暗い室内に一歩踏み入れた。
「おっと」
もう一歩踏み出そうとしたときに聞こえた声で、僕は足を止めた。
「待て待て、その足は後ろに仕舞ってくれ―、その先には一応商品があるんでね。」
言われて地面に目を凝らすと、土にまみれた薄っぺらい紙が置いてあった。
「あ…すみません」
さっと足を戻すと、僕はその紙を拾い上げた。
『商品』と言うには砂を被りすぎている。僕の知っている紙の半分くらいの厚みしかないいかにも安物の紙の下には、かすれた筆で『東海道五十三』と書いてあった。
「これ―」
僕はその字を指差して言った。
「とうかいどうごじゅうさんつぎ…のことですか?『次』が抜けているわけでは…」
「おや」
表情は見えなかったが、なんとなく声の主が微笑んだのが分かった。
「少年、歌川広重を知っているのかい」
「えっと…まあ、その…」
言いたいことと言いたくないことが頭の中でぐるぐるして、どう答えたものか困った。すると、「すまんすまん」と軽い謝罪が飛んできて、僕はほうっと顔の力を抜いた。
「誰にでも口にしたくないことの一つや二つあるもんだ、今の質問は忘れてくれ。だがな、読み方はそれじゃあちと違うんだよ」
僕は首をかしげた。
「おっと少年、そのまま動くな」
読み方を教えてくれると思ったのに、急にそんなことを言われて戸惑った。理由を聞きたくて口を開こうとしたら、「そのまま。喋るな」と言われて再びきゅっと口をつぐんだ。
途端声の主は一言も発さなくなり、というより僕との繋がりが一切絶たれたようになり、けれど周りの喧騒は、一音も僕の耳には入ってこなくなった。
どれくらい経っただろうか。僕の首がぷるぷると悲鳴を上げだし、止まったままの体が初春の寒さを感じだした頃、小さく「いいぞ」という声が聞こえた。先ほどの声とあまりに違う声だったものだから、本当に動いていいものか悩んだ。しばらくそのままの姿勢でいると、今度は声ではなくはっきりとした視線を闇の中から感じて、僕はようやくおずおずと体を動かした。
みしみしと音を立てそうな身体は、いかにも機(からくり)だった。
ひとしきり体の至るところを点検してから、僕は口を開いた。
「今は…もしかして僕を描いていたんですか?」
闇に慣れてきた視界で声の主が眺めていたのは、おそらく僕が踏みそうになった紙と同じもの。そして左手に持っていたのは、細い鉛筆のようなものだった。
彼は笑った―僕にはそう見えた。
「そうさ」
なんでですか、そう聞こうとしたのが分かったように、彼は言葉を継いだ。
「お前がようやく少年らしい表情をしたからな、記念だ。」
「―え」
思ってもみなかった返事に、僕の口からは声ともつかない音が漏れた。今は既に濃闇で、彼が描いていたときは僕の右側から日差しが当たっていた。そもそも彼に、僕の表情が見えるわけない。
(見えるわけない―のに)
なぜか彼の言うことを否定する気になれなかった。はじめて会ったはずなのに、彼が言うならそうだったんだろうという気になった。―なりたかったのかもしれない。
「ほら、持ってけ。」
そう言って渡された薄っぺらい紙には、今より大分成長した自分が、今の年相応な間抜け顔で首を傾げる様子が描かれていた。正直言って、非常に滑稽だ。
裏を見るとやはり、『東海道五十三』と署名がしてあった。
表を見返していると腹の底から静かに笑いが込み上げてきて、絵を抱えてしばらく小さく笑った。声を上げて激しく笑うよりずっと、凝り固まっていたものがほぐれていくような気がした。
「笑うな。」
そう言う彼の声も笑っていた。
「こういうのはあんまり専門じゃないんだ。」
それから僕はひとしきり笑った。笑ったあと、
「―ありがとうございます。」
ただそれだけを言った。頭を下げたとき彼の傍に古びた刀が見えたけれど、代わりに僕は、「また来てもいいですか。」と尋ねた。
彼は漆黒の中で彼はちょっと驚くと、小さくゆっくりと首を振った。
「俺は明日にはこの町を出るんだ。だからもう、二度と会えないさ。」
「…そう、ですか。」
陽は完全に沈んでいる。ピィーッという笛の音と、彼の「そうさ」という声が重なった。
明日から三日間は町の祭り。今夜はその前夜祭。
大通りに戻ってきた耳に再び聞こえてきた街の喧騒。五月蠅いだけのそれは混沌として面倒で、けれど愛しい。
団子屋の軒下では、二羽の燕がせっせと枯れ枝を集めていた。
春が来るまえに @yama_tsuki
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