『大人のシャボン玉』シャボンに込める大人の気持ち

N(えぬ)

大人が吹き出すシャボン玉は中に何が詰まっているのか?

 街では名の知れた広告業のS社の、その中で中沢正樹なかざわまさきは社の業績の半分以上を一人でたたき出すような、優れたプロジェクトリーダーだった。


 S社が有名と言ってもこの地域でのことだったし、中沢が優秀と言ってもやはりこの地域での話に過ぎない。

 ただ、このS社が中沢に牽引されて急速に勢力を拡大していることは確かで、周辺の会社はS社の急進に戦々恐々としていた。

 今何かの仕事でS社と競合するというとき、他社は「ああ、S社と競合か」「ううん、あの男がいるところか」と呻るしかなかったし、S社の陣営は「うちには中沢がいる」と、その信頼に心強く支えられて仕事に臨めた。


 中沢正樹がクライアントに自社案をプレゼンテーションするとき、彼は壇上に立っただけで、一言も話さぬ前に人の心を掴むことが出来た。

 端正で爽やかな顔立ちとすらりとした長身にはスーツがよく似合った。そして彼の全身が醸し出す清潔感。それらは、それだけでもう圧倒的な好印象を見る者に与えた。

 こういう中沢を相手にして、疲れた顔でそのくせ油っぽい肌の頬が下がり気味で腹の出た中年男が競合社として続いてプレゼンなどに出てきた日には、それだけで勝負あったという感じがするのだった。


 そんな中沢は弁舌も鮮やかだった。「まるで俳優」といわれる、声の力と言える説得力が彼のプレゼンにはあった。クライアントへの提案の内容がほとんど同じであっても、それを盛り上げ全てを納得させ信じさせる力が中沢のセリフには組み込まれていた。



 都市を代表する会社になりつつあり、その会社の若きリーダー中沢正樹にも悩みはあった。


「中沢さんみたいに若くて伸び盛りの人は、いろいろ誘いも多いんでしょう?ヘッドハンティングっていうんですか」

 懇意にしているバーのマスターが静かに話しかけた。


「え、ああ。そういうのもありますね。嫌がらせみたいのもあります。社内でね……。僕は、そういう圧力には強いので、気にしてませんが」

 中沢はそういう愚痴のようなことを言うときも明るい顔をしていた。


「人から慕われるだけ力があって、苦境をはねのける力もある。いいですねぇ。そういうのは才能もあるでしょうけれど、若さの持つ生命力って言うのかな?わたしみたいな年になってくると、若さの力って言うのをすごく感じるんですよね。違うかなぁ」

 マスターは、よく整えられた、かなり白くなった頭の脇を軽く人差し指で掻いて見せた。


「ハハハ、それはあるかもしれません。若いって言うのはいい。君は若さで輝いているよ、なんて、社長に真面目な顔で言われちゃいました。……でも」

 中沢は少し気弱な態度になった。


 彼の態度を見てマスターも少し同調した。

「でも?……やっぱり少しストレスになりますか?」


「ええ。なんかこう……ね。


「そうですよねぇ。みんな大なり小なりストレスは抱えていますね」

 マスターはカウンターを挟んで中沢の前に立ちグラスをピカピカに磨いている。


「こんなこと考えたくないけど、みんな僕のことを褒めた裏で、なんて言ってるかわかりゃしませんからね」


「ふぅん。どこの世界でも、そんなものなんですねえ」


「現実を目の当たりすると。やっぱりキツいですよ。でもそういうのには負けたくないんです。僕は今の会社を僕の力で大きく強くしたいと思ってるんで」


「中沢さんのそういう所を見ていると、やっぱりバイタリティがあって、いいですねえ。男ながら惚れてしまいそうですよ」


「ハハハ」



 地球を取り巻く環境の研究をしているこの施設では、昔とは比べものにならない緊急性が漂っていた。それほど地球の人類、生命の危機への速度が早まっているのだ。


「所長、最近高空の大気中で発見された、この成分は、一体何なのでしょうね?」

 研究着すがたの青年が言った。


「それだよ君。今まで、地球に影響を与える大気の成分はいろいろ考えられてきたが、今回発見されたその成分は、全く未知の謎の成分である上、とにかく影響が大きい……驚くほどに」



「……ストレス解消は。まあ、こうして、お酒で解消というのは定番ですね……」


「そうだなぁ。一番手っ取り早いストレス解消法かなぁ、僕にとっては。美味いウィスキー!」


「毎度、ありがとうございます」

 中沢とマスターは小さく笑い合った。


「ストレスと言えば……中沢さん。実は変わったものが手に入りましてね。中沢さんなら信用できるから、紹介しようかな」

 マスターが中沢にささやいた。


「なんです?変わったもの?」


 マスターは振り返って棚から何か取ると、液体の入った、ちょうど手に乗るくらいのプラスチック容器と小さい輪のようなものが先に付いたストローを中沢に見せた。

 容器にはこう書いてある。


「大人のシャボン玉?なんなのです、これ?」

 中沢はマスターの顔を見た。


 マスターはクスクス笑いながら、言う。

「シャボン玉って、ストローに、ただ息を吹き込むだけでシャボンの玉がたくさん出たり、大きいのが作れたり、いろいろ遊べて子どもは大好きでしょ?それの『大人向け』ってことです」


「たしかに、こういう容器に入ったシャボン玉飛ばすヤツ?は見たことあるけど、大人用ってのがおもしろいね。なんか派手なヤツが出来るとかかな?」


 中沢は、自分の手には受け取らずマスターが差しだした手の上のそれを見ていった。


「どうです、いまなら時間もあるのでやってみますか?」


 マスターに誘われるまま、中沢は店の裏口から外に出た。そこは、いろいろものが置いてある狭い路地で、ほかの店もこの路地側に裏口が通じているのだろう。薄暗い街灯が一個だけ灯っていて、路地の先は表通りだ。そこには人の往来が見えた。


 マスターは「大人のシャボン玉」と黄色地にピンクの文字のプラスチック容器の口をひねって開け、それとストローを中沢にくれた。


「輪っかが付いたほうが先で、そこを容器の中の液体に浸けて吹いて見てください」


「ああ、うん。それは、むかしやった覚えがあるのと同じだね。なつかしいなぁ」


 中沢はそう言いながら、ストローに口を付けて軽くフゥッと吹き出した。直径2センチくらいのいくつものシャボン玉が立て続けにストローの先から飛び出し流れてゆく。そして急に風に乗って空高く舞い上がっていった。


「ははぁ。ほんと懐かしいな。こんなことするの何年ぶりだろう。ちょっと吹き方が強かったかな。……ああ……でも」


「でも?どうです?」

 マスターは中沢の顔を見て含むように笑った。


「なんだこの感じ……変な気分だよ。すごく気持ちが楽になるっていうか、なんともいえないな」


 中沢はそう言うと、またストローの先に液体を付けて、今度はゆっくり慎重に吹いてみた。今度はゆるゆると大きなシャボン玉が出来てゆく。彼はそのシャボン玉が壊れないように、慎重に息を吹き込む。そしてもうこれ以上大きくならないと踏ん切りを付けて、ヒョイとストローの先を振る。


 すると、ブルンと揺れてバレーボールほどもあるシャボン玉がストローの先を離れて、ゆっくりと彼らの前を漂い始めた。そして、中沢は、ストローを持った右手を胸に当て、目を見開いてシャボン玉の行方を目で追い、そしてマスターの顔を見た。


「なんていい気分だ。フゥッと吹いていると、なにか自分の体の中のイヤなものが外に出て行く、そんな感じがする」


「そうでしょう?それが、『大人のシャボン玉』ってことなんですよ。吹くと自分の腹に溜まったストレスがシャボンの玉に入って行くんです。そうして膨らんだシャボン玉は風に乗って、空高くどこへともなく消えていく」


「そう、そんないいものがあるとは、驚いた……、とにかくこれはいいね。病みつきになりそうだ」


「でも、あんまりやっちゃいけません。これをやりすぎると、ボーッとしたままになって、人間としてダメになってしまうんです」


「そうなの?人間、少しは常に軽いストレスで緊張していないとイケないってことなのかな?」


「そうなんでしょうかねえ……わたしも詳しくはわからないんですがね。くれた人から、そう言われたんです」


 中沢とマスターは、ゆっくりゆっくり空に昇っていく、さっきの大きなシャボン玉を見あげていた。

 中沢は小さくなっていくシャボン玉を見上げながら、


「ところであれは、割れると、中に吹き込んだストレスって、どうなるんだい?」


「いあ、それはわたしも知りません」


 中沢とマスターは晴れやかな顔で笑っていた。

そしてマスターは続けた。


「ふだん人が話すとき、ことばと一緒にストレスが外に出て行くんだそうです。そう言うのって感じるでしょう?気が置けない友人と話していると自分の気持ちが楽になるって言う感覚。でも、そういうときに人から吐き出されたストレスは周囲に吸収される。そのまま周りの人のストレスになるってことらしいんです……つまり日頃は、みんなお互いにストレスを共有して解消してるんですね。ところが、この、シャボン玉にストレスを吹き込んで、ふぅっと吹いて玉にして空に飛ばすと、それは周囲の人に関係なく空高く上がっていく……」


「ほぇぇ」

 中沢とマスターが空に上がっていく、ゆらゆらと風に舞うシャボン玉を見えなくなるまで目で追っていた。



「所長。東京上空の大気に未知の物質が含まれている件ですが……また検出されました」

 研究所の職員達は、また忙しく動き出した。


「ううん。この物質は一体どこから来たのか、どこから発生しているのか……引き続き、調査を続けてくれ。とにかく発生源を早く突き止めねば!」


「はい、わかりました!」


「これが何かわかれば、地球の環境悪化が解明されるかもしれない」

 科学者は報告書に目を落とした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

『大人のシャボン玉』シャボンに込める大人の気持ち N(えぬ) @enu2020

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ