三 男女

僕の恋という衝動の発散方法は、それから逃げることだった。

中学三年生の夏、再びマリが僕のことを好きだという噂が立った。

マリの恋の表し方は誰かに共有することなのかもしれない。

この時、僕はまずその喜びを噛みしめ、そして過去の自分の恋を失敗と定め、襟を正した。

失敗と定めたのは好きな人を、僕の行動によって苦しめたからだ。

その事実から滲み出た苦痛はマリが別の人と付き合ってくれたことで薄まった。

マリが僕以外の人と付き合うことも、もちろん苦痛だが、マリに一途に想われることから来る自責の念に比べれば楽だった。

独りで物思いに耽ることが多い僕には、自責の念ほど重いものはなかった。

自分がもたらす後悔と実感からくる精神的自己攻撃に対し、自己弁護は機能せず、無防備な身体を自責の弾丸は容赦なく貫くからだ。

そんな僕からすると、それを和らげる報いとは苦楽どちらでも心地よいもので、それがなければ僕は僕の存在に耐えられないだろう。

マリが再び好意を寄せてくれたのも、僕の行動がもたらした報いだ。

マリからの好意がないものと思っていた僕は自分を良く見せてでも振り向かれたかった。初めの内は視線を合わせようとした。しかしあの頃と違って全く合わなかった。

やはりと思いつつも心臓からじわりと悲しみが滲み、胸に広がる。

ここで僕は嘘に手を出す決心をする。

何者かを演じようと仮面を被り壇上に立つ思いだった。

基本的に仮面はかぶっていたが、誘発的嘘から自発的嘘への一歩を踏み出したのだ。

その成功とも言えるのが中学3年生の春に行われた修学旅行での出来事だった。

夜の旅館にて、消灯時間にも関わらず班のみんなでお菓子をつまみながら頼りないライトで手元を照らし、大富豪に興じていると、一足先に上がった僕はなんとなく席を立った。部屋いっぱいに並んだ6人分の敷布団の合間を縫いながら窓に赴き、それを少し開ける。ヒュウウという心地よい暗闇に顔を撫でられる。やがて、空にポツンと浮かぶ白い月が顔を青白く照らし、その光が目に障った。ほどなくして、背後から何カッコつけてるんだよ、とよくつるんでいた友達のシュウジに茶化される。その言葉に抵抗を覚えるも、言い訳を飲み込んで笑ってごまかす。

場を和ませたり、盛り上げたりする為に役を演じる僕は突然糸が切れたように黙ったり、ぼーっと外を眺めてしまうことがあった。そういう姿が余計にカッコつけている様に映ってしまうのだろう。僕は何度か黄昏屋やカッコつけと言われ、その度に、それから来る恥を開き直れない防衛心が、僕の肩身を狭くした。

シュウジは窓を大きく開けるとベランダに出た。その一連の動作を意味もなく探る。

シュウジは僕のお守りのような存在だった。幼稚園と中学校が同じだったが、幼稚園の時はそれが顕著で僕が他の誰かと取っ組み合いになった時には決まって加勢してくれた。

それでいて仕草や考え方は女々しく、僕は度々恋の相談を受けた。

シュウジは中学の3年間で5人もの恋人を作るくらい色恋に激しかった。結局そのすべての女性を見事に振っていたのだから相談役として応援していた身からするとやるせなかったが、その無意味さが何とも面白かった。少し前まで好きと言っていたのに何か違うといい別れたがる。理由は分からなかったし察することもできなかった。そういうシュウジの動向は理解しきれず、ただあるままを捉えることしかできなかったが、それがすごく見どころのある友だった。

そういえばシュウジが付き合った女子のうちの一人はマリだった。僕はそれに対して一切の不満がなかった。小学生でのマリとの一件で苦い思いをしたこと、いつか別れるだろうと思っていたこともあるだろうが、それよりなによりシュウジに対しては嫌に思えない何かがあった。

シュウジへの憧れと言うべきか、愛着と言うべきか、友情と言うべきか、はたまたその全てなのかがそう思わせたのかもしれない。

マリへの恋心とそれへの後ろめたさ、そしてシュウジへの友愛が軋轢を生むことなく心に収まり、シュウジとマリの恋を素直に応援させたのだろう。

それゆえにマリとの破局を聞かされた時は一際ひときわその次第を聞かずにはいられなかったが。

シュウジの後を追うようにベランダに出ると二人で下を除いた。3階に位置していた僕らの部屋からはそれなりにスリルのある光景だった。

大富豪を終えた班のみんなも再戦を促しにベランダに来る。僕はその場を盛り上げようとみんなを注目させ、下を歩く通行人を指差した。大きな袋を持っていたから宿泊施設のゴミ出しか何かの人だろう。僕は今からすることを思い浮かべたせいで、ニヤリと笑みがこぼれる。みんなが疑問を投げかける中しーっと口に指をあて鎮めた。その通行人が僕らの真下に来ると、少し外れるように唾を垂らした。唾は通行人の3歩後ろに落下しパチンと地面を弾いた。通行人は後ろを振り返ると、上にいる僕らは慌ててベランダから身を引いた。気づく様子もなく歩き出す通行人に僕らは大盛り上がりだった。俺も俺もと次を待望する友達に嫌な予感がしたが幸いにも再び通行人が来ることはなかった。

代わりに唾で花壇の花を的あてのようにして遊んだ。

そこそこの盛り上がりで遊興していると、上から何しているのと声をかけられた。

それはマリを含むクラスの女子達4人だった。

男子と女子は階を分けて部屋が用意されていて、どうやらマリの班は自分らの上の右隣の部屋のようだった。

自分らのしているくだらない遊びを女子が理解できないことを知っていたせいで、それを見られていたかもしれないことから来る恥じらいの感情が、突風の如く僕の全身を打った。上から見られているという構図もさらにそれを強くした。

そんな僕にお構いなく、男子と女子のたわいのない会話が始まり、それを聞いている中で、僕は気持ちを切り替え、冷静に打算的にマリにアピールする術を考えていた。僕は肉食獣が獲物を捕らえるように会話の流れを草食獣に見立て隙を伺い、今だというタイミングで、僕たちが女子の部屋に行くことを提案した。女子達の反応は好感触だったが意外にも同じ班のタケオに反対され、それに続いてカズナリにも先生にバレたらと心配の声を上げられた。

僕は大丈夫だと踏んでいたが、言って分からせるのは無理だと判断し、班のみんなに対する憤りを飲み込んで合流は諦めた。憤りというのは僕についてくれば大抵盛り上がるのにそれが分からないのかというものだった。そのくせ台無しにするのはいつもタケオとカズナリなのだ。2人は小心者のくせに、ふざけ始めるとその悪ノリは暴れ馬の如く暴走する。先程の唾たらしも通行人が来ていたら、さらなる盛り上がりを見せただろうが、最悪の場合唾が当たり、先生に苦情が行き、こっぴどく怒られていただろう。決まって始めた僕の責任が重くなるのだ。まぁこの2人が一番盛り上げ甲斐のある2人なのだが。

再び班のみんなで大富豪に興じているとトントンとドアからノックが鳴った。

みんなで慌ててトランプとライトを隠した。

もう一度トントンとノックが鳴る。

出た方がいいのか、出たら起きていたことを先生に教えるようなものだと勘繰かんぐる僕をよそ目に友達がドアに近づいた。

その間に僕はお菓子やそのゴミを急いで片づけた。

部屋に入ってきたのは先ほどベランダで話をしたマリを含む女子達だった。

予想外の出来事に疑問を抱くも、そんな僕の疑問はさらりと流され、男女の交流は始まる。

女子達は普段と違って髪を下ろしている子がいたり、部屋着だったり、教室でないこともあるのかいつもと違って見えた。

シャンプーの匂いなのか女子特有のいい香りがすることもあって、暗がりでもはっきりと異質な存在を感じた。それは男子とは全く違う生き物に思えた。

初めのうちはみんなで話をしていたが少しするとグループができて、それぞれがそれぞれの話題で盛り上がった。

マリは控えめに会話に参加し、時折見せる笑みに僕は視線だけでなく何もかもを奪われる。僕は役を思い出し何とかそれを演じようとする。

僕の役というのは僕の理想の男性像だった。それはマリからだけでなくほかの女子や男子にも好かれるような人だった。

誰にでも平等に接っし、楽しいことを提供し、誰かの不満を解消する。

マリに好かれるためにマリだけにアピールすることはその役を崩すことになる。

マリにもマリだけを特別扱いするような男に好意を寄せないだろうという願望めいた認識もあった。

遠目にマリの存在を認識しつつも手ごたえのない状況が続く中、僕はまた別の危機を感じていた。みんなの盛り上がりに比例して次第に大きくなる声と、電気やテレビをもつけ始めた時はこの場の崩壊を予見したのだ。この騒音は先生を呼ぶ。そう思った僕はこの場を制御しなければいけないという思いに駆られ、どうにか盛り下げる機会を伺っていた。それを邪魔していたのはマリに好かれたいと願う思いだった。楽しい場を冷ませば嫌われてしまうのではないかと恐れていた。

そう思っていた時にはもう遅かった。

ドンドンと大きなノック音が鳴り、続いて何してるーと低い声がドアから響いた。

先生の声に静まり返る男女。誰一人動こうとしなかった中、僕だけがこれを想定していたからか、いち早く動いた。

芝居が始まり自分の出番が来て壇上への階段を上るような期待と不安に満ちた気持だった。

あたふたする女子を押し入れに隠れるよう呼びかけ、さながら姫を守る王子でも演じるように、さりげなくマリの背に手を当て押入れの中に導いた。

女子が隠れると電気を消して、急いでドアの鍵を開けた。

先生はゾロゾロと中に入り部屋を見渡す。先生は3人で来ていて、よく見るとひどく眠そうな顔をしていた。僕は先生の前でテレビを消してみせた。静まり返った部屋。先生はそれを見て満足したのか、いつまで起きているんだ。早く寝ろとだけ言って部屋を出ていった。先生が3人いたのは好都合だった。1人だと長々と説教しがちだからだ。

先生が去ると静まり返った部屋は、今の危機を乗り越えた喜びで充ちていた。

小声でそれを噛み締め合う男子に対し、女子の方は部屋に戻れるかひどく不安がっていた。

僕は眠そうな先生を見ていたから静かにさえしていれば、もう見回りはないだろうと踏んで女子達を部屋まで送った。他の男子は先生に萎縮したようで部屋から出なかった。

部屋に着くと不安がっていた女子達も先ほどの出来事を興奮気味に分かち合った。

僕は女子達から黄色い声援のような賞賛を受けると照れと役を演じた後ろめたさですぐにその場を後にした。

帰り際にマリと目が合った。それは僕の演劇に確かな手応えを感じさせた。

部屋に戻ると男子の何人かはわずかによそよそしかった。

異性へのアピールは同性からは良く思われないことは承知していたし、僕も役のためとはいえ出しゃばりすぎたことは自覚していた。

しかしそれが気にならないくらい僕は夢中になってマリの姿と、マリの背に手を当てた感触、そしてマリと目が合ったことを反芻はんすうした。


それから2ヶ月もしないうちにマリが僕を好きだという噂が流れた。

そして1ヶ月もしないうちにマリと僕は付き合った。

そして半月もしないうちに僕はマリに振られた。


同じことだった。

小学生でラブレターを書けなかったように、僕からのマリへの行動はやがて止まった。

変わろうとした僕は、変わった風に振舞えた僕は、演じることの無意味さを知った。

偽りの自分が得るものに本当の喜びはなかった。

マリへの好意とそれへの恐れが仮面を作り、その仮面が僕を止めたのだ。

そんな僕を僕は嘆くこともできないだろう。

嘆くにはあまりにも長い時間を要してしまったから。

なぜこうも愛着というものは湧いてしまうのだろうか。

自分のことだから尚更そうなのだろう。


マリとは小学一年生で出会って高校3年生まで同じ学校だった。

マリへの想いも僕にとっては長すぎた。

なぜこうも愛着というものは消えてしまわないのだろうか。

マリのことだから尚更そうなのだろう。


愚かさは嘆く方が自然なのだろうか。

そうだとしたら僕に歌を送ってくれないだろうか。

愚かな僕を嘆く歌。

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