第2話 2、町での立ち会い
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ロンが次に目覚めた時、ロンは治療が終わっていることが分った。
目を開くことが出来たし、体を動かすこともできた。
頭を覆っていた物や腕を締め付けていた治具も全て無くなっていた。
信じ難いことに左手の骨折は治っており、手首も指も自由に動かすことが出来るようになっていた。
右手で額を触ると額のタンコブも無くなっていた。
そして処置室の障子には朝日が低く射し込んでした。
朝日であることは朝独特の匂いから分った。
ロンは起き上がってテーブルから降り、箱車から財布を取って懐に入れ、木刀を持って玄関に向かった。
玄関にはロンの草鞋も別の履物も無かったので裸足のまま玄関先の石畳に出て木刀を一振り払った。
早朝の木刀の素振りはロンの日課だった。
素振りが終わり、型の練習に入った頃、娘が玄関の上がり框(かまち)に腰掛けていることに気が付いた。
又しても娘が近づいたことに気が付かなかった。
「あっ、お早うござります。又しても気が付きませんでした。未熟です。」
ロンは手首が治ったことを忘れてそう言ってしまったことを後悔した。
「あっ。すみません。最初にお礼を言うべきでした。信じ難いことに折れていた手首が完全に治っておりました。ありがとうございます。私は本当に昨日ここに来たのですよね。」
「はい、昨日ここにいらっしゃいました。骨折が治って良かったですね。」
「それにしてもまだ一日も経っておりません。骨折が一日で治るなんて聞いたことがありません。」
「世の中、色々なことがあります。毎朝、素振りをなされるのですか。」
「はい、武者修行の身です。皆様の好意で生活させてもらっております。これくらいは当然の義務だと思っております。」
「いい心掛けですね。骨折の治療のついでに左腕の調整もしておきました。どう感じますか。」
「やはりそうだったか。両手で木刀を振っていても左手に力が有り余っているように感じた。」
「左手だけで木刀を振ってみてくれませんか。」
ロンは左手で木刀の柄頭近くを握って上下に振った。
木刀の重さが急に軽くなった気がした。
まるで細竹を振っているようにも感じたし、柄から先が無いような感じもした。
「驚いた。刃先が無いように動く。」
「良かったですね。これで左手だけで自由に太刀を動かすことができるようになりました。」
「腕の筋肉も強くしてくれたのか。」
「はい。でも腕の力だけ強くなっても強くはなりませんから目も少しだけ良くしておきました。」
「よく見えるようにしてくれたのか。」
「貴方の目は問題がありませんでした。目で見た物を前よりも速く脳に伝えることができるようにしておきました。」
「そうすると便利なのか。」
「相手の動きがゆっくりに見えますから対処し易いと思います。」
「左様か。」
「まだ実感は分らないと思います。」
「そうだ、そなたに治療費を払わねばならない。拙者の手元にはお城で貰った一両しかないがそれでいいか。」
「一両を支払ったら貴方は困りませんか。」
「困るは困るが、其方(そなた)が拙者にしてくれた治療にはそれ以上の価値がある。一両ぽっちでは間に合わないと思える。」
「分りました。治療代として一両をいただきます。でもここで一両分働きませんか。そうすればご出発なされる時に安心できると思います。」
「そうさせてくれるのか。是非ともお願い申す。最初は何をしたらいいのかな。」
「最初は水場で汗を拭って下さい。それから朝食を用意してありますから召し上がって下さい。それから町の米屋に行って薬草を渡して下さい。米屋さんは玄米で一俵くれるはずです。それをここまで運んで下さい。荷車は石段の下の横の方に置いてあります。」
「分った。簡単なことだ。」
「それでは水場にご案内します。」
水場と言うのは家の裏手にあり、山の上から引いてある樋を通って水が流れている。
地面は石畳になっており、樋から流れ落ちる水は一旦石の流しに落ちてから流しの横から石畳の上に流れ落ちていた。
水は石畳の下に流れて行くようになっていた。
石の流しの中央には水の跳ねを防ぐように斜めに切れ込まれた厚めの石盤が置かれていた。
「ここで汗を拭って下さい。それが終わりましたら向こうの小屋の前にあるに野外作業台の所でお待ち下さい。貴方様の寝起きする場所はあの小屋です。便所も備わっております。」
そう言って娘は腰紐に挟んでいた長手拭をロンに渡した。
「分り申した。大の男だ。どこでも眠れる。」
ロンが水場で体を丁寧に洗ってから作業台の横に置いてあった腰掛けに掛けていると娘は母屋の中からお盆を持って近づき作業台にお盆を置いた。
朝食は茶碗に山盛りの白米と皿に載った身欠きニシンの乾物と皿に載った皮を剥いたキュウリが一本とジャガイモの入った味噌汁が一椀であった。
「急なことなので在り合せの物しかありませんがご容赦を。」
「拙者にとっては大ごちそうでござる。いただきます。」
ロンは一言も発せず少しの間も取らず朝餉(あさげ)を頬張った。
一昨日の夕食以来だったのだ。
娘はじっとロンを見ていた。
ロンは娘から薬草の包みを受け取り、石段の下の荷車を引き出し城下町に引いて行った。
件(くだん)の米屋は簡単に見つかった。
広い通りに面している間口の広い大きな店だった。
間口税も高いだろう。
ロンは荷車を邪魔にならないように店の横に置いてからそっと店に入って行った。
ロンには苦い経験から分っていた。
こんな大きな店の場合、ロンは乞食浪人と見なされ、店の対応が厳しくなる。
「頼もう。頼もう。」
「いらっしゃい。・・・何でしょうか。ここは米屋でございます。商店でございます。」
「山の治療所の娘さんから頼まれて薬草を届けに参った。ここでよかったであろうか。心当たりはおありかな。」
「あっ、千先生からの薬草ですか。もちろんここでございます。少々お待ち下さい。主人を呼んで参ります。」
そう言って番頭らしい男は大急ぎで家の中に入って行った。
暫くすると家の中から立派な衣服を纏った恰幅のよい大男が番頭と共に出て来た。
主人はロンに深く頭を下げてから言った。
「私はここの主人の米吉と申します。先生からの薬草を持って来てくれたと聞きました。千先生はお元気でしょうか。いつもはここにまで来ていただいているのに何かあったのかと心配です。」
「拙者はロンと申す。治療所の娘さんに骨折の治療をしてもらった者だ。娘さんは元気だ。治療代の代りに働いている。あの娘さんは医者なのか。『千先生』と呼んでいたが。」
「はい、あの娘さんが医者の千先生です。」
「そうだったのか。あまりに若いので治療院の娘かと思っていた。」
「名医でございます。あの方がいなければ私はこうして商売を続けていることなど出来ません。」
「そうだったのか。薬草はこれでいいのか。」
「はい。いつもの薬草でございます。これでまた命を長らえることができます。番頭さん、お礼を持って来て。」
「かしこまりました、旦那様。」
番頭が隅の木戸から出て行くと、奥から女中が丸い盆に茶菓子を載せて来て「どうぞ」と言って縁台に置いた。
「どうぞお掛けになって茶菓子をお召し上がり下さい。おっつけ番頭が米俵を持って参ります。」
「この菓子を食して良いのか。こんな菓子など近年食したことがない。馳走になる。」
ロンはおそらく初めてであろう甘い和菓子を無言で食べ、緑茶を飲んだ。
「お武家様は武者修行の方ですか。」
「そうじゃ。まだ勝ったことが無いが武者修行中だ。」
「昨日はお城で武術大会が行われたそうですね。」
「うむ。拙者も出場したが初戦で負けて手首を打ち砕かれた。」
「それで千先生の所に行かれたのですね。」
「そうじゃ。眠っている間に治ってしまった。信じ難いが事実だ。」
「信じます。お武家様。千先生は信じられない治療をなされます。」
「治療代に一両渡したが、それではワシが困るだろうと言って一両分働くことになった。ここに来たのが初仕事だ。」
「千先生はそういうお方です。お武家様は良い方のようですね。千先生は悪い人間は決して近づけません。」
「そうか。だがワシが乞食浪人だから哀れんだのかもしれん。」
「千先生は人を哀れむことはしません。お武家様の中になにか光る物があったのかも知れません。」
「うむ。『少し強くしてやる』とも言っていた。今朝、木刀を振っていたら木刀が軽いと感じた。すこしだけ強くなったかも知れんな。」
その時、番頭が丁稚に米俵を担がせて木戸から入って来た。
「旦那様。玄米一俵を持って参りました。」
「ご苦労さん、米俵を表の荷車に載せて括(くく)って下さいな。」
「かしこまりました、旦那様。」
「お武家様、ロン様とおっしゃりましたね。ロン様、玄米一表がいつものお礼です。どうぞ先生に宜しくおっしゃって下さい。」
「了解した。馳走になった。これで失礼する。」
ロンは表に出て荷車を引いてもと来た道を戻って行った。
城下町をお城に向かって暫く行ってから右手に入って山の方向に向かう。
もう少しで曲がり角という時に向こうから陰険な男が仲間2人と歩いて来た。
昨日の武芸試合でロンを負かした男だった。
顔を合わせたく無かったのでロンは顔を下に向けて足早に曲がり角に向かったが曲がり角の少し手前で出会ってしまった。
荷車を右側によけて通り過ぎようとすると陰険な男はロンに声をかけた。
「おや、へっぽこ侍が荷車を引いておるわ。身の程が分ったか、若造(わかぞう)。」
ロンが無視して通り過ぎようとすると仲間の二人が荷車の前に立ちふさがった。
「拙者は仕事中だ。邪魔をせんで欲しい。」
ロンは精一杯の虚勢を示して合理的な理由を言った。
「仕事中だと。木刀を腰に差して何の仕事をしているんだあ。町を逃げ出す準備でもしているのか。積んでいるのは米俵だな。どこから盗んで来たのだ、偽侍。」
「難癖(なんくせ)を着けようとしているのは分った。どうしたいのだ。」
「分ったか。分りがいいな。もう一度お前をぶちのめしたいのさ。こっちは気分が悪いんでな。」
「優勝したと聞いたが仕官したのではないのか。街中での諍(いさか)いは御法度だぞ。」
「お前の左手を壊したのでダメになったのさ。不要な一打ということで不採用になった。お前のせいだ。」
「この往来の中で試合をしようと言うのか。」
「どこだろうと構わんさ。どのみちこの町からは早々に消えるつもりだからな。」
「分った。避けきれないな。また負けるだろうが相手をする。相手はお前か。」
「俺達さ。」
「それでは試合ではないぞ。」
「糞みたいな試合などをするもんか。お前をぶちのめして米俵を貰って行く。」
「それでは強盗だ。」
「何とでも言え。真剣を使わないことを感謝するんだな。生き延びることができるかもしれんぞ。やれ。」
荷車の前の二人が腰から木刀を取り出して正眼に構えた。
荷車の横にいた陰険な男は眺めているつもりでいるらしい。
木刀を右手に下げて動かなかった。
ロンは覚悟を決めて荷車の引手を下し、ゆっくりと陰険な男の反対側に出て腰の木刀を取り出した。
今の状況なら相手は荷車の前方だけにいる。
囲まれるよりずっといい。
ロンは左手に賭けることにした。
左手で柄頭を握り相手に向け半身に構えた。
相手は柄頭を握った木刀では力は出せないし打撃力も弱いことを知っている。
真剣ではない。
ロンの木刀を払えばロンの体はがら空きになる。
左側の男が飛び込んで来てロンの木刀を左に払おうと切っ先を左に払った。
ロンには相手の動きがスローモーションのように見えた。
相手の太刀先を上段に構えながら避けて一歩踏み込みながら相手の眉間に木刀を振り下ろした。
ロンにはロンの木刀が相手の額にゆっくり食い込むのがはっきりと見えていた。
右手の男も木刀を振り上げて飛び込んで来るのが見えた。
その動きもスローモーションのように見えたのだが、ロンの体の動きもスローモーションだった。
素早くは動けないからこのままでは打ち据えられる。
ロンは左手の木刀を素早く動かして相手の太刀を右にはじき、木刀を戻して相手の眉間に木刀を打ち当てた。
この時も木刀が額にめりこんでゆくのが見えた。
ほんの数秒の戦いだった。
二人の男は地面に倒れて行った。
陰険な男は本当に驚いた様子だった。
まさか仲間が一瞬で打ち倒されるとは思っていなかった。
「貴様、まぐれではワシには勝てんぞ。ぶちのめしてやる。」
陰険な男は真剣な面持ちになり正眼に構えた。
ロンは前と同様に左手に木刀の柄頭を握って半身を開いて構えた。
もうそれほど相手が恐いとは思わなくなっていた。
腕が陰険な男よりは劣っていたのかもしれなかったが戦い慣れた男二人を相手にして勝ったのだ。
そして左手は本当に軽々と木刀を操ることができたのだ。
陰険な大男は間合いを詰めて来た。
ロンの木刀に触れさえすれば圧倒的な腕の筋肉の力で太刀をはねとばしてもいいし、そのまま突きに入って行ってもいい。
その男の思惑は最初の段階で頓挫した。
ロンは剣先の払う動きがゆっくりと見えたのでそれを避けて木刀を相手の体幹に移動させ一歩踏み込みながら相手の喉に向けて木刀を突いた。
正確に相手の喉の位置に剣先がめり込み勝負は終わった。
相手は声が出せなく、もがき苦しんでいた。
ロンは木刀を腰に挿して周囲を見回した。
たくさんの見物人がいつの間にか遠回りに周りを囲んでいた。
その中から中年の侍が進んで来てロンの前に立った。
「拙者、証之助と申す。見事な立ち会いでござった。拙者は最初から見ておりました。あの大男が腹立ちまぎれに何か悪さをしないであろうかと心配して後を付けて来たのだ。貴公に非は全くござらん。相手が因縁を吹っかけて来おったのだ。この件は役人に私の方から話しておこう。貴公はここを早く去るべきであろう。役人が来ると面倒になる。貴公の御尊名と居所を教えてくれんか。」
「ありがとうござる。後をよろしくお願い致す。拙者はロンと申す。武芸修行の身だ。当分は山の中腹にある治療所に居ることになった。」
「おお、千先生の所か。分り申した。ロン殿は早めにここから立ち去るがよかろう。」
「本当にありがとうござる。それでは失礼致す。」
ロンは荷車の引手を持って山の方に右手に曲がって足早に去って行った。
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